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2011年11月22日 (火)

<Yoga的心の浄化_瞑想の前にする準備③ 恐れに向き合う。>

誰もが持っている内なる“恐れ”。

それはヘルプレスな子供の頃に閉じ込めた記憶から現れたかもしれないし、もっともっと深い因果があるのかもしれない。

とにかく、誰もが経験したことがあるような、本人にも理由がつかない感情に自分自身が振り回されてしまうという事実。

恐れから湧いてくる不安、嫉妬、憎しみ、怒り、貪欲さ。
自分に対する不信感や他人に抱く恐怖と劣等感の入り混じった怒りの念。
心に違和感と葛藤を生み、苦しみと悩みに陥るような思い。

これらの思いの原因には、恐れがある。
この“内なる恐れ”に立ち向かうためのメソッドがYogaにはある。


うむ、素晴らしい。Yoga。

体を一方方向に曲げたり、息を止めたりするだけじゃないんだなぁ~


先週までお伝えしていた、様々な変化から少し解ったことは、今まではYogaをしながらも何処か根源的な問題にアプローチする事を拒んでいたということ。
言葉や理屈や、いろんないい訳を作って自分を納得させたように見せて、実は騙していた。

しかし、もう心がそんな上っ面だけの、小手先の理屈に耐えられなくなったらしい。
体と心が私の許可なく、行いを持って実際に動き始めてしまった。

体の芯のレベルから「変わらねば!」という思いに動かされ
「いよいよ深いレベルで態度を改める必要があるな」
と、という本気の力が物凄い勢いで変化を起こし始めたようなのですよ。

「自分の中に、沢山の不満とストレスとプレッシャーがあるのは認める。
それに対して自分に責任があるわけでなく、仕方がないことだ、という事も知っている。

けど、不都合や不機嫌の責任を世界に押し付けて、世界を責めるのは間違っている。
世界を変えることはできない。世界は変わらない。

世界はどんなに自分が怒り、抵抗し、泣いても、何一つ変えることはできない。
変わるのは自分の方だ。

自分のことだけが、自分の意志と努力で変えることができる。
自分の世界に対する態度や見方は変えることができる!」


客観的な理解から、「自分を変えよう」、とする変化が起こってきた。
これらに向き合っていかない限り、つまり内側にあるいたたまれぬ思いに原因から対処していこうとしない限り「ブラフマンब्रह्मन्」の理解はおろか、瞑想もままならない。

そんなことを、今更ながら深く思い知り、恐れとじっくり向き合い、プロセスすることに没頭していました。

それは、現在も続いており、たぶん自分に納得がいくまで一生続いていくことなのだろうな、と思いながら客観的に物事を受け止められる心の準備に励んでいます


*
実は私たちは、瞑想の前に、瞑想がちゃんとできる質を持っていなければならない。
そうでなければ、瞑想は瞑想にならない。
瞑想の本来の目的を達成できない。

ただの沈黙、もしくはフワフワと夢と現を漂うフンワカした体験で終わってしまう。

だから、瞑想ができる質を養うためにこなさなければならない課題というか、宿題が各自あるのです。

問題は皆それぞれ人によって違うけれど、自分の中にある問題とその原因に向き合って、乗り越えていかねばな
らぬことが皆それぞれにある。

私の場合は大きな恐れとそこから湧く怒り。不安。不信感。
自分への受け入れ難さ。
これを乗り越えなければ、Yogaだなんだといっても、所詮テクニックだけでYoga風な遊びや趣味の域を超えない。


