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2011年11月22日 (火)

<Yoga的心の浄化_瞑想の前にする準備③ 恐れに向き合う。>

誰もが持っている内なる“恐れ”。

それはヘルプレスな子供の頃に閉じ込めた記憶から現れたかもしれないし、もっともっと深い因果があるのかもしれない。

とにかく、誰もが経験したことがあるような、本人にも理由がつかない感情に自分自身が振り回されてしまうという事実。

恐れから湧いてくる不安、嫉妬、憎しみ、怒り、貪欲さ。
自分に対する不信感や他人に抱く恐怖と劣等感の入り混じった怒りの念。
心に違和感と葛藤を生み、苦しみと悩みに陥るような思い。

これらの思いの原因には、恐れがある。
この“内なる恐れ”に立ち向かうためのメソッドがYogaにはある。


うむ、素晴らしい。Yoga。

体を一方方向に曲げたり、息を止めたりするだけじゃないんだなぁ~


先週までお伝えしていた、様々な変化から少し解ったことは、今まではYogaをしながらも何処か根源的な問題にアプローチする事を拒んでいたということ。
言葉や理屈や、いろんないい訳を作って自分を納得させたように見せて、実は騙していた。

しかし、もう心がそんな上っ面だけの、小手先の理屈に耐えられなくなったらしい。
体と心が私の許可なく、行いを持って実際に動き始めてしまった。

体の芯のレベルから「変わらねば!」という思いに動かされ
「いよいよ深いレベルで態度を改める必要があるな」
と、という本気の力が物凄い勢いで変化を起こし始めたようなのですよ。

「自分の中に、沢山の不満とストレスとプレッシャーがあるのは認める。
それに対して自分に責任があるわけでなく、仕方がないことだ、という事も知っている。

けど、不都合や不機嫌の責任を世界に押し付けて、世界を責めるのは間違っている。
世界を変えることはできない。世界は変わらない。

世界はどんなに自分が怒り、抵抗し、泣いても、何一つ変えることはできない。
変わるのは自分の方だ。

自分のことだけが、自分の意志と努力で変えることができる。
自分の世界に対する態度や見方は変えることができる!」


客観的な理解から、「自分を変えよう」、とする変化が起こってきた。
これらに向き合っていかない限り、つまり内側にあるいたたまれぬ思いに原因から対処していこうとしない限り「ブラフマンब्रह्मन्」の理解はおろか、瞑想もままならない。

そんなことを、今更ながら深く思い知り、恐れとじっくり向き合い、プロセスすることに没頭していました。

それは、現在も続いており、たぶん自分に納得がいくまで一生続いていくことなのだろうな、と思いながら客観的に物事を受け止められる心の準備に励んでいます



実は私たちは、瞑想の前に、瞑想がちゃんとできる質を持っていなければならない。
そうでなければ、瞑想は瞑想にならない。
瞑想の本来の目的を達成できない。

ただの沈黙、もしくはフワフワと夢と現を漂うフンワカした体験で終わってしまう。

だから、瞑想ができる質を養うためにこなさなければならない課題というか、宿題が各自あるのです。

問題は皆それぞれ人によって違うけれど、自分の中にある問題とその原因に向き合って、乗り越えていかねばな
らぬことが皆それぞれにある。

私の場合は大きな恐れとそこから湧く怒り。不安。不信感。
自分への受け入れ難さ。
これを乗り越えなければ、Yogaだなんだといっても、所詮テクニックだけでYoga風な遊びや趣味の域を超えない。


私は、この3週間、己の心が囚われていることと向き合う事なしにYoga的前進などない、と深く感じ入り、徹底的に考え、自分を開いていくことに専念しておったわけです。

「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」が自分自身の事実だと聖典は言う。

その事実を目で見るようにはっきりと理解し、実感するためには、どんな物事も客観的にとらえれるだけの心のスペースと広さが不可欠。

しかし、このスペース、ゆとりを持てなくなるのは、同じ心に苦悩や葛藤など居心地悪い思いたちが居座っているから。

真実がはいるべき場所に、主観や偏見が居って心を占領している!
これでは、聖典の教えが入りこむ隙間がない・・


Yogaでは、苦悩とは自分の主観的な物の見方の産物にすぎないという。

苦悩の原因である主観をある程度解放しなければ、心に充分なスペースを確保できない。
ありのままの光景を心に映すことができる客観的な見方を何事に対してもしていくというYogaの練習によって、私たちは今より自由になることができる。


そのYogaの方法は、“自分の見方、態度を変えて、行いを変えていくこと”

