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2011年12月28日 (水)

<Yoga的心の浄化_瞑想の前にする準備⑤ 恐れに向き合う。LAST>


『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』の態度で毎日をYogaにする


他人との比較や競争の中で、小さな勝ち負けを気にしたり、小競り合いに夢中になっている場合じゃない。

もっともっと、大きなビジョンをもって、大きなスケールで、でっかくしっかり生きていく。

世界と繋がる自分。

世界に行いを放ち、世界からもたらされたものを受け止める。
世界と『カルマकर्म(行い)』を通して、ダイレクトに関わり、コミュニュケートしている。


自分と世界。
自分の中に広がる世界、世界の中に開かれている自分。


自分と世界、という大きなスケールで、全体世界との繋がりを意識的に深めようとする生き方をしているうちに、

世界と自分はただ1つの真実、という聖典が伝える教えが

「なるほどっ!」

というゆるぎない納得になる。


聖典の示すYogaの教えは哲学ではない。
自分自身の事実なのだ。


だから、聖典の教えは教科書に書いてある哲学ではなく、“まさに自分の事実”として実感できてこそ意味がある。


自分の中に揺るがない真実が確立されることで、私たちはYogaの目的を達成することができるのだ。

私たちが事実を理解した時、
Yogaの語源である「ユジュ √युज्(繋がる)」が指し示している本当のユニオン(繋がり)、ワンネス(ただ1つの事実)が果たされる。


広大な世界と一体である自分を理解するために、私たちは毎日の行いをYogaにする。


何からも離れていない。

すべてと繋がり1つのハーモニーを築いて、1つの大きな世界としてダイナミックに動いている。

だから、何にも恐れない。

自分が世界と離れていないことを知る人が、一体何を恐れるというのだ?


どんな恐れも、原因は何か自分と離れているものがあるという思いと認識から起こっている。


私たちが無垢なベイビーだったとき、世界なんてまるで恐れていなかった。

自分がすべてで、“自分で在ること”そのものが世界だった。


しかし、それは無知ゆえの祝福。

あれから何十年もたって、細々したことをたくさん知り、沢山の人や関係に揉まれているうちに、私たちはすっかり自分であることに自信を失っていたりする。


状況や関係に恐れを持ち、不安や孤独になっていたりもする。


恐れから、自分を世界をから守ろうとして壁で囲えば囲うほど小さな自分が浮き彫りになってしまう。


目の前の些細な出来事にとらわれているうちに、自分が何者かわからなくなっている。


初めから私たちは、自分自身であるだけで満ち足りていたはずなのに。

世界と離れることなどないという、事実はどこにも隠れたりしていないはずなのに。

それでも、毎日深く眠る時、私たちは世界に対して“無敵な自分”を実感している。

私たちは深く眠る時何も恐れない。

なぜなら、自分と離れているものなど何もないから。


しかし、一度夢の世界の住人になったり、目覚めて沢山の人々と関わる世界に生きると、
私たちは恐れ、不安になり、“自分で在る”ということだけで感じていた安心や心地よさを見失ってしまう。