私は、この3週間、己の心が囚われていることと向き合う事なしにYoga的前進などない、と深く感じ入り、徹底的に考え、自分を開いていくことに専念しておったわけです。

「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」が自分自身の事実だと聖典は言う。

その事実を目で見るようにはっきりと理解し、実感するためには、どんな物事も客観的にとらえれるだけの心のスペースと広さが不可欠。

しかし、このスペース、ゆとりを持てなくなるのは、同じ心に苦悩や葛藤など居心地悪い思いたちが居座っているから。

真実がはいるべき場所に、主観や偏見が居って心を占領している!
これでは、聖典の教えが入りこむ隙間がない・・


Yogaでは、苦悩とは自分の主観的な物の見方の産物にすぎないという。

苦悩の原因である主観をある程度解放しなければ、心に充分なスペースを確保できない。
ありのままの光景を心に映すことができる客観的な見方を何事に対してもしていくというYogaの練習によって、私たちは今より自由になることができる。


そのYogaの方法は、“自分の見方、態度を変えて、行いを変えていくこと”

通称『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』といわれる。
世界に起こるあれやこれやを、ただ自然の事として受け入れる態度を養う。

自分の偏見であるべき事実を受け入れることを拒み、 自分特有の見方で真実を歪め、単なる出来事を問題や苦悩に変えて、リアクションしたり反発してしまわないように。

その態度を養うには、日々の『カルマकर्म(行い)』をする際に、

「○○をして何かを得てやろう!」
という打算とか、
期待や願望を少し脇に置いておく。

そして、ただ純粋に

「おや、どうやら自分は今これをすることを求められているな。」

と思う事、

「今自分によって為されなければならんから、これをやろう。」

という態度で物事に向かい、世界から自分に突きつけられていることから、逃げずにこなしていくこと。


世界はすべての生物の『カルマकर्म(行い)』とその結果と、全体の秩序と、繋がりを載せて大きな1つの流れをつくり、展開している。

こうして巡っている世界が、私たち1人1人になすべき課題という形で、実をつけるべき『カルマकर्म(行い)』の結果を与えている。
だから私たちは、自分の前に今、差し出されている課題を変えようとしないで、やるべき事をやる。
これが世界のありのままを受け入れるということだ。

過剰なリアクションをしない。
客観的に今自分の状況をとらえて、それに相応しいことをする。
計算せずに、巡っている世界のリズムにのって、起こっていることをただ受け止める。

「こうだったらいいのに。
ああ、ならなければならないはずなのに・・・」

とかいう主観を世界の出来事にのせない。
のせてもいいけど、仕方のないことだ。

世界はどうにも変わらない。
抵抗してもどうせ受け入れるしか術はない。

だったら、へれ~と柔らかく、すべてを受け入れてしまいたい。
無駄な抵抗は無駄であるうえに、苦悩や問題やストレスをつくるだけだから。
状況や他人に自分勝手な期待や欲求をのせず、
世界に起こることを歪めない。

あるがままを受け入れられる態度、客観的なものの見方を養う事は、Yogaの大事な目的である。
「カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)」によって、
『カルマकर्म(行い)』と結果に対する客観的な態度を養うこと。
「カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)」の態度でなされる行いは、
またの名を「セヴァसेव(計算しない行い、無償行為)」という。


世界を自分の都合に合わせて“変えよう、”とする試みを手放すこととは、内なる欲求や主観から湧くプレッシャーから自由になることを意味する。

客観的な態度と物の見方が、不安や小ささにはまる自分を解放する。

ありのままの事を、ありのままに受け止めるキャパシティーができた時、私たちは世界と自分に随分とリラックスすることができる。

この態度を高めることが毎日できるYoga。
『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』で生き方がYogaになる。
Yogaマットから離れても、Yogaは続く
。


生きる態度と見方に小さな革命を起こす。
それが大きな人間へと成長するためのステップとなる。

自分がする行いに対する態度を変える。
どうせいずれ消えてゆく、変わりゆくものを手に入れて心の不満をみたそうとするために、行いをするのではない。

自分と世界を繋げてゆくために、『カルマकर्म(行い)』をする。
世界に行いを放ち、世界から返された結果を淡々と受け入れることで、自分と世界は今よりもっと密な関係となってゆく。


