罪を滅ぼし、迷いのなく生きるためにできること。Yoga的祈りと「プージャपूज(儀式)」
現在勉強している『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』の1つ
『タイティリーヤ・ウパニシャッドतैत्तिरीयोपनिषत्』には
『ヴェーダ(聖典)』が記されている言葉であるサンスクリット語、そしてマントラに関して、興味深いことが記されているのでお伝えいたします!
それよると、『ヴェーダ(聖典)』に記されたサンスクリット語の「マントラमन्त्र(聖句)」を唱え、瞑想し
日々己を磨き、研ぎ澄ましている者は、特別な力や輝きが沸きだしてくるというのである。
その力の名は、
「ブランマヴァルチャスब्रह्मवर्चस्(「ブラフマンब्रह्मन्」を学ぶ者の力、輝き)」。
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』によると、精神的な修行として「マントラमन्त्र」を唱える事によって、独特の輝きや力がミナギってくるという。
どうも『ヴェーダ(聖典)』に記されたオリジナルのマントラは、本来私たちがもっていながらも発揮しきれていない可能性や潜在的な力を目覚めさせる力を持っているらしいのだ。
ふむふむ。
といっても、この力は超常現象を起こすようなパワーではなく、
あくまでも現実的。
マントラや聖典の教えにフォローすることで、知性と意志の力が増すということを意図しているのですがね。
それにしても、
聖典の最終章である『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』に記されている以上、
我々の五感や限られた知性では知りえない、計り知れないエリアの事実を示していることは確か。
だから私たちは自然に、聖典の持つこうした力に引き寄せられ、
Yogaが生まれた場所から遠く離れた島にいるのに、なぜかYoga的な考えにしびれたり、
「マントラमन्त्र」というものに魅力を感じたりしているのかもしれない。
・・・
そう、そういえば。
こうして、改めて聖典にいわれてみれば
「確かに、そうかもなぁ~、「マントラमन्त्र(聖句)」には力があるよな~」
と思う事がある。
☆
インドに来ると、あたりまえだけど毎日沢山のインドの人と接することになる。
日々彼らと接していて驚くことは沢山ある。
例をあげれば、
まずはホントに本気で、みんな毎日手づかみでカレーを食べていること。
漫画や映画のように、女の人はサリーという長い布を巻きつけて町を闊歩していたりする。
さらに男も女も、子供もご老人も、もれなく、みんなオデコになんか黄色や赤や黒い奴をつけている。
そして、多くの人がとても明るく、たくましい。
今生、富に恵まれた人も、そうでない人もいて、なかなかにインドの暮らしぶりは大変そうなのだが、なんとなく、みんな
「今は大変だけど、最終的にはどうにかなる!」
と思っている。
「きっと、神がどうにかしてくれる。」
と固く信じきっている。
「俺を含んだ世界を創り、
その世界を運行させている神が、ピンチで困り果てている俺を救わないはずがない。」
と確信している。
“世界は自分が対してきっと良いことをしてくれている。”
そのことに対して皆、物凄い自信を持っている。
完全に世界を信頼し、委ねている態度とそれゆえの底抜けな明るさ。
それにはとても驚かされる。
しかし
そんな数々の驚きの中でも、
意外な事実としての驚きは、Yogaをしているという人は、実はインドにはそんなにいないという事実。
例えていえば、
国技だからといって、日本人が皆相撲の朝稽古をしていたり、週末にシコを踏んでいたり、合気道や柔道や剣道にいそしんでいるわけではないように。
同じ様に、
インド人だからといって、皆が体を磨きあげるようなYogaをしているわけではない。
むしろクネクネポーズで瞑想しているのは極少数派・・
インドにおいて、私たちが今YogaスタジオなどでしているYogaをしている人は本当にとても少ない。
むしろ、体を動かしたり、息を止めたりするようなYogaのテクニックを練習するより、
日々いかに心の葛藤なく健やかに生きるか?
という、「カルマヨーガकर्मयोग(行いのYoga)」や瞑想や祈り、
人生におけるゴールを達成するための道として、Yogaはとらえられている
人として理想的なゴールに真っ直ぐ進んで行く生き方・術として、Yogaという道がある。
だから、インドの人にとってYogaは
運動や健康体操といよりも、自由というゴールへ向かうための生きる道という意味の方が一般的なようなのだ。
“ブレのない生き方”
それが、
多くのインドの人にとってのYoga。
インドの人にとってYogaとは体の形状をどうこうすることよりも、
「いかに生きるか?」
という考え方の方がずっと深く、一般的に浸透している。
毎日の些細な出来事の中で、人間的成長と心の浄化のために、自分の生き方をコミットできているか?
