心を磨くYogaと瞑想①
今日はYogaをしていて、気になるキーワード
「Yogaで心を浄化しよう!」
ということを見てみたいと思います。
浄化しよう、
とはよく聞くけれど、一体本当はどんな意味?
この辺りにフォーカスしてYogaの意味と目的にせまってみますね。
♨
Yogaの経典『YogaSutra(ヨーガスートラ)』や『バガヴァッドギーター』で教えられていることをみると、
Yogaというのは、
アーサナやポーズのことよりも、
むしろ毎日の生活の中で気をつけて見直したい私達の真摯な態度や生き方、
心構えを正していくことにポイントが置かれています。
たとえば、
「嘘をつかずに、正しいことを常に話そう。」
それが、日々のYogaになりますよ。とか。
ただし正しいことを話すこと、“正直”がよいからといって、
なんでもスバズバ事実をいって、相手を不快にさせてはいけない、とも諭しています。
「正しいことを話そう」
という経典の教えは、
嘘がなく、相手が爽やかで気持ちがよくなる言葉を常に口にすること。
という意味が含まれているのです。
また大事なYogaの心構えとして、
「人の物を羨んだり、やたらめったら貪欲に欲しがったりすることは慎んだ方がいいですよ。」
といいます。
今自分が持っている物、自分に与えられている物に感謝する態度を身につけることも
またYogaだという教えとなっています。
「どうか人の物を盗まないでくださいね。」という教え、
「行い・言葉・考えにおいて、他人や生物を傷つけるようなことをしないように。」という教え、
それらもまたYogaをしていて守るべき態度だと教えています。
こういう小さなことを、生活の端々で守り、実践することが、
人間性を向上させ、成長できる術だというのです。
ただただ年をとり、体を成長することではなく、
“成熟した人間”になること。
それがYoga的に生きるという事だというのです。
さらに、経典はYogaとは、
成熟した人間になるために心をきちんと扱っていくことの大切さを教えます。
だから、Yogaは
“心を鏡のように磨いていくこと。
Yogaは心を浄化することである。“
であるともいわれるです。
経典の言葉では、心の浄化を、
「アンタッカラナ・シュッディअन्त:करण शुद्धि(心の浄化)」
といいます。
心とは“内なる道具”。
内=アンタ 道具=カラナ
それが、心の正体。
心は、私達の内側にあり、
まるで鏡のように、世界を映す道具であるもの。
もし、私達の内なる道具である“心”という鏡に
主観や偏見という歪みや、
好き・嫌い・憎しみ・嫉妬という埃や汚れがなければ、
ありのままの世界を、
ありのままの自分にそっくり映しだせるはず。
そういう歪みのない、汚れのない心は、
何かを憎んだりもしないし、
何かを必要以上に求めたり
執着する必要がない、というのです。
ありのままを心に映すことができる時、
人はストレスやプレッシャーで不安になったり、孤独にかられたりもしない。
自分自身でいることに満足し、
世界に納得し、
常に「シャンティशन्ति(平和、静寂)」でいることができる。
だから心を浄化すること、
それがYogaの意味であり目的である、と
Yogaの経典は教えているのです。
♨
たとえば、私達が自然の光景をみているとき、
心には何の期待も偏見も、憎しみもなく、
ただありのまま、
そこにある自然を映します。
青い空や、大きな山や、
緑の茂った牧草や、
風に揺れる花をみているとき、
心は何とも言えない平和な感じになっていることが多いはずです。
それは、私達の心が何も歪めることなく、
ただ自然の光景を映し出すことができているから。
でも、同じ心に、
“嫌いだな、苦手だな、”と思っている人や、
“敵!ライバル!”と思っている人、
“怖いナ、怒ってるのかな?”と思っている人や
自分にとって不都合だ、と判断した問題や状態が映ったら
私達はソワソワしたり、
不安になったり、
怒りがフツフツと沸いたりと、
けして平和、ハッピーとは言えない状態になってしまいます。
しかし、
苦手、嫌い、怖い、いやだ
という思いは、私達が内側で作り出している感情にすぎません。
ある人を嫌い、と思ったり、
ある状況を、苦手と思う事は、
私達の主観に他なりません。
ありのままの光景を、自分の主観や偏見から歪めて映してみているから、
世界が問題になってしまう、
世界を自分の苦悩の対象にしてしまう。
ただそこにある世界を
自分の心の色で染めて、歪めることで、
本当はなんでもないことを、勝手に問題にして悩んでいる?!