世界から求められていること、やらなければならないことを、ただする。
結果は、世界の秩序と法則を巡って、完璧に自分の元に返ってきている。

淡々と事実を受け止め、行いをして世界とコミュニケーションをとっていく方法が、私たちの心を客観的で広く大きく成熟させることになるのだ。

そんな風に大きなスペースがある心に、
大きな聖典のヴィジョンがありのままに理解されるのだ。


******************************************

ただ今「セヴァसेव(計算しない行い、無償行為)」中~

先生の住んでる場所をきれいに掃除しておりますよ。

Cimg1613

小さな行いの積み重ねが、Yogaの道を一歩一歩歩いていくこと。

目指すは、
「アンタッカラナ・シュッディअन्त:करण शुद्धि(心の浄化)」!

『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』の副産物として、先生と信頼関係を築けたり、
周りの人とぐ~んと近くなっているのは、清々しいことですな~

Cimg1614


そ、それにしても重い・・・
(でも写真だと、荷物を持っているのは先生で、私は遊んでいるよういみえますが・・)

この包みがあと30個ほど残っているが、どーすんだ?


蟻さんのように運んで、今日のところは終わりにしましょうね。

急速な浄化は、体にも負担がかかるのでね、

何事もほどほどに~

ではまた来週!

| 向井田みお |

2011年11月13日 (日)

<Yoga的心の浄化_瞑想の前にする準備② 恐れに向き合う。>


さてさて
早いモノで前回のテーマ「ブラフマンब्रह्मन्」を書いてから3週間。

その間ぼーっとすごしていたわけではなく、あいかわらずインドの山奥でサンスクリット語や講義で忙しく過ごしていながらも、予告どおり瞑想について書いていたのです。

しかし、ちょうど「ブラフマンब्रह्मन्」について書き終わった辺りで、実はあたくしの内面に大きな変化が訪れてしまったのですよ。それは先週お伝えしたとおり。

そして自分でも俄かには信じがたい展開になっておりました。
というわけで、現在までブログが予定通りに進まず・・・大変申し訳ないであります。

で、

なにが変化かというと、“心を浄化する=客観的になる”というモチベーションが一気に炸裂してしまった。

実はYogaや瞑想をする前に然るべき準備として私たちは、“心を浄化する”必要があるのです。
これは個人の課題、宿題としてこなすべき地道な作業。
瞑想できる質、心の状態は自分の努力で準備する必要がある。

心が準備できたら、瞑想は自然に起こる。
「サマーディसमाधि(深い瞑想状態)」だろうが、『シャンティशन्ति(平和、静寂)』だろうが、深く自分自身の内に世界との一体感をみるような瞑想状態は勝手に起こる。

どうも我々の体や心はそういうシステムになっているらしい。

逆に、準備できてなければ、私たちは落ち着いて坐ることができない。
心に沢山の考えごとや悩みや鬱屈した思いがあり、それらがプレッシャーとなり、何かを探そうとしたり、どうにかしようと焦ったり、心に自分が弄ばれているうちは、瞑想はなかなか深まらない。

うん。
あたりまえだ。
こうして書いてみると、実にまっとう。


しかし、いざとなるとどうして、わからなくなってしまうわけですよねぇ。

心にどれ程の不安を抱え、恐れを持ち、プレッシャーで溢れんばかりになっているかということがもうわからない。それに対して正しい対処法が選べなくなってしまう。


理屈や理論はどれ程解っていても、実際毎日どういう態度で生きているのか?
隣の人と関わるとき、ご飯を食べる時、寝る時、仕事の人と関わる時、仕事に対する態度、生物に対する思い、自分の内側の感情、それらが私たちのYogaに対する態度を明かしてしまう。

どんなに理論で取り繕い、すました顔をしていても、世界に対する態度、自分に対する態度、放たれる言葉や行い、考え方が私たちのキャパシティーとYoga的生き方を証明してしまう。

