My Life is Yoga6_“物に振り回されずに生きていく!”
“見えるところをきちんと整えることで、見えないところに影響を及ぼしてゆく”
これがYogaの練習の基本理念。
たとえば、Yogaのポーズを練習することは
“見えている体の部分、姿勢をきちんと正す”ということ。
Yogaのポーズのことを、Yogaの言葉サンスクリットでは、
「アーサナआसन(姿勢、Yogaのポーズ)」
といいます。
『YogaSutra(ヨーガスートラ)』経典では、アーサナとは、
「スカン(快適で)スティラ(静かに動かない)アーサナン」
快適で落ち着いた静かな姿勢でいることと定義しています。
こんな風に目に見える体を扱い、整えることができたら、
今度は見えない部分である呼吸も静かに心地よく整えることができるようになります。
そしていずれ、より微かで繊細な心を鎮め、落ち着かせ、自分自身に快適でいることができようになるというのです。
そのためにはまず、目に見える体を「アーサナ(Yogaのポーズ)」で整えていくのです。
さらに呼吸を整え、
<ヤマ><ニヤマ>という生活の中で守るべき事を実践し、規律によって感覚を整え、
最後に心、思い、考えという目に見えないメンタルな部分を整えてゆきます。
そうやって、“成熟した人間、こうありたい自分”へと成長し、自分を心から受け入れられるようになることがYogaの目標です。
自分を認め、受け入れ、与えられている物に満足する。
焦らず、ガツガツせず、抵抗せず、愚かな野心や無謀な試みを静かに手放すことで
穏やかに成熟した心の広い大きな人間となる、というプロセスがYogaなのですね。
Yogaに生きるということは、
日常的に起こる大変なあれやこれやを、
「なんでもないことさ~、大丈夫大丈夫」
といって乗り切れる心の大きさを養う事。
自分に対して、他人に対して、周囲に対して、世界に対して、
広く、暖かく、余裕ある心の持ち主となるため自分を高めていくためのプロセス。
そんな生き方のスタートとして気持ちをしっかり立て直すために、今要らない物から自由になってみる。
見える部分を整えること、
つまり持ち物を見直し、部屋を掃除するということは、Yogaのコンセプトに則っているのです。目に見える部屋をキレイに整え、生活をきちんとしていくことで、見えない部分、態度や考え方、心がけを変えることができるのですね。
さて、しかし。
いざ部屋片づけモードに入ると、実は部屋を占拠していた大量の物に頭を悩ませられることとなってしまうのも事実です。
「捨てるべきか、使うべきか、あげるべきか、それが問題だ。」
捨てる作業、物を選択する作業はとても消耗し、疲れる作業。
自分のキャパシティーを超えた沢山の物たち。
手放したい、という思いがありながら、同時に「いつまでも自分の物にしておきたい。」という理想とは裏腹な本音=執着もたっぷり・
だから捨てる?
Or
とっておく?
この選択は自分の物に対する態度との戦い。
考えているより、自分のどろどろした不安や恐れや欲と向き合わねばならないとても大変な作業かもしれません。
だから物を片付けるために、気持ちも、やる気も、時間もエネルギーもとられます。
当然、肝心なことができなくなってしまう。
「お片づけなんかより、もっとやるべき大事なことがあるのにぃぃ、ムッキー・。
なんでこんなことにハマってしまったんでありましょう・・トホホホ・・」
物を手放したいけど、手放せない。
持ちたくないのに、持たざるを得ない。
自由に自分のやりたいことのために、時間も能力も使いたいのに、
物質に捕らわれて上手く見動きできない。
こんなことじゃ、Yogaどころか、人生の方向自体を見失ってしまいそうです。
ホントに、なんでこんな悲劇がおこるのでしょうねぇ
我ながらもうこんなことは終わりにしたいもんだ、としみじみ思います。
「ああ、Yogaの神様。自分は、いったいどうしたらいいんでしょう?」
そんな迷えるYogi達に、Yogaの経典はこう言うのです。
「物に埋め尽くされていることも、抱えることも悪くない。
それは、あなたの心の奥の“不安な気持ち””がそうさせているだけだからさ。
心が不安だから、安心しようとして物にすがりつこうとしているだけなのだよ。
目に見えないものより、目に見える解りやすい物質の方が、一見なんだか頼りになりそうな気がするからなっ。
でもな、
それは違うんだ。
目に見える物質は、何かが必ず寄せ集められてできている。
そして、寄せ集められた物は必ず、後にバラバラになる。それが自然の法則。
だから物は必ず変わってしまうし、思いのほか頼りにならない。物は、ある日突然やってきて、ある日突然去っていく。物というのはそういうものだ。
自分の幸せをそんな頼りない物に預けてしまっていいのかな?