もしそうだったら、何と愚かしいことを日々私達はしているのでしょうねぇ~
トホホ
だからYogaの経典は私達に教えるのですね。
Yogaの究極の目的を一言でいえば
“あらゆる苦悩から自由になること”
もし、ただありのままに巡り、広がる世界を
心が勝手に作り出している歪んだ視点からみてしまったら
世界は苦悩だらけ。
自分の周りは敵だらけ、になってしまう。
これでは居心地が悪いことこの上ないっ!
だからYoga的では、
常に偏見なく、客観的に、
ありのままの世界を映せる心でいること。
そのために心を磨くことが、自分が望む自由への扉だというのです。
それが心の浄化ということ。
心の歪みや偏見的な見方を正していくこと、
そして自由になること、
それがYogaの意味と目的だと経典は教えるのです。
♨
では、どういう事が客観的だというのでしょうねぇ?
「あの人はいつも、客観的だ。」
とかいうと、
なにやらいつも冷静冷徹に世界を冷たく突き放している人、のように聞こえがち・・・
しかし、客観的という言葉の意味には
実はとてつもない深さと、理解があったことを先日先生の言葉を通じて知ることができました。
私の師匠ダヤナンダ先生は、先日こんな風に教えてくれました。
♪
「いいかい?
本当の意味で客観的(Objectiveである)であること、
心に偏見がないということはな、
慈悲深くあること(compassion)なんだよ。
客観的というのはね、
慈悲のことをいうんだ。」
そういって、にっこり笑った師匠。
しかし
?あり?どういう事?と顔をしていると
師匠は、こう続けました。
♪
「客観的になるということは、
自分の周りの人が何をしていても、
他人がどうあろうとも、
彼らや彼女のあるがままを認めることができるという事なんだ。
優しさ、広さ、大きさ、慈しみ。
そんな、ビッグなハートをもつことだ。
大きなハートで世界を受け入れること、
ゆとりを持って世界をみることができること。
その心と態度のことを
本当は客観的というのだよ。
それは、慈悲に他ならないだろう?」
!!
Oh!
な、なるほど。
客観的になるとは、冷たく突き放すことではない。
かといって、
感情的になってべたべたすることでもない。
客観的になるとは、広さと優しさをもって世界に接すること。
慈しみ深く人々と関わること。
その真の意味とは、
自分も含めた、いろいろな人々を、
広い心で受け止め、
優しくあることができるということ。
それが、慈悲の心。
この慈悲深い心が、客観的な態度であるというのです。
さらに、師匠が教えてくれたことによると、
この態度は自然に身につくのではないらしい。
“慈悲=客観的な物の見方”は、積極的に練習する必要がある、というのです。
自分の人々に対する態度を慈しみ深く、客観的に、
Yoga的な態度を常にもつためには、
日々の心がけ、
毎日の練習と積み重ねあるのみ!だというのです。
客観的であるように。
優しく広い心であるように。
他人のあるがままと、自由を認められるように。
誰の事もスキ・キライで判断せず、
勝手な思いで決めつけたり、
自分の考えを押し付けたりしないように。
習慣的になってしまった自分の偏見や、偏狭的な物の見方を変えていくこと。
スキ・キライという自分勝手な(主観的な)条件づけをして他人をみることを
意識的に、
意志の力で手放していくことだというのです。
☆
だから
Yogaの実践は、強い意志を持って成し遂げる修行、となる。
そして、
Yogaの達成とは、日々の練習の積み重ねあるのみ、ということになります。
ウムウム・・
しゅ、修業かあ・・・なんだか厳しい響きだなぁ
でも、よく考えれば、Yogaのアーサナ・ポーズもそれなりの修行をして、身につけていったことでありましたなぁ~
いろんなYoga的なポーズは自然に、ただぼんやりしていても、身についたりはしませんでしたよ。
健康になりたい、強くなりたい、
ストレスに負けずに清々しい心と体で毎日過ごしたい!
健やかになるように、よい習慣をつくって、
もっと自分を大切にしていこう!
そういう気持ちで始めたYogaは、毎週クラスに参加したり、
自分で練習したりすることでだんだんとできてきたはず。
真っ直ぐに伸びた背筋や、
力がちゃんと収まった下腹や、
集中力、バランス力、ゆっくりとした呼吸や、落ち着いた態度、
自分や他人を労わり、ちゃんとケアしようという思いは
Yogaの着実な練習があったからこそ身についていったはず。
“慈悲、優しさ、客観的な態度”を身につけていくことも
同じこと。
アーサナとように練習する必要がある。
何十年も積み重ねてきた偏見や主観を押し付けて世界を見る見方を変えていこうとする意志と努力。
好き・嫌いという感情や自分の内にだけにある価値観や都合のよい思いだけで世界を判断して、
他人にレッテルを張って、世界と戦い、違和感を覚えたりしていることを変えていくこと。
それは、もう偏見ということすら気がつかない程、自分の中で習慣になってしまったかもしれない。
こういう自分の思い、心の動きを毎日の生活の中で、冷静に見て、
客観的であろうと努力すること。
そうやって、自分の持っている習慣や傾向とは違う態度を持って、
意図的に考え方や行いを変えていくことを
「プラティパクシャ・バーバナप्रतिपक्ष-भावन(思いと正反対の事をする態度)」
といいます。
(『YogaSutra(ヨーガスートラ)』に記されている修行法)
もし、嫌いな人がいるなら、あえて笑顔をつくるとか。
憎い人がいたら、あえてちょっとしたスイーツをわたしてみるとか。
苦手な状況に遭遇したら、
あえて「今がビッグになるチャンス!」
といって己を奮い立たせるとか。
こういう態度を意図的にすることが、自分を成長させることになるというのです。
これはやっぱりぼんやり生きているだけでは、けして身につかない。
だから、
心を浄化する、ということは、
自分の今までのパターン化された思い方や態度を改めること。
そうやって、客観的な見方を養い、
慈悲深い自分、優しく大きな心をもった成熟した人間になるべく努力をすることを
行いのYoga
というのです。
行いのYogaは、サンスクリット語では
「カルマヨーガकर्मयोग(行いのYoga)」ともいいます。
この心の浄化について、
さらに来週じっくりみてみましょう!
♨・・♨・・♨・・♨・・♨・・♨・・
さて、わたくし2週間後の8月1日~5日まで日本に、一時帰国することになりました。
今回の記事で申し上げた
“毎日、心を磨くYoga”=行いのYogaについて
は、『バガヴァッドギーター』の3章で述べられています。
毎日どうやって生きていくことが、Yogaになっていくのか?
ここにフォーカスして、今私がインドで学んでいることをお話しさせてもらおうと思っています。
8月5日(日)13:00~14:00
お時間があれば、ぜひぜひ。
http://www.underthelight.jp/news/2012/07/825_yoga.html
その他の予定
8/2(木) 14:00-14:50
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』
8/2(木) 15:00-16:00
『タイティリーヤ・ウパニシャッド』から学ぶ自分の本質、「私とは何か?」
【朝の瞑想クラス】
http://www.underthelight.jp/utl_news/2012/07/8234_3.html
8/2(木) 6:30-8:30
【瞑想で、悩みから自由になる瞑想】
8/3(金) 6:30-8:30
【嫉妬や憎しみ、怒りを弛める瞑想】
8/4(土) 6:30-8:30
【深く、自分の本質を見極めるための瞑想】
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インドには、父の日、母の日、姉の日、兄の日、
という
特別にその人を敬う日があるのですが、
”先生の日”
という日もあるのです。
先日、その先生の日である「グルプーニマ(先生を讃える日)」
がやってきました。
日頃教えを教わっている先生に感謝する日です。
先生の足は、敬意を示す象徴
これが印度流の尊敬の仕方。
足に沢山のお花を捧げて、尊敬と感謝を示します。
このオレンジの衣の方が、まさに”ビッグハート”の持ち主である師匠
ダヤナンダ先生。
その左下のかっぱのような小童が、あたくしですよ。
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