Yogaの成果は毎日の、一瞬一瞬の生き方の連続の中にだけある。
私たちの思い、考え方の中にある。

Yogaマットの上の出来事なんて、どんなようにも恰好つけられるのだから。

Yogaは理論ではない。

それなのに、Yoga的態度を深める前に、苦しい状態や悩みを前にするとそれを打破しようとして、焦って瞑想やYogaのテクニック習得に走ったりする。

でも、テクニックなんて、所詮うわべだけの形。

技術やノウハウを手に入れるだけでは、内面の深まりや人間的成熟、ましてや真実の理解に至ることはできな
い。

瞑想だって、テクニックを得ればいいってわけではない。

どれだけ深められるか?
そのためにはどうすればいいのか?考えて、さらに実行しなければならない。


だけどそれがなかなか難しい。
だから、私たちは常に新しい、革命的で効果があるといわれるテクニックを手に入れることに夢中になってしまう。

まるでそれを手に入れさえすれば、落ち着きがあり、成熟した慈悲深い人間に自分になれるように思って次々に新しいスピリチュアルなアイディアを買い、瞑想やマントラやYogaのテクニックを求めてウロウロしてしまいがちだ。


が、テクニックや情報は私を成長させることはできない。

技術を得た安心感は、中身のない一時の気休めにしか過ぎない。

本当に自分に対して働いていないから、1つの新しい技術を知ったら、また次の何かを手に入れたがる。
それで、いつまでたっても納得も、満足もすることなく、Yogaノマド(放浪者)としてあっちこっちに動きまわるのだ。


ポイントは、1つのメソッドをどれだけ信頼し、どれ程真摯に深められるか?

それが私たちのためになり、Yoga的生き方を向上させる。それしかない。
例えば、瞑想だったら1つの瞑想というメソッドを試みるにあたって、そのための準備と理解が大事になる。


瞑想は心で行う活動であるのだから、瞑想のためには心を整え準備する必要がある。
そうして、テクニックが意味と成果を私たちにもたらすのだ。


フム、
だから、Yogaにも瞑想にも、焦りは禁物。


とくに、瞑想のために心を準備することは、Yoga的には“心の浄化”といわれているのです。

どんな浄化か?
といえば、心に積もる恐れ、怒り、憎しみ、自責の念や後悔の念を心から解き放つ、ということ。


いろんな意味で残念で無念な・・?思いばかりを抱える心では、瞑想なんてできません。

目を閉じて坐り、瞑想をしているフリはできるのですが、心の雑念たちが深いレベルで自分自身に触れることをブロックして瞑想が深まらないのです。

だから、瞑想の前にある程度の心の浄化作業は必須。

その浄化作業は、通称『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』といわれる。

『カルマकर्म(行い)』の態度を変えて、日常をYogaにすること。

日々の行いをYogaにしていくこと。

やるべき事から逃げずに、逆らわずに、淡々と行う。

内なるプレッシャーや感情の苦しみに押し出されるように行いをするのではなく、自分に向かって世界から差し出されたものを受け止め、自分の課題としてこなすこと。

計算せず、過剰な期待をのせず、やるべきことを客観的にとらて、忠実に実行する。

行いの結果は、世界から贈られたものとして、反抗せず、リアクションせず、有頂天にならず、
ただただ受け止める。


その態度で行いをすることが、『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』と呼ばれる1つのYogaの方法なのです。

『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』については、次回詳しくお伝えしますが、
とにかく行いをして、浄化を押し進めようとする力と思いが、私に一気に押し寄せてきてしまったのです。


ということは、今までYoga遊びをしていたにすぎなかったのかっ!?
・・・そうかもしれない。

上辺だけのYogaっぽさに参って、本当に自分を成長させようとは思っていなかったのかもしれない。

しかし、今回は、
「心の根から、変革を起こさねばこれから先は前に進めん!」

と内側からの高まりがムクムクとわいて、気がついたら自分の考えより先に、心と体が行動を起こしていたのでした。
と、とにかく、大きな変化に振り回されていました。

それは今も続いているのですが、ようやく自分のペースを取り戻してきたという感じに至っております。


一体何が起こったの?
とご不審の皆さまにお知らせいたしますと、何かガードが1つ開いた感じなのです。
急に心の中で、何かが始まってしまった・・


「さあ、これからはどんどんオープンに、開いていきますぜ。
もう何が奪われようと、何が無くなろうと関係ない。守るべきものなんてない。
大丈夫。与えてしまえっ。浄化、浄化!」

