Yoga的心の浄化_瞑想の前にすべきこと① 内なる恐れに向き合う
先々週まで長いこと「ブラフマンब्रह्मन्」について、というヘヴィーなテーマで書いておりました。
長く難しいテーマにお付き合いいただいた心広き「ヨーギーयोगी(Yogaの実践者、達人)」の皆さま、
ありがとうございます。
いやいや~、
我ながら、妙な所に来てしまったようじゃないか?え?大丈夫?
とは思っていたのですが、とにかくねじ伏せるように完結させてしまいましたよ。
すいませんねぇ
ここまで書いておいてなんですが、あんな事(もちろん「ブラフマンब्रह्मन्」のことですが・・・?)は理解しなくても、Yogaをする上でも、Yogaを極める上でも、悟りとかを目指している場合でも、
とりあえずのところは問題ないのでご心配なく。
ただ、コアなYogaの聖典とか経典とか言われるものには、一体何が書かれ、人々は長い時間の中で何を目指し、理解しようとしていたのか??
という事がわかればオケOKです。
だって、日本語だと『ウパニシャッド』は“奥義書”とか言われておるのですよ。
まあ、響きが物凄い。
敷居が高すぎて、もはやその山には登ってみる気もおこらんよ・・という感じです。
オーバーで、奥めいて、秘密めいている。
あれ?これがYogaだったのですか? という思いもありますねぇ。
自分でも、「背骨をまっすぐにしたいなあ~」というほんのりした理由で始めたYogaが、
何の因果でインドの山奥でサンスクリット語の聖典を紐解くところまでキテしまっているのか?もはやワケがわかりません。
世界が自分をのせて流れるように、巡っている。
自分に解る理由なんてない。そんなもの世界に求めても仕方ない。
こうなったらただ、世界に起こっていることをもうそのまま受け止めて、流れに抵抗せず従うのみ。
するべき課題をその都度世界から与えられ、つきつけられて、無我夢中でこなしいく。
逃げずに、抵抗せずに、大きな流れの中でやるべきことをする。
そうやって、なんとか人として成長し、生きていくのでしょう私は。
そんなわけで、“奥義書”の話にもどりますがね・・
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』
そこで語られているエッセンスだけをお伝えするとすれば、
テーマは「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」について。
「ブラフマンब्रह्मन्」がある。
それが自分自身の真実である。
『タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि
(You are the Whole,あなたの真実は、この世界の全てである。)』
これが教えの全てです。
4つの『ヴェーダ(聖典)』に分かれていようが、10個の主要な『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』があろうが、教えのエッセンスはこれのみです。
そして、聖典の教えの目的は、すべての人が本当に心から望んでいることに辿りつけるようにするためにあります。
古代のYogi(Yogaの達人)も、現代社会に生きるYogaを志す我々も、
「何が一体欲しいのか?望んでいるのか?」
これを突き詰めてみれば同じことを望み、探し求めている。
それは、“いつでも幸せで在りたい。苦悩から自由でありたい”ということ。
無条件の幸せと安心、そして解放。
人間なら、みんな同じことを望み、同じゴールをみているのです。
そのゴールに至る方法がYogaだと。
Yogaをして“限りない自由”が自分である、ということ理解し、実感する。
幸せは獲得するものではない。
安心や安らぎは成ろうしたり、手に入れたりするものではない。
自由はこの世界から飛び出て別の次元の何処かにいくことではない。
“自分自身が自由、安らぎ、幸せ、の意味である”ということを知ること。
徹底的に自分に向き合い、考え、納得すること。
簡単にいってしまえば、
“すでに私たちは探しているもの、目指しているゴールそのものなのだ”
ということを理解すること。
聖典に言わせれば私たちは、もはやそのままで完璧。完全体。
何も足すことも引くこともない。無限なる存在。すでに悟りの意味そのもの。
だけどなぜそう思えない?
それは私たちがしがみついている自分独自の考え、結論、主観、歪んだ物の見方がブロックしているからだという。
聖典のいう事実をそのままに受け取れないのは、客観的な見方がなかなかできていないということ。
ありのままの事実が歪んだ心に、歪んだ景色として映り込んでしまっている。
だから、とても聖典のいう真実を実感できない。信じられない。
その障害を乗り越えていくためにYogaが必要なのです。
Yogaはありのままを映せる心を準備するためにある。
アーサナやプラナーヤーマで体、呼吸を扱い、自分の道具とそれを使う自分自身の境界を客観的にみてはっきりさせる。
体に起こっている問題と、自分の思いの中で起こっている問題は違うということをまずみる。
例えば。
私たちの肉体は自然界の物、そのルールで何の不都合もなく動いている。
だから体は余分に入ってきた栄養を、
“よしよし、これでまさかの飢えにも対処できるな。ばっちりだ。ドンドン貯めてこう!”とウキウキするけど、
私たちの心の中では、太る⇒醜い⇒ダメな自分などと苦悩になってしまうことがある。
これは、体と自分の間に混乱が起こっているから。
主観が事実を歪めてしまうのだ。
Yogaは様々なレベルで客観的になる練習方法。
ありのままをありのままに見るためには、Yogaが有効なのです。
そして練習を重ねることで、やがて聖典の事実を理解するまで客観的になる。
今、ここに在る自分自身に納得する。
自分であることに違和感も葛藤も苦悩もなく、完全に受け入れる。
世界にも自分にも、プレッシャーなく激的に?リラックスする。
自分自身であることに喜び、完璧であることを知る。
何をしていても、何処にいても、誰といても、
「これでいい。これでよし。もう完璧だっ!」
とこれっぽっちの恥じらいもなく、堂々と心からいうことができる。
自分を完全に信頼し、誇りをもって、これまた完全な世界に立つ。
これが、Yogaをすることの意味と聖典のいうYogaのゴール。
私たちが本当に望むこと。
しかし本当に、そうなったらいいですな~
恐れも不安も悩みもなく、自分を楽しむことができるなら、なんて素晴らしいんのだろう。
もうそれ以上に望むことなんてないだろう、きっと。
で、私たちはただ自分でありたいためにYogaをしているわけです。
今の自分に「Ok.オッケー、オールライト!うん、すべてこれでよし。」
というだけのために。
聖典は私たちが自分に納得し、すべてを楽しみ喜ぶことができることは勿論可能だという。
だから教える。
そして、自由のために私たちは別人になる必要も、特別な何かを手に入れる必要もない。
私たちは、このままでいい。
ただそれだけ。
ンが、ただそれだけなのに、なかなかわからない。
それほどに、私たちの心に巣食う恐れや不安やプレッシャーは大きい。
自分の事なのに、問題や苦悩の根源が見えない程、私たちは混乱している。
Yogaはこの混乱を解いて、ここに在る事実をありのままにみることを教える。
歪めずに、迷わずに、真実を理解すること。
ただそれだけなのです。
・・・・・
ところで、そんなことを日々学ぶわたくしなのですが、実は2週間前から大きな変化を迎えてしまったのです。
それで、ブログも途絶え、メールもせず、生活リズムが全くつかめず、とにかくひたすらこの内なる変化に振り回された。
それでも必死で自分を見失わないようにしておりました。
どうやら、あたくしもいよいよ本格的にYogaに取り掛からねばならぬ時が来たようです。
突如2週間前あたりから、“心の浄化”=客観的な物の見方への転換“への衝動が、内側から湧いてきたのです。マグマのように。
自分でも
「いったいどうしっちゃったのさ? ちょっと、そんなになってどうすんのっ!」
と思われる状況に見舞われ、怒涛の日々を過ごしていました。
その詳細はまた来週。
とりあえず、今日は心の浄化を加速させるべく、これからお寺に行ってまいります。
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変化の兆しをヒッシヒシと感じる日々。
東の空から昇る朝日にここぞとばかりに祈りましたよ。
どうか、自分の小ささを超えていくことができますように。
今日起こることのすべてに、
自分と世界との繋がりを見ることができますように。
自分自身への信頼を強くもつことができますよう。
| 向井田みお | 固定リンク
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