本当の意味で目覚めている人は、沢山の物や人々に囲まれながらも、様々な状況にいながらも自分自身であることに納得しリラックスしている。

自分自身である以外に、差し迫った欲求やプレッシャーがない。

心地よさやリラックスを自分であること以外に求める必要がないのだ。


「シャンティशन्ति(平和、静寂)」という言葉で表現される“心地よさ”。

静寂、静けさ、落ち着き、平和、自由とは自分自身の事であると知っているから、どんな時もゆったりと世界に寛いでいる。


世界や事実が見えていない深い眠りや瞑想状態に逃げ込む必要もない。

意識をはっきりさせながらも、何も恐れない。

世界と自分が1つであることを知る者は、大きく広い世界と1つである自分に寛ぎ、自分であることを喜んでいる。


ビクビク不安になったり、セコセコ守ろうとしない。

コソコソする必要も、ガツガツすることもない。


ドンドン前に前に進む必要もなければ、ウロウロ迷う事もない。

自分自身であるがまま、堂々と世界に立っている。

誰がいようと、どこにいようと、何をしていようとも関係ない。

自分の真実が何かを知り、自分が何者であるかを理解し、自分であることに誇りをもって、生きている。


何が起ころうと世界はあるようにある。

ただ1つの秩序でダイナミックに今、この瞬間も休むことなく巡っている。

この事実を受け入れて、うろたえることがない。


Yogaはこんな風な大きな人間へと成長する道であり術なのだ。

事実に基づいて、強く揺らがない心と態度を養うための方法、手段といっていもいい。

ちなみにサンスクリット語で、方法や手段は「サーダナसाधन(方法、手段)」という。

Yogaは自分自身であることを認めるために生きる方法、「サーダナसाधन(方法、手段)」なのだ。

「アーサナआसन(姿勢、Yogaのポーズ)」や「プラーナーヤーマप्राणायाम(呼吸法)」はもちろん、生き方の態度を改める「カルマヨーガकर्मयोग(行いのYoga)」も、
すべてYogaは私達が本当に望み、欲しいと願っていることに繋がるための「サーダナसाधन(方法、手段)」である。


『バガヴァッドギーター』という経典は、
瞑想の前に、もしくは瞑想をしながら、同時に世界に対する態度を改めることが不可欠だという。


常に、客観的に、広い視野で物事をとらえること。

誰のことも恐れずに、自分であることに誇りを持つこと。

その過程で怒りや嫉妬や悲しみが起こるかもしれないが、それはそれでよしとする。

そんな感情にすら囚われない。


怒ってしまっても、嫉妬しても、それは自然の法則の中で起こるべくして起こっているのだ。そういう感情は湖の波
のように、現れては消える。

だから、こだわりもしない。

失くそうともしない。


ただ現れて消える感情を放っておこう。


体に起こること、心に起こること、世界に起こることを客観的に受け止められるゆとりと広さを持つ大きな自分になるために毎日のYogaはある。


行いと結果に対する態度を変える「カルマヨーガकर्मयोग(行いのYoga)」が、私たちに深い瞑想ができる心の質をもたらす。

変えられることは意志と努力で、とにかく頑張って変えるように努める。

変えられないことは、ただ受け入れる。

変えられることと、変えられないことを混同させて迷ったりしない。

この2つの違いを見極められる知恵と賢さを祈り、落ち着いて物事を見るための質を養うために同時に瞑想の練習も続ける。

賢さや分別ある判断のための落ち着きを得るために瞑想はあるのだ。


「カルマヨーガकर्मयोग(行いのYoga)」と瞑想。

この2つのYogaのメソッドは、まるで2つの羽のように、両方バランスよく準備する必要がある。2つの羽がきちんと揃って、大きく広げられたとき、私たちは初めて全くの自由である大空に飛び立つことができるのだ。

やるべき事をする。自分に課されたことをこなす。

咄嗟に計算して、行う事を怯むこともあるけれど、歯を食いしばってもやってしまおう!