と心がわめき始めた。

自分ではそんなことを考えようとも、実行しようともしていなかっただけに、急激にでてきた思いに振りまわされっぱなしでした。尽き動かされるように体が動き、そのために生活のリズムを掴めなくなってました。


どちらかというと私は、毎日を自分のペースで淡々とこなして、周りに邪魔されないように自分のスタイルを持って地道にやっていくことが大事と考える方なのです。

だから、

「皆でシェアしよう~♪」
とか

「皆で頑張ろっ♡」

とかいうアイディアは、どうも偽善っぽい臭いがあって全く好きではなかった、はず。

それなのに!

まさにこんなような思いに動かされ、3週間前ほどから急に勉強グループをつくってみたり、ちょっと勉強の進みが遅れてしまった人のお手伝いをしたり、掃除や無償のサービスをしたり、自分の事をそっちのけで、どんどん時間と体を使ってしまっていたのでした。


後先顧みず、持てる時間を全部そういう行為に使い、全く自分の時間がとれない3週間でした。

充分に寝る時間や考える時間、休憩時間がなくなり、時に空腹やトイレを我慢しながらお手伝いをしていたりしました。

「ありあり?なんで、こんなことになってしまったのでありましょうな?」
と我ながら戸惑い、

「そんな実にならない、結果が出ない行いより、早く部屋に戻って、勉強しなさいよ。ブログ書いたり、たまった仕事をしておしまいなさい~」

という考えがぐるぐる廻っておりました。

それでも心と体が止まらずに、何だか気がついたら先生の住んでいる部屋の床のぞうきんがけをしていたり、同級生にサンスクリット語のフォロー講義をしていたりしていたのです。


うーむ。本当に、あれは完全に思いに振り回されていた。

しかし、それによって今まで気がつかなかった内面に気づきができたのも事実なのです。

実は、自分のことながらはっきり知らずにいたのですが、私の中にはず~~っと長い間仕舞いこんでいた得も言われぬ“恐れ”があったのです。

世界に対する恐れと不安。

とくに、“奪われること”に対する怯えと恐れ。


それは自分を頑固にガードしようという態度の原因でもあり、心に葛藤と違和感をもたらしていました。

かといって、この恐れはネガティブな面ばかりでなく、私の場合はこの恐れを振り切ろうとするために前に前に走り、今まで進んできた原動力にもなっていたのです。

この世のすべてのことにはネガティブな面とポジティブな面、どちらもありますが、とにかく“恐れ”はやっかいな代物には違いありません。

恐れがあるゆえに大変に苦しい状況に追い込まれていたりもしました。

自分を必定以上に蔑み、他人から守ろうと壁を築き、時に人を恐れ、ちょっと我ながら手に負えない憎しみと怒りに振り回されていたのも事実なのです。


そんな内なる怒りや憎しみを見て、受け入れ難い自分に抵抗し、狭い世界観に閉じこもって勝手に悩んだりする。
さらに悩む自分に対する自己嫌悪に苛まされる・・・そんなことを繰り返す。悩みのループにはいることも沢山あったのです。


う~ん、一言でいえば、無駄にもがき続けていたのですな。
はっきりいって、あがいてました。

あー、もう認めますよ。
自分勝手な妄想に囚われて、恐怖と不安に溺れていたわけです。


そんな風に小さく、心の狭い受け入れ難い自分を、世界から頑なに守ろうと殻を作ったりもしていました。
小さく無力であるがゆえに、

「何か自分で認められるような人間になりたい」という欲求も強くありました。

良く言えば向上心。しかしその実態は、どうにも歪んだ貪欲なハングリー精神。

満ちることを知らない自分は、周囲との調和を見ることなくイノシシのように前に驀進していた。


で、ついにその殻に3週間前辺りから亀裂が入ったようなのです。

なぜ?いまさら? 
その理由はわからないのですが、突然殻を打ち破り、脱ぎ捨てようとする思いが一気に押し寄せてきてしまった。

自分の惜しみなく分け与えることのできないキャパシティーのなさを、乗り越えていこうという強い思い。


「これを乗り越えなければ、“自分が全体世界である、「ブラフマンब्रह्मन्」である”なんていう聖典の教えを理解し、受け止めることなどムリムリ。

何から何を守っている?何のためにガードが必要なのだ?


世界に対して高い壁をつくって、自分の小さな世界や少しの持ち物を守ろうとして必死だが、一体それは何のため?

元々、世界には自分のものなんてない。この体すら、自然界のもの。

自分が世界に現れた時、体すら持っていなかった。お金も、洋服も、大事なものも何もなかった。
それなのに、今は沢山のものをまるで“自分の物”“自分だけの特別なモノ”なんて枠を作って、奪われることを恐れている。


その恐れが、奪う者に対する恐怖になり怒りになり、憎しみになり、自分より持っている者に対する嫉妬になり、複雑にねじ曲がった思いになっている。

小さな枠を超えない限り、自分勝手に築いた壁を突き崩さない限り、世界との繋がりは見えるはずがないさ。
塀に囲まれた小さい城の小さな王様は、大きな世界をみることなく、世界に開かれることなく、恐れたまま死んでいくだろう。
自分が本当は何者も知らずに。

幻のような恐れに怯え、いつも心落ち着かず、世界を攻撃し、責めてくる世界を憎んだままね。

そんな恐れをもって、“悟り”だなんて、「モークシャमोक्ष(悟り・自由)」だなんて、
なにを調子のいいこといってるのか?」

そう思ったのです。突然。


「この壁を越えねば。自分は本当に自由の意味を解ることがないだろう。
世界の一部を、自分の物と限定するから比較が生まれる。

ここまでが自分と囲うから、心が狭く閉じてしまう。

閉じた心に、広い世界がありのままに映ることなんて、あるはずなんてないな」


そうして、私は自分のキャパを広げるべく隙をみては、自分に与えられるモノをどんどん人に明け渡すことばかりしていました。

どうにかしてこの狭さから脱け出したい。小ささを突き破って成長したい。

そのためには、今実行しなければ! 

それが自分をありのままを見るために必要なことだと、急にはっきりと確信してしまったのです。

まるでひよ子が卵をぶち破って外にでてくるように、
心の中で恐れを抱えてきた自分がそこから脱け出ていこうとしているのです。

期が熟し、卵がやっと孵化するように、自分の何かに変化を起こす力が急に出てきたのでした。
他人事のようですが、はっきりいってその力と変化に自分でもついて行けていなかったのです・・
そんな状態が続いた日々でした。

ようやく今カリメロのように卵の殻の半分を被りながら何をすべきかが見えてきたようなのですよ。


その間私がしていたのは、ひたすら“内なる恐れ”から逃げずに向き合うこと。

受け入れたくない、受け入れられない、自分のことながら納得ができない。
そういう感情や思いに対面し、立ち向かい、プロセスしようという勇気がでてきたのです。

この恐れに対するプロセスをダヤナンダ先生に相談したところ、
1つ言われた大事なことは、


「恐れは、歓迎してしまいなさ~い。」
ということ。


「もし自分が恐れを感じ、もしくは恐れから生まれる憎しみや嫉妬や怒りを感じたら、それはもうはっきり言葉にだしていうといい。

“私は恐れを歓迎しよう!恐れよ、来いCome On!。”

そういってしまえば、もうキミにとっては恐れが恐れで無くなるよ。

実際、恐れはキミになにもできやしないