<Yoga的心の浄化_瞑想の前にする準備⑤ 恐れに向き合う。LAST>
『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』の態度で毎日をYogaにする。
他人との比較や競争の中で、小さな勝ち負けを気にしたり、小競り合いに夢中になっている場合じゃない。
もっともっと、大きなビジョンをもって、大きなスケールで、でっかくしっかり生きていく。
世界と繋がる自分。
世界に行いを放ち、世界からもたらされたものを受け止める。
世界と『カルマकर्म(行い)』を通して、ダイレクトに関わり、コミュニュケートしている。
自分と世界。
自分の中に広がる世界、世界の中に開かれている自分。
自分と世界、という大きなスケールで、全体世界との繋がりを意識的に深めようとする生き方をしているうちに、
世界と自分はただ1つの真実、という聖典が伝える教えが
「なるほどっ!」
というゆるぎない納得になる。
聖典の示すYogaの教えは哲学ではない。
自分自身の事実なのだ。
だから、聖典の教えは教科書に書いてある哲学ではなく、“まさに自分の事実”として実感できてこそ意味がある。
自分の中に揺るがない真実が確立されることで、私たちはYogaの目的を達成することができるのだ。
私たちが事実を理解した時、
Yogaの語源である「ユジュ √युज्(繋がる)」が指し示している本当のユニオン(繋がり)、ワンネス(ただ1つの事実)が果たされる。
広大な世界と一体である自分を理解するために、私たちは毎日の行いをYogaにする。
何からも離れていない。
すべてと繋がり1つのハーモニーを築いて、1つの大きな世界としてダイナミックに動いている。
だから、何にも恐れない。
自分が世界と離れていないことを知る人が、一体何を恐れるというのだ?
どんな恐れも、原因は何か自分と離れているものがあるという思いと認識から起こっている。
私たちが無垢なベイビーだったとき、世界なんてまるで恐れていなかった。
自分がすべてで、“自分で在ること”そのものが世界だった。
しかし、それは無知ゆえの祝福。
あれから何十年もたって、細々したことをたくさん知り、沢山の人や関係に揉まれているうちに、私たちはすっかり自分であることに自信を失っていたりする。
状況や関係に恐れを持ち、不安や孤独になっていたりもする。
恐れから、自分を世界をから守ろうとして壁で囲えば囲うほど小さな自分が浮き彫りになってしまう。
目の前の些細な出来事にとらわれているうちに、自分が何者かわからなくなっている。
初めから私たちは、自分自身であるだけで満ち足りていたはずなのに。
世界と離れることなどないという、事実はどこにも隠れたりしていないはずなのに。
それでも、毎日深く眠る時、私たちは世界に対して“無敵な自分”を実感している。
私たちは深く眠る時何も恐れない。
なぜなら、自分と離れているものなど何もないから。
しかし、一度夢の世界の住人になったり、目覚めて沢山の人々と関わる世界に生きると、
私たちは恐れ、不安になり、“自分で在る”ということだけで感じていた安心や心地よさを見失ってしまう。
本当の意味で目覚めている人は、沢山の物や人々に囲まれながらも、様々な状況にいながらも自分自身であることに納得しリラックスしている。
自分自身である以外に、差し迫った欲求やプレッシャーがない。
心地よさやリラックスを自分であること以外に求める必要がないのだ。
「シャンティशन्ति(平和、静寂)」という言葉で表現される“心地よさ”。
静寂、静けさ、落ち着き、平和、自由とは自分自身の事であると知っているから、どんな時もゆったりと世界に寛いでいる。
世界や事実が見えていない深い眠りや瞑想状態に逃げ込む必要もない。
意識をはっきりさせながらも、何も恐れない。
世界と自分が1つであることを知る者は、大きく広い世界と1つである自分に寛ぎ、自分であることを喜んでいる。
ビクビク不安になったり、セコセコ守ろうとしない。
コソコソする必要も、ガツガツすることもない。
ドンドン前に前に進む必要もなければ、ウロウロ迷う事もない。
自分自身であるがまま、堂々と世界に立っている。
誰がいようと、どこにいようと、何をしていようとも関係ない。
自分の真実が何かを知り、自分が何者であるかを理解し、自分であることに誇りをもって、生きている。
何が起ころうと世界はあるようにある。
ただ1つの秩序でダイナミックに今、この瞬間も休むことなく巡っている。
この事実を受け入れて、うろたえることがない。
*
Yogaはこんな風な大きな人間へと成長する道であり術なのだ。
事実に基づいて、強く揺らがない心と態度を養うための方法、手段といっていもいい。
ちなみにサンスクリット語で、方法や手段は「サーダナसाधन(方法、手段)」という。
Yogaは自分自身であることを認めるために生きる方法、「サーダナसाधन(方法、手段)」なのだ。
「アーサナआसन(姿勢、Yogaのポーズ)」や「プラーナーヤーマप्राणायाम(呼吸法)」はもちろん、生き方の態度を改める「カルマヨーガकर्मयोग(行いのYoga)」も、
すべてYogaは私達が本当に望み、欲しいと願っていることに繋がるための「サーダナसाधन(方法、手段)」である。
*
『バガヴァッドギーター』という経典は、
瞑想の前に、もしくは瞑想をしながら、同時に世界に対する態度を改めることが不可欠だという。
常に、客観的に、広い視野で物事をとらえること。
誰のことも恐れずに、自分であることに誇りを持つこと。
その過程で怒りや嫉妬や悲しみが起こるかもしれないが、それはそれでよしとする。
そんな感情にすら囚われない。
怒ってしまっても、嫉妬しても、それは自然の法則の中で起こるべくして起こっているのだ。そういう感情は湖の波
のように、現れては消える。
だから、こだわりもしない。
失くそうともしない。
ただ現れて消える感情を放っておこう。
体に起こること、心に起こること、世界に起こることを客観的に受け止められるゆとりと広さを持つ大きな自分になるために毎日のYogaはある。
行いと結果に対する態度を変える「カルマヨーガकर्मयोग(行いのYoga)」が、私たちに深い瞑想ができる心の質をもたらす。
変えられることは意志と努力で、とにかく頑張って変えるように努める。
変えられないことは、ただ受け入れる。
変えられることと、変えられないことを混同させて迷ったりしない。
この2つの違いを見極められる知恵と賢さを祈り、落ち着いて物事を見るための質を養うために同時に瞑想の練習も続ける。
賢さや分別ある判断のための落ち着きを得るために瞑想はあるのだ。
「カルマヨーガकर्मयोग(行いのYoga)」と瞑想。
この2つのYogaのメソッドは、まるで2つの羽のように、両方バランスよく準備する必要がある。2つの羽がきちんと揃って、大きく広げられたとき、私たちは初めて全くの自由である大空に飛び立つことができるのだ。
やるべき事をする。自分に課されたことをこなす。
咄嗟に計算して、行う事を怯むこともあるけれど、歯を食いしばってもやってしまおう!
結果なんて気にしない。
その時、たとえ“自分の物”と思っているものが奪われたとしても、恐れない。
時間も、持ち物も、質も、お金も、力も、大切に抱えているものも、いつでも世界から必要とされたら放っていけるようにしたい。
何かが奪われたようにみえるかもしれないけど、大丈夫。
ビクつかない。
実際私たちは何も奪われていない。
奪われるものなんてない。
なぜなら、初めから自分のものなんてないのだから。
世界を信頼して、世界の為すがままにしておこう。
そして、自分が世界に対して築いていた壁をどんどん低く、薄くしていこう。
壁の高さは、不安の大きさだ。
壁の厚さは、恐れの現れだ。
もっと世界を信頼して、自分を解き放っていきたい。
今までの習慣で、何かを差し出すことや、奪われるような気がすることは、とても怖いと思うけど、きっと大丈夫だ。
Yogaは、必ず大きい心へと成長できる道なのだから。
『ヴェーダ(聖典)』の1つ『サーマヴェーダसामवेद』がいう。
「束縛を超えよ。苦しみを超えよ。悲しみを超えよ。
もし、本当に超えたいと望むなら、与えよ。
”自分の、自分だけのもの“という考えから、解き放ってしまうがいい。
与えることでのみ、人は大きくなれる。」
与えるのは、自分の持ち物かもしれないし、時間かもしれない。
能力やキャパシティーかもしれない。