為すべき事をし、聖典の言う人の道に外れたことをしていないか?
世のため人のために貢献できているか?
という日々の生き方をYogaにする「カルマヨーガकर्मयोग(行いのYoga)」の考え方が
テクニック先行のYogaより広く行渡っている。
このYoga的な理解や知識のベースは、『ヴェーダ(聖典)』に支えられている。
インドの多くの人が敬う『ヴェーダ(聖典)』の教え沿った生き方。
それが、生き方としてのYoga。
日々生きることそのものをYogaにするということ。
たとえば
毎日マントラを唱え、瞑想をし、
自分を取り囲む世界と繋がるために祈り、
「プージャपूज(儀式)」したり、
聖典の規律に従って、生物に優しく、慈悲深く、肉食を避け、
自己を惑わすような習慣や飲酒を避け、
感覚的な快楽に溺れるような生活ではなく、
聖典に記された規律あるスタイルで生きること。
そういう風に毎日の暮らしそのものをYogaにしている人たちは、やっぱり沢山の人々の中にいても、なにか外見や滲み出ている雰囲気が違うのだ。
町にいけば、沢山のインドの人には会うが、『ヴェーダ(聖典)』に従い、Yoga的な生き方にフォローする人達は、その独特の雰囲気や、たち振る舞いからして違う。
引き締まった顔つきや強い目の輝き。
精神的な修行のための“清潔”を守る些細な習慣やしぐさまで、
他大勢のインドの人達の中にいてもはっきりとした違いがある。
『ヴェーダ(聖典)』に生きる人達には皆、
なにか静かなる厳に満ちた雰囲気を感じるのだ。
“謙虚さの中にも滲みでている自信あり”というような落ち着きと安定感。
威風堂々とした姿勢を保ち、
はっきりと強く、真実を伝える言葉を語る。
事実を見つめる真っ直ぐな眼差しと、輝く眼の力。
聖典にバックアップされた知識と規律に支えられ、
生きる道を自ら定め、
迷いを捨て去った者が持つ独特な強さ。
規律正しい生活から感じられる”清潔感“。
さらに、自分であることにあることに誇りを持ち、世界のあるがままを認めている心の大きさ、広さ。
自分の道が正しいということを確信しているがゆえに、全体的にとても自信があり、
“余裕”すらあるようにみえる。
それが全体的な
落ち着きはらった表情と佇まいに漂っているのだ。
沢山の町ゆくインド人の中でも、
Yoga的な生き方をしている人と、そうでない人
この間にそんな違いを見てしまう。
その違いは、外人のひよっ子「ヨーギーयोगी(Yogaの実践者)」である、わたくしが見ても明らか。
やっぱり、『ヴェーダ(聖典)』に支えられたYogaに生きる人、
日々マントラやスピリチュアルな修行で己を高めている人は
明らかに大勢の人の中にいても引き立っているのだ。
清楚でシンプルな外見をしているのだが、それでも静かに、強く輝いている。
実は、どうも彼らのこういった輝きや力や強さは、『ヴェーダ(聖典)』のマントラや「プージャपूज(儀式)」をすること
で得ることができるらしい。
☆
『ヴェーダ(聖典)』のマントラや祈りの言葉は、唱えられることで内なる力を人にもたらす。
生きることにおいて本当に欲しいものをはっきりと悟り、
迷いがなく、ただひたすらに真実を見極めようとする力。
その力によって、知性に何か小さな革命のようなことが起こるという。
心から望むことのために必要なことを記憶し、
肝心な時に肝心な情報がうまく引き出せるような知恵の力が増し、
深い思慮と思いを実現する実行力が湧く。
そういった力をYogaでは総称して「シャクティशक्ति(力)」と呼んでいる。
『ヴェーダ(聖典)』を学んだり、そこに記されたマントラを唱えたり、Yoga的な生き方をしている人々には、
強い「シャクティशक्ति(力)」が沸きおこり、
その力が、外見の何とも言えない目の力や輝きとなって現れているのだというのだ。
『ヴェーダ(聖典)』を学ぶ人や『ヴェーダ(聖典)』のマントラを日々唱えている人だけに備わる、独特の落ち着きと強さと輝き。
それが、「シャクティशक्ति(力)」の中でも特に、
「ブランマヴァルチャスब्रह्मवर्चस्(「ブラフマンब्रह्मन्」を学ぶ者の力、輝き)」という力だといわれる。
この力が、その人の輝きとなって、多くの人を惹きつける。
『ヴェーダ(聖典)』を学ぶ人のもつ独特の輝きの秘密はここにある。
そして、なんと、この力や輝きは私たちも得ることができる!