それに実は、物を持つことで安心し、物と関わることで喜びを得ると思っているかもしれないが、物を楽しみ喜べるのは、すべて自分の心次第なのだよ。
心に余裕があるから、初めて物を持つ喜びが可能になっているのさ。
例えば、どんなに素敵な物があっても、心が悲しみや怒りに埋め尽くされていたら、素直にその“素敵”を楽しめないだろう?
世界一美味しい物があっても、心に恐れがあったらそれを味わえないよな?
美しい光景があっても、心が孤独で乾いていたら美しさは心に入ってこれないだろう?
憎しみや嫉妬が溢れている心で、本当に笑う事はできないだろう?、
だから本当は、あなたが本当に欲しいのは物じゃないんじゃないかな?
物はあっても、無くてもかまわない。
それでも、自分は大丈夫、幸せで心は静まっている。
物に頼らない、他人に頼らない、条件なしの幸せや落ち着き、自分でいることに対する幸せな感覚が本当は欲しいんじゃないかな?
自分と世界にいらだったり、焦ったり、不安になったりしない、
ゆったりとした心でいつも幸せを感じることができるようでいたいんじゃないか?
いつも涼しい風がサラサラと気持ちよく流れているように、何が来ても、去って行ってもそれに捕らわれない自由な心でいることを、本当は望んでいるんじゃないのかな?
それには、自分の事と、世界に対する信頼がもう少し必要なだけだよ。
生まれた時からずっと、今も、そしてこれからも、自然のリズムと秩序の中で、様々なものを与えられ、奪われ、関わりながら生きている自分を知ること。
世界に対して心を開いていけば、そんな不安になることも、不安から本当に必要かどうかわからないような物ばかり抱えてしまう事もなくなるよ。
だいたい、あなたがこの世界にやってきたときは、まるっきり手ぶらだったじゃないか?!
靴下も、パンツもはかずに、やってきたじゃないか?
なんの能力も資格もなく、言葉すら喋れず、財産も食べ物も持たず、裸んぼの小さな体で突然この世に現れたでしょうが?
そしれいつも絶妙なタイミングで、その都度、必要な物が必要なだけ与えられてきたよなぁ?
それなのにいつの間にか守りにはいって、“私の物、私の物”といろんな物をむさぼり、漁り、抱えきれない以上の物を持ち、見動きが取れなくなってしまっている。
ハハハハ、、 いやー 何とも悲しくも愚かしいこの状態を笑えたらきっと大丈夫さ。
自信もって。
何もなくても、何とかなる。たとえすべて失ったとしても、初めに戻るだけなのだから。
そんなに心配しなくても、世界を恐れなくても大丈夫だと知ることだ。
常に世界はあなたを育て、あなたを見守り、導いてくれてきたじゃないか。
今までもそうだし、これからもそう。心配することはない。
物や状況は、必要があれば与えられ、必要じゃなくなればあなたの元から別の何処かへと形を変えて去ってゆくよ。ただそれだけのこと。
来る物をありがたく受け取り、しばらく共に時間を過ごしたら、潔く見送ろう。
物が去ってしまうのは当然なこと。自然はそういう風に巡っているのだから。
不必要に心配したり、不安になったり、抱えたり、物に心を奪われ、執着する必要はないのさ。
どうやって抱えようとしても、去るものは去るべき時に必ず何処かへ行くことになっているのだからね。
それが自然の法則であり秩序。
逆に、どんなにお金がなくても、資格がなくても、必要な物は必要な時に必ず与えられる。
それが世界のルールだし、“カルマの法則”とも言われる法と秩序なのだから。
自然の法則と秩序に守られながらに生きているあなたは、余計な心配することはない。
そんなことはせんでいい。
それより、今あなたの目の前に連れてこられている人たち、
今あなたの元にある物たちに満足し、それを大事にすればいいんだよ」
というのです。
この心構えで穏やかに求めすぎない生き方を実践することを
「アパリグラハअपरिग्रह(貪らない、慎みを知ること)」 といいます。
それは、「サントーシャसंतोष (満足、足るを知る)」という態度がベースになるのです。
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毎朝先生のお家をお掃除しにいくのですが、ある時こんな物体を発見!
あれ? ちょっと前まで一匹猫だったはずなのに、いつの間にか、ベイベーたちがいる・・
おおぉぉぉ それにしてもかわゆいのぅ~
子猫は今日も元気に生きてます。
でもね、インドでは、猫は不浄の生物なのですよ・・
だからお寺や聖典をいじくる教室には、絶対侵入禁止!
理由は肉食だし、いつも手足をぺろぺろ舐めるから。
犬のと猫は、不浄なり・・
お寺からで頂いた甘い物をあげるのも「パーパपाप(不徳)」になるといいます。
逆に尊ばれている生物は
牛と鹿。
理由はもちろん、彼らがベジタリアン!だということと、
そして、清潔だからということです。
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