結果なんて気にしない。


その時、たとえ“自分の物”と思っているものが奪われたとしても、恐れない。


時間も、持ち物も、質も、お金も、力も、大切に抱えているものも、いつでも世界から必要とされたら放っていけるようにしたい。

何かが奪われたようにみえるかもしれないけど、大丈夫。
ビクつかない。


実際私たちは何も奪われていない。

奪われるものなんてない。


なぜなら、初めから自分のものなんてないのだから。

世界を信頼して、世界の為すがままにしておこう。

そして、自分が世界に対して築いていた壁をどんどん低く、薄くしていこう。


壁の高さは、不安の大きさだ。

壁の厚さは、恐れの現れだ。

もっと世界を信頼して、自分を解き放っていきたい。

今までの習慣で、何かを差し出すことや、奪われるような気がすることは、とても怖いと思うけど、きっと大丈夫だ。


Yogaは、必ず大きい心へと成長できる道なのだから。

『ヴェーダ(聖典)』の1つ『サーマヴェーダसामवेद』がいう。



「束縛を超えよ。苦しみを超えよ。悲しみを超えよ。

もし、本当に超えたいと望むなら、与えよ。
”自分の、自分だけのもの“という考えから、解き放ってしまうがいい。

与えることでのみ、人は大きくなれる。」


与えるのは、自分の持ち物かもしれないし、時間かもしれない。

能力やキャパシティーかもしれない。


なんにせよ離せるものはどんどん放っていくがいい、と聖典は言う。

あげられないキャパシティーの狭さは、あげることでしか大きくすることはできない。

小さい心は、不安で囲ったり、しがみついたりしている思いを放つことでしか、広く大きく成長させることはできない。

泳ぎたいと思う人は、まず水に入らなければならないように。

いくら最高のコーチを雇っても、泳ぎたいと思う人が水に入って動いてみないことにはどうにもならない。

丘の上で、布団の上で、いくらいい教えを聞いても、水に飛び込まない限り100年たっても自由に泳ぐことはできない。


同じ様に、世界と自分が離れていないという聖典の事実を知り、内なる恐れから解放されるためには、まず壁を壊し、大きく広い心をもつ努力をしなければ、永遠に小ささから成長することはできない。


多分そのプロセスは必ずしも楽で楽しいことばかりではないかもしれない。

時には、涙と共に、歯を食いしばっても差し出さなければならないこともあるだろう。

それでも大丈夫。

同じ道をたどって、多くの人が苦悩と悲しみの海を超えていった事実がYogaにはある。


伝統と歴史と、今生きている聖者たち、「ヨーギーयोगी(Yogaの実践者、達人)」たちがこの方法の正しさを証明している。

Yogaの道は、必ず自由へと続いている。

あげる、与える、解き放つことで大きい人間へと成長していく。

内なる恐れから自由になる。


楽チンなことばっかりして、成長できるはずがない。


筋トレがギリギリの負荷をかけることでトレーニングの効果を発揮できるように、
心の成長、心の浄化も、時にハードなことをこなすことで効果を発揮する。


だから、
Yogaを含むスピリチュアルな探求は、お気楽ご気楽ではいられない時もある。

自分自身に違和感がなくなるまで、そして変えていけることがあるのなら、時に苦しくても意志と志を強くもってやりぬく。

それは絶対に、私たちが一番望んでいることに繋がっている。

これから私は、毎日毎日誤魔化すことなく自分を成長させることができることを選んでやっていこうと思う。


自分の持っているものなんて、じゃんじゃかあげてしまいたい。


******


さて、というわけで、私は今から掃除にいきます。

やることがギュウギュウで本当は1分の時間も惜しいけど、これはやらなければならないことだからやろう。

時間も力も、必要とされているなら、もう怯まず出してしまおう。

「奪うなら、奪うがいいさ。ハハハッ」

ああぁぁ・・・

そうやって眠る時間がどんどん短くなっている日々ですが、

倒れない程度に頑張るのみですな。

ではでは、

皆さんどうかよいお年を!


今年も一緒にYogaをして成長する旅を共に続けられたことを嬉しく思い、
心から感謝しています。


どうぞ来年も、宜しくお願いします!

<2011_終わり>

*****************

実は昨日(12月25日)クリスマスの朝に、子牛が生まれました。

お母さんは24日の夜中3:00から頑張って、生まれたのは朝7:00


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驚いたのは、元気よく生まれた子牛が、いきなり立ち上がったこと!
信じられん。
数分後には、歩いたりもしている・・

すごい牛。牛すごすぎる。

↓すごすぎる生命力の牛と、お産を手伝った牛飼いのおじちゃんと。
Cimg1686


インドでは、牛は神聖な生物。

食べ物ではないのです。
実際、食べるなんていう発想すらないと思われる。

ビーフストラガノフだの、ビーフバーガーだの、とんでもない話なのですよ。
この牛たちの静かな佇まいや、澄んだ目をみてしまったら食するなんてちょっと考えられんのです。

牛は食べるものではなく、逆に、私たちに栄養を与えてくれるもの。

ミルクやヨーグルトという体を養う栄養を与えてくれる貴重な存在。

Yoga的ベジタリアンにとっては、ミルクやヨーグルト、チーズは大切な栄養源ですからね~。

クリスマス生まれの子牛が飲みきれなかった分を、私たちは頂くのであります。


Cimg1685

お母さん牛に怒られないように、へっぴり腰でなでなでするあたくし。

それにしても、完全に腰が引けてますな。

これが、2011年の最後の写真だとは、まだまだ修行の余地あり!