なんにせよ離せるものはどんどん放っていくがいい、と聖典は言う。
あげられないキャパシティーの狭さは、あげることでしか大きくすることはできない。
小さい心は、不安で囲ったり、しがみついたりしている思いを放つことでしか、広く大きく成長させることはできない。
泳ぎたいと思う人は、まず水に入らなければならないように。
いくら最高のコーチを雇っても、泳ぎたいと思う人が水に入って動いてみないことにはどうにもならない。
丘の上で、布団の上で、いくらいい教えを聞いても、水に飛び込まない限り100年たっても自由に泳ぐことはできない。
同じ様に、世界と自分が離れていないという聖典の事実を知り、内なる恐れから解放されるためには、まず壁を壊し、大きく広い心をもつ努力をしなければ、永遠に小ささから成長することはできない。
多分そのプロセスは必ずしも楽で楽しいことばかりではないかもしれない。
時には、涙と共に、歯を食いしばっても差し出さなければならないこともあるだろう。
それでも大丈夫。
同じ道をたどって、多くの人が苦悩と悲しみの海を超えていった事実がYogaにはある。
伝統と歴史と、今生きている聖者たち、「ヨーギーयोगी(Yogaの実践者、達人)」たちがこの方法の正しさを証明している。
Yogaの道は、必ず自由へと続いている。
あげる、与える、解き放つことで大きい人間へと成長していく。
内なる恐れから自由になる。
楽チンなことばっかりして、成長できるはずがない。
筋トレがギリギリの負荷をかけることでトレーニングの効果を発揮できるように、
心の成長、心の浄化も、時にハードなことをこなすことで効果を発揮する。
だから、
Yogaを含むスピリチュアルな探求は、お気楽ご気楽ではいられない時もある。
自分自身に違和感がなくなるまで、そして変えていけることがあるのなら、時に苦しくても意志と志を強くもってやりぬく。
それは絶対に、私たちが一番望んでいることに繋がっている。
これから私は、毎日毎日誤魔化すことなく自分を成長させることができることを選んでやっていこうと思う。
自分の持っているものなんて、じゃんじゃかあげてしまいたい。
******
さて、というわけで、私は今から掃除にいきます。
やることがギュウギュウで本当は1分の時間も惜しいけど、これはやらなければならないことだからやろう。
時間も力も、必要とされているなら、もう怯まず出してしまおう。
「奪うなら、奪うがいいさ。ハハハッ」
ああぁぁ・・・
そうやって眠る時間がどんどん短くなっている日々ですが、
倒れない程度に頑張るのみですな。
ではでは、
皆さんどうかよいお年を!
今年も一緒にYogaをして成長する旅を共に続けられたことを嬉しく思い、
心から感謝しています。
どうぞ来年も、宜しくお願いします!
<2011_終わり>
*****************
実は昨日(12月25日)クリスマスの朝に、子牛が生まれました。
お母さんは24日の夜中3:00から頑張って、生まれたのは朝7:00
驚いたのは、元気よく生まれた子牛が、いきなり立ち上がったこと!
信じられん。
数分後には、歩いたりもしている・・
すごい牛。牛すごすぎる。
↓すごすぎる生命力の牛と、お産を手伝った牛飼いのおじちゃんと。
インドでは、牛は神聖な生物。
食べ物ではないのです。
実際、食べるなんていう発想すらないと思われる。
ビーフストラガノフだの、ビーフバーガーだの、とんでもない話なのですよ。
この牛たちの静かな佇まいや、澄んだ目をみてしまったら食するなんてちょっと考えられんのです。
牛は食べるものではなく、逆に、私たちに栄養を与えてくれるもの。
ミルクやヨーグルトという体を養う栄養を与えてくれる貴重な存在。
Yoga的ベジタリアンにとっては、ミルクやヨーグルト、チーズは大切な栄養源ですからね~。
クリスマス生まれの子牛が飲みきれなかった分を、私たちは頂くのであります。
お母さん牛に怒られないように、へっぴり腰でなでなでするあたくし。
それにしても、完全に腰が引けてますな。
これが、2011年の最後の写真だとは、まだまだ修行の余地あり!
来年に期待!!
| 向井田みお | 固定リンク
「向井田みお:ヨガ哲学の旅」カテゴリの記事
- ヨガ哲学の旅(2010.03.19)