マントラによってもたらされる変化は、インド人じゃなくても、努力と意識次第で、人生のどんなポイントでも起こすことができるという。
今までの人生で『ヴェーダ(聖典)』について何も知らなくても、
ある時点からYogaをはじめ、
ちゃんと日々の生き方の中で後悔や葛藤なく
自分の為すべき事をする「カルマヨーガकर्मयोग(行いのYoga)」に従事し、
聖典に記されたサンスクリット語で正しい発音でマントラを唱え、
怠ることなく日々瞑想をし、
『ヴェーダ(聖典)』の「プージャपूज(儀式)」をしたり、それに代わる祈りを続けることで、その人は以前とは全く違う
輝きを放つといわれる。
「この人には、今何か大きな変化が今起こっているに違いない!」
と、だれもがいうような、そんな解りやすく明らかな変化がやってくるらしいのだ。
☆
インドには、今もたくさんの人々に尊敬される、気高く慈悲深いスピリチュアルな巨匠たちがいる。
彼らは、『ヴェーダ(聖典)』に記された規律ある生き方に従い、毎日サンスクリット語で『ヴェーダ(聖典)』のマントラを唱えている。
そして彼らに続くYoga界の輝ける巨人のような人たちも、毎日マントラを唱え、瞑想をし、儀式を欠かさない。
そうやって明晰な知性と真実を見極める鋭い感性を磨きあげ、
事実をみる目を養い、
静かなる強い力を日々の努力によって高め続けている「ヨーギーयोगी(Yogaの実践者、達人)」たちがいる。
『ヴェーダ(聖典)』の教えに従う生き方や、祈りや儀式、マントラには、人の潜在的な力を呼び起こし、
Yogaやスピリチュアルなゴールを目的とする生き方に人を目覚めさせ、
引きあげる力があるのだということが、彼らの存在によって証明されている。
☆
この特別な力「ブランマヴァルチャスब्रह्मवर्चस्(「ブラフマンब्रह्मन्」を学ぶ者の力、輝き)」を加速させるのが、前回ここでも紹介したマントラを使った瞑想をすること。
そしてもう1つが
「プージャपूज(儀式)」という祈りである。
「プージャपूज(儀式)」とは、
世界を構成するエレメント(空、風、火、水、土という五大要素)を用いながら、
それらに繋がるための行い。
これらのエレメントを統制し、秩序を作り出している法則であり力の源である『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』という存在を理解し、祈りをささげ、世界との一体感を事実として見るために行う。
より深い理解のレベルで、
私たちが世界とは離れていない、
世界と自分は繋がっている、
という事実を理解するための行い。
「プージャपूज(儀式)」がもたらす1つの結果は、自分と世界の繋がりを強くすることができるということ。
私たちのこの体も、機能も考えも、感情も五感も、世界を構成する空、風、火、水、土という5つの要素だけできている。これらの要素は無秩序にバラバラに動いているわけではなく、1つの法則に貫かれている。
この物質をつくりだし、世界を動かしている要素と、
それらを秩序あるルールに基づいて動かしている法則と力を、
聖典は『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』と呼ぶ。
「プージャपूज(儀式)」をすることよって私たちは、空、風、火、水、土という5つの要素と繋がりながら、
それらすべてを統率している根源的な力であり、ルールである『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』との繋がりを
より強く、深めることができる。
その方法は、
マントラという祈りの言葉や、水や火やよい香りに象徴された5つの要素を使って、
『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』を自分の祈りの対象として、自分の前に迎え、
祈りを通じてコミュニケーションを積極的にはかること。
聖典に記された言葉や行いによって目の前に迎えた『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』に向かって、
私たちは、その力を讃えるマントラを告げた後、自分の望みや願いをはっきりと宣言することができる。
そこで宣言したことが叶えられるように祈り、願う。
そうして、この行いに対する結果は、世界からのレスポンとして喜んで受けとめる。
積極的に世界に働きかけ、世界からレスポンスを受ける。
祈りや儀式を通じて、私たちは全体世界との相互コミュニケーションを図ることができる。
こういった『ヴェーダ(聖典)』に基づく祈りや儀式は、サンスクリット語で、「プージャपूज(儀式)」と呼ばれる。
「プージャपूज(儀式)」の“プ”
「プーपू」という音は、自分がした良からぬ行いの結果、罪、後悔、混乱という形になって現れる「パーパपाप(不
徳)」の意味。
過去にやってしまった、言うに言われぬ行いの結果である「パーパपाप(不徳)」を、
「プージャपूज(儀式)」によって、取り除き、破壊することができるという。
「プージャपूज(儀式)」の“ジャ”
「ジャज」という音は、「ジャンマजन्म(生まれ変わること、生きること)」という意味。
「プージャपूज(儀式)」によって、生まれ変わって今を生きている目的をはっきりさせる。
自分の生きる目的を成就させるために、
世界の様々な目に見えるものも、見えないものも含んだキーファクターを味方につけるためにする行いが「プージャपूज(儀式)」。
簡単にいえば、運を掴み取るための行い。
さらに、祈ることのもう一つの大事な意味とは、
“自分の中に眠っている本当に欲しいもの、本当に必要な物に対する素直な思いを汲み上げるということ
私たちは、何も演じず、自分であるがままで素直になれる存在を目の前に迎え、繋がることで、心を思いっきりオープンにすることができる。
そうやって偽ることなく、心をオープンにした状態で願い、祈ることが、私たちの心の奥に眠る本当に欲しいものを見つけていく作業となる。
自分でも気がつくことがなかった、“本当に欲しいもの、求めるべきもの”を見極める知性を揺り動かし、目覚めさせる。
それが、この生において、本当の生きる目的を呼び起こし、実現していく大事なプロセスとなる。
もし私たちが、自分が本当に望むものは何か?そのためにはどうすればいいのか?
それを見つけることができたら、生きることに対する迷いはなくなる。
迷いなき道はまっすぐと望むゴールへ繋がる。
そうやって歩く道は、ブレのない生き方となる。
自分が進むべきゴールを確信し、迷いない道を歩むことは、私たちの中からある種の不安や悩みを取り除き、
強さと自信をもたらす。
迷いなきYoga的な人生は、初めから最後まで、ただ1つのゴール、自分が心から望むことに繋がった喜びと希望に溢れた旅となる。
何が途中で起ころうとすべてが“道の途中で出くわす興味深い出来事”になる。
どんなものにも捕らわれることなく、何が起きても楽しめる。
もし私たちの生きることが、こんな風に迷いない旅のようだったらなんていいのだろう!
そう思うなら、祈りや「プージャपूज(儀式)」や瞑想は私たちをガイドしてくれる術となる。
祈ることで、私たちは自分の中の本当の望みを知ることができるのだから。
ここに毎日祈り、「プージャपूज(儀式)」を通じて世界に自分の望みと願いを告げる意味があるのだ。
さらに、私たちは自分の力ではどうにもならない様々なチャレンジや、困難な出来事に出くわしたときにも、それら
を司る大きな法則に対して祈り、解決を求めることができる。
祈りという行いが、困難を打開する力となり、
スムーズな問題解決のキ―となる“運”を味方につけることになるからだ。
私たちはだれもが、祈り、望み、行いを自由に決めることができる意志を与えられている。
それはとても得難い、人間だけに許された特権だといわれる。
だからこの力をフル活用しない手はない!
「欲望を持つことはよくない。」
とか
「祈りを自己中心的な野望のために使うなんてとんでもない、」
なんてブリッコしたり、ウジウジする必要はこれっぽちもない!
望むことは力だ。
願えることは「シャクティशक्ति(力)」なのだ。
人の道を踏みはずさずに、誰も傷つけることなく願いを叶えることができるのは、
人間に与えられた特別なパワーであり、
それこそが自由へ繋がる大切な要素だ、というのが聖典のヴィジョン。
私たちの様々な行いの中でも、祈りは100%自由な意志に基づく特別な行い。
だから、私たちは祈りという行いの力をドンドン使い、望むことを叶えることができる。
自由に望み、希望を叶えることを恥じることも、悪く思うこともない。
祈りは毎日、どんな時にでも、どこにいてもできる。
『ヴェーダ(聖典)』に記された「プージャपूज(儀式)」を毎日するのは困難かもしれないけれど、
「プージャपूज(儀式)」の中心的なスピリットである“真摯な願いを祈りの形で世界に伝えること”は、心の中で思う
だけでも、言葉にするだけでも充分有効な行いとなる。
思ったり、願うことは、心の行い「マーナサカルマमानसकर्म(心の行い)」。
言葉にすることは、「ヴァーチャカルマवाचकर्म(言葉の行い)」。
どちらもちゃんとした「カルマकर्म(行い)」である。
思いの上で祈るだけでも、言葉にするだけでも、『カルマकर्म(行い)』である以上、
祈りには必ず結果がもたらされる。
だから、祈りはれっきとした行い。
祈るという行いをすることで、運命を変えていくこともできる。
また、祈ることによって、私たちは自分の心を完全に開け放つことができるようになる。
どんな悩みも不安も希望も、オープンにして開け放っていい存在を祈りの対象としてもっていることは、
私たちに強さを与えてくれる。
完全に委ね、自分が心からやりたいこと、やるべき事、望むことを何でもはっきりといってみる。
それが自分の内面を深く掘り下げることになる。
手を合わせたり、手を鳴らしたり、何らかの尊敬の気持ちを表現する行いを添えながら、
心の中の思いをすべて開け放ってしまおう。
悩みも、不安も、心配も、怒りも、どうにもならない思いのすべてを世界に向かってオープンにして、預けてしまおう。
そうして、何にも歪められない形で心の奥にしまわれている、“本当に望んでいること”を素直に呼び起こして、世
界に堂々と宣言しよう。
祈りの対象は、何か自分にとって特別な存在ならなんでもいい。
日本の神社やお寺で祈りの対象となっているものでも、
インド発の神々でも、山や海や自然界のものでも結果は同じこと。
自分にとって、それが全体世界を象徴していて、心を開け放つことができる存在となるのなら、どんな象徴に祈ったとしてもオッケーなのだ。
純粋に自分と世界を繋げ、コミュニケーションをとっていくために
祈りや「プージャपूज(儀式)」はある。
余裕があれば、蝋燭の火を灯したり、新鮮な水やフルーツを捧げたり、
祈りの言葉やマントラを唱えたり、澄んだ音色のベルや、いい香りのお香を焚くなどすればベター。
でも形式よりも、肝心なことは心からの真摯な思いで行いをするということ。
私たちは毎日の中で負担なくできるだけのことをしていこう。
ストレスにならず、プレッシャーにならないことを続けてみよう。
祈りや「プージャपूज(儀式)」で心を楽にし、
心をリラックスさせることで
自分の中にゆとりと自由なスペースを作っていく。
心のゆとりがあればこそ、Yogaの修行もスムーズになり、精神的な活動もより深められ、
世界にしっかり足をつけて生きながら、自分自身の真実と世界の真実を見据え、
自分の生きる目的を達成していくことができるようになる。
毎日の祈りや「プージャपूज(儀式)」は、私たちに明るさと、強さをもたらしてくれる。
そこにマントラをプラスして、
力と輝きである「ブランマヴァルチャスब्रह्मवर्चस्(「ブラフマンब्रह्मन्」を学ぶ者の力、輝き)」を高めていけば
この世に怖いものなどない!!
☆☆
そういうわけで、2012年もあっという間に3ヶ月経過しましたが、
体と心によいYoga的習慣
瞑想、
そして、祈りと「プージャपूज(儀式)」
この3つを快適に続けてゆきたいものですね!
ではでは、
☆
さて、次回からぐぐっと趣向を変えて
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』を少しづつ原文と共にご紹介していくシリーズにした
いと思っています。
Yogaをしていると必ず出くわす「ブラフマンब्रह्मन्」、「アートマンआत्मन्」という言葉が出てくるオリジナルの書が
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』。
日本語では、奥義書、といわれ大変難解且つ、ミステリアスな存在に思われている。
・・・でも本当はとても面白い。
初めとしては、『バガヴァッドギーター』の原典にもなっている
『カタ・ウパニシャッドकठोपनिषद्』をスタートさせる予定。
『バガヴァッドギーター』には、この『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』のマントラが幾つも
引用されています。
少年ナチケータと、死の神閻魔大王の間で繰り広げられ興味深いる問答。
その対話の中で、人間の真実が明かされてゆく。
それは、『バガヴァッドギーター』のアルジュナとクリシュナの対話にも引用され、
何度も人々に深く考えられ、多くの人を自由にしてきた教え。
これを一緒に見ていけたらいいと思っています。
どうぞお楽しみに!
**************************************************
朝、道を歩いていたら、なにやら向こう側に怪しげな気配・・
なんかいる!!
なんだろ?
よってみると、 や、や、野生の孔雀。
朝からこんなド派手な生物がうろちょろしているとは。
インドって、なんというか
生命が生生しい。
で、
その後このお方は、家の屋根にのったり、空を飛んだり、求愛の羽を広げてみたりと、
かなり自由自在に御振舞いに・・
その後「風見鶏」のように屋根の上でしばしたたずみ
「風見孔雀」のステータスを満喫されていた・・
うん、自由ってすばらしい。
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「向井田みお:ヨガ哲学の旅」カテゴリの記事
- ヨガ哲学の旅(2010.03.19)