来年に期待!!

| 向井田みお |

2011年12月11日 (日)

<Yoga的心の浄化_瞑想の前にする準備④ 恐れに向き合う。>

毎日していること。
今やっていること。

すべての行い=『カルマकर्म(行い)』を、Yogaにする。

自分の態度が変わる事で、普段の行いのすべてがYogaになる。


やっていることに変わりはない。
やるべき事にも変わりはない。

どういう態度でするのか?

態度が変わるのだ。
この態度の変化が『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』と呼ばれる。

では、どんな風に変えるのか?

それは、『カルマकर्म(行い)』に対する2つの側面の態度を変えること。

1つは、世界に対して、自分が放つ行いに対する態度。

私たちには、みんなそれぞれ毎日しなければならないことはある。
それはどんなことでも、世界を巡らせる法則と秩序によって自分の元に運ばれている。

自分に与えられている課題は、自分によって為されなければならないこと。
この事実を理解して、やるべき事から逃げることも、誰かに投げることも、誰かの役割を奪ったりすることもしない。


私たちは、
「自分が一番大変な思いをしている!」とか
「なぜ自分だけが、こんなことをせねばなるまい?」とか、思いがちだ。

しなければならないことに対しては、いろいろな思いがつきまとう。


しかし、『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』の態度とは
この「なんで自分だけが・・・」
とかいう、ムニュムニュでてくる不平不満を言わずに、自分の前に来た事は潔く受け入れること。

爽やかにしなければならないことをしよう!とすること。


やるべきことから逃げず、かといってガツガツ追い掛けもせずに、

「自分に与えられていることだからするのだよ、」

という淡々とした態度で受け止めて、しっかりとこなす。

自分の主観をのせずに、ただひたすらやり通す。

自分によって、為されなければならないことだから、やる。


不安や不満を満たすために行いをするんじゃない。

内側から湧きおこるプレッシャーや貪欲な気持ちに動かされ、押し出されるように行いをするのではない。

今、やらなければならないことだから、世界に求められていることだから、するのだ。


サラサラと世界から突きつけられた課題を受け止めて、こなしていく。

こんな風に自分に突きつけられた課題、やるべき事を受け止められる態度が

客観的な『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』の態度なのだ。

そして行いをするということは、課題を与えてきた世界に行いを放つだけ。
もっといえば、捧げるだけ。


自分の「こうしたい、ああしたいよぉぉぉ~」という不満げな意図を孕まずに、さっぱりとやるべきことをする。
それが、行いをすることに対する『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』の態度。


『バガヴァッドギーター』では、行いに対する態度のことがYogaの大事な側面であるといわれる。


「योग: कर्मसु कौशलम् ヨーガ カルマス カウシャラン」
Yogaとは行いをこの世界の法則と秩序に捧げる事である。

『バガヴァッドギーター』2章50


そして、自分が放った『カルマकर्म(行い)』には、必ず相応の結果がやってくる。

この結果に対しても抵抗しないこと。

あれこれいい訳をしない。
ただ、受け止める。

結果として何が起ころうと、否定せず、抗わず、有頂天にならず、自分を中心に起こっている、あるがままを受け止めてみる。

世界から与えられる結果は、自分の意志では何もすることができない。

純粋に自分がしたことに対する結果でしかない。
変えることも、キャンセルすることもできない。

自分のした行いが、世界の100%平等な法則を通って返されてきたものが、“結果”なのだ。
それにいちいち意見したり、逆らわない。

どんな結果も世界が完全な秩序の元に返してきている。だから結果にこだわらない。


受け入れて、受け流す。

そして、次の課題に向き合う。
明るく、強く、でも自責や後悔を作らずに前へ進む。

これが行いの結果を受け止めることに関する『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』。

結果として何がもたらされても、心を揺らさずに受け止めることができる。
この態度は『バガヴァッドギーター』でも、『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』のもう一つの大事な側面として記される。