通称『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』といわれる。
世界に起こるあれやこれやを、ただ自然の事として受け入れる態度を養う。

自分の偏見であるべき事実を受け入れることを拒み、 自分特有の見方で真実を歪め、単なる出来事を問題や苦悩に変えて、リアクションしたり反発してしまわないように。

その態度を養うには、日々の『カルマकर्म(行い)』をする際に、

「○○をして何かを得てやろう!」
という打算とか、
期待や願望を少し脇に置いておく。

そして、ただ純粋に

「おや、どうやら自分は今これをすることを求められているな。」

と思う事、

「今自分によって為されなければならんから、これをやろう。」

という態度で物事に向かい、世界から自分に突きつけられていることから、逃げずにこなしていくこと。


世界はすべての生物の『カルマकर्म(行い)』とその結果と、全体の秩序と、繋がりを載せて大きな1つの流れをつくり、展開している。

こうして巡っている世界が、私たち1人1人になすべき課題という形で、実をつけるべき『カルマकर्म(行い)』の結果を与えている。
だから私たちは、自分の前に今、差し出されている課題を変えようとしないで、やるべき事をやる。
これが世界のありのままを受け入れるということだ。

過剰なリアクションをしない。
客観的に今自分の状況をとらえて、それに相応しいことをする。
計算せずに、巡っている世界のリズムにのって、起こっていることをただ受け止める。

「こうだったらいいのに。
ああ、ならなければならないはずなのに・・・」

とかいう主観を世界の出来事にのせない。
のせてもいいけど、仕方のないことだ。

世界はどうにも変わらない。
抵抗してもどうせ受け入れるしか術はない。

だったら、へれ~と柔らかく、すべてを受け入れてしまいたい。
無駄な抵抗は無駄であるうえに、苦悩や問題やストレスをつくるだけだから。
状況や他人に自分勝手な期待や欲求をのせず、
世界に起こることを歪めない。

あるがままを受け入れられる態度、客観的なものの見方を養う事は、Yogaの大事な目的である。
「カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)」によって、
『カルマकर्म(行い)』と結果に対する客観的な態度を養うこと。
「カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)」の態度でなされる行いは、
またの名を「セヴァसेव(計算しない行い、無償行為)」という。


世界を自分の都合に合わせて“変えよう、”とする試みを手放すこととは、内なる欲求や主観から湧くプレッシャーから自由になることを意味する。

客観的な態度と物の見方が、不安や小ささにはまる自分を解放する。

ありのままの事を、ありのままに受け止めるキャパシティーができた時、私たちは世界と自分に随分とリラックスすることができる。

この態度を高めることが毎日できるYoga。
『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』で生き方がYogaになる。
Yogaマットから離れても、Yogaは続く


生きる態度と見方に小さな革命を起こす。
それが大きな人間へと成長するためのステップとなる。

自分がする行いに対する態度を変える。
どうせいずれ消えてゆく、変わりゆくものを手に入れて心の不満をみたそうとするために、行いをするのではない。

自分と世界を繋げてゆくために、『カルマकर्म(行い)』をする。
世界に行いを放ち、世界から返された結果を淡々と受け入れることで、自分と世界は今よりもっと密な関係となってゆく。


世界から求められていること、やらなければならないことを、ただする。
結果は、世界の秩序と法則を巡って、完璧に自分の元に返ってきている。

淡々と事実を受け止め、行いをして世界とコミュニケーションをとっていく方法が、私たちの心を客観的で広く大きく成熟させることになるのだ。

そんな風に大きなスペースがある心に、
大きな聖典のヴィジョンがありのままに理解されるのだ。


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ただ今「セヴァसेव(計算しない行い、無償行為)」中~

先生の住んでる場所をきれいに掃除しておりますよ。

Cimg1613

小さな行いの積み重ねが、Yogaの道を一歩一歩歩いていくこと。

目指すは、
「アンタッカラナ・シュッディअन्त:करण शुद्धि(心の浄化)」!

『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』の副産物として、先生と信頼関係を築けたり、
周りの人とぐ~んと近くなっているのは、清々しいことですな~

Cimg1614


そ、それにしても重い・・・
(でも写真だと、荷物を持っているのは先生で、私は遊んでいるよういみえますが・・)

この包みがあと30個ほど残っているが、どーすんだ?


蟻さんのように運んで、今日のところは終わりにしましょうね。

急速な浄化は、体にも負担がかかるのでね、

何事もほどほどに~

ではまた来週!

| 向井田みお |

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