「समत्वमं योग उच्यते स्サマットヴァン ヨーガ ウッチャテ」

「『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』の最も大事なポイントは、何が行いの結果としてもたらされても多かれ少なかれ、大体同じ様な客観的な態度で受け止めることである。」

                  『バガヴァッドギーター』2章48


『カルマकर्म(行い)』をYogaにするということは、

“自分がする行いに対する態度”

“放った行いの結果に対する態度”

この2つの側面からみた態度を変えるという事。
それが『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』なのだ。


行いと結果に対するこの態度は、私たちを苦悩の中心から解放する。

なぜなら、苦悩の中身は、

“後悔、自責、期待はずれからの落胆、悲しみ、怒り”など、
自分の“行い”とその“結果”に対することがほとんどだからだ。

行いとその結果に対する客観的な態度でいることは、行いの結果に対して「失敗や成功」というレッテルをはって、イタタマれない思いをもったり、自分や他人や状況を責めることから自由になるということ。

「どうして自分だけ、こんなに大変ばかり起こっているんだ?!」と
悲劇のヒーローになったり、他人を羨んだりすることから自由になるということだ。

皆が「自分だけが一番大変、大変な思いをしている・・・」と、考えがちだが、それは違う。

皆同じ様に、行いと結果の『カルマの法則(行いの法則)』に繋がれ、
それぞれ各自が自分に課された問題と向き合い、越えなければならない課題に取り組むようにして生きている。


特別な人などだれもいない。
だから他人を羨んだり、嫉妬したりは意味がない。

行いに対すること、結果に対すること
2つの側面からの自由を、『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』は『ドリシュタ・パラदृष्टफल(目に見える結果)』としてもたらしてくれる。

こんな風に心の持ち方を変えることで、私たちは日々の行いをYogaにすることができる。


Yogaによって、自分の願望をたっぷりのせてみている主観的な世界観を、客観的で冷静なものにする。

その心の在り方、ありのままをありのままに受け止められる広い心を準備することが、いわゆる“心の浄化”でもある。

そのことをYogaでは『アンタッカラナ・シュッディअन्त:करण शुद्धि(心の浄化)』と呼んでいる。


心の浄化とは、自分の中からいろんな不満や怒り、嫉妬や不安などの違和感を失くすこと。

後悔や怒りや葛藤から自由になること。

『ラーガドウェーシャरागद्वेष(好き・嫌い)』という主観的なこだわりに目を眩まされたり、翻弄され流されたりしないこと。

本来のYogaの目的、いやもっといえば生きる目的は、

無条件の自由!
半端ない絶対的な幸せ!
それは、自分自身のことなのだ!


と理解すること。
そして自分自身を受けいれ、寛いでいること。

この目的のための、間違いのない手段とは、まず心の小さなグチャグチャした悩みから解放されることだ。

その原因である『ラーガドウェーシャरागद्वेष(好き・嫌い)』に振り回されず、余裕でいられること。

そのために日々の行いと結果に対する態度を改めるのだ。

Yogaにおける高い志を、『ラーガドウェーシャरागद्वेष(好き・嫌い)』という思いの影響によって諦めたり、投げ出したりしてしまわないようにする。

恐れや、小ささ、不満を、外の物を得ることや、何かにすがることで解消することはできないと知ること。

自分を捕えている物や思いから成長する。そのためには、客観的な態度を養っていく必要がある。

そうして『ラーガドウェーシャरागद्वेष(好き・嫌い)』からある程度自由、自分の心の不満に対して余裕ができてきた心に、本当の自分自身を理解するスペース、ゆとりができてくる。


その自分自身とは、手に入れられる物や獲得できる物なんかよりも、ずっとずっと大きい存在なのだ。

大きく広い心を持つこと。
成熟した考えと、物事に対してはさっぱりとした態度をとれるゆとりある心を準備することが、、
『アンタッカラナ・シュッディअन्त:करण शुद्धि(心の浄化)』の意味なのだ。


『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』は『アンタッカラナ・シュッディअन्त:करण शुद्धि(心の浄化)』をしながら
ブレない生き方をする。


変えることができない世界に対して、無駄なチャレンジを試みない。

同時に、変えることができることについては、全力で努力して強い意志の力で変えていく。


行いの結果は世界に任せ、できる努力をすべてだして、世界に行いを放つだけだ。
だから、失敗も成功もない。

大きな世界の巡りと、因果に任せて、その都度自分の元に世界から贈られた課題をこなしていけばいいだけ。
淡々と。しかし着実に。

そうやって肩の力を抜きながら、やるべきことをしっかりやることが、生き方のYogaなのだ。


それによって、私たちは自分の中心に巣食う苦悩から自由になる。

心に充分なスペースとゆとりをつくることができる。


客観的に物事をみて無駄な事をしなくなる。

世界に戦いを挑まない。


挑むのは、自分の意志と行いで変えていけることだけ。

なんて、Yogaは無駄がなくスマートなのだろう!?

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Cimg1648
↑月食の前日の夜は、オイルランプを灯して過ごします。 ランゴーリの上に置かれたランプがきれいですな^^
昨日(12月10日)は、月食でしたね。
インド時間では18:15-21:47


影が光を覆う時間”

月食や日食は、インドでは特別な注意を払ってすごさなければならない時間とされます。うっかりお外をウロウロして、月食見物などしないのです。


どちらかというと、“不吉”とされているこの間は、お寺も食堂も、アシュラムのパブリックに開かれている場所はピッチリと締まります。

影の影響を受けないように・・

なるべく部屋からでず、月食の前にシャワーを浴び

「जप ジャパ(マントラ瞑想)」
をします。

月食が終わったら、もう一度シャワーを浴びます。


この日は朝からフルーツとミルクのといった半断食で、体に負担をかけないように過ごします。

パワー、マネーなど、いわゆるマテリアルな追求をする人には“不吉”とされる月食ですが、
スピリチュアルな探求には最適といわれます。

なぜなら、月食の時間は、自分の内なる探求である精神修行を加速させる特別力を得ることができると言われているからです。

なので、Yogaをしている人や、スピリチュアルな探求を志す人は、月食時間中には、「जप ジャパ(マントラ瞑想)」をします。

「जप ジャパ(マントラ瞑想)」は、最も月食の力を効果的に、形にしやすい方法とされているのです。

月食は私たちYogaをする人間にとっては、またとない飛躍のチャンス!


私も昨日はひたすら「जप ジャパ(マントラ瞑想)」をしました。

この「जप ジャパ(マントラ瞑想)」は、インドのスピリシュアル界?では最もスタンダードな瞑想方法。

誰でも安全にでき、効果を得ることができる優れた方法とされています。

「जप ジャパ(マントラ瞑想)」についてもまた、いつかじっくりお話しいたします!

簡単にいえば「マントラमन्त्र」を使う瞑想法ですが
この「マントラमन्त्र」は祝福された日に1つ選び、

“これからこの「マントラमन्त्र」でしっかり瞑想しよう!”

と誓いを立てることで、自分だけの瞑想の道具、心を扱っていく一生の道具にすることができます。


そして「マントラमन्त्र」を選び、誓いを立てるのに最適な祝福された日が、
「シヴァशिव」の日。
来年2月20日に、その「シヴァशिव」の日がやってきます!


その日わたくしは日本に一時帰国いたしますので、マントラを選び、一緒に「जप ジャパ(マントラ瞑想)」を本格的に始めましょう!

ではまた~

Cimg1655

お寺の境内の階段にも1つ1つランプが灯されています。
こんな風にアシュラム中がすべてランプで灯られた、幻想的な夜でした。


| 向井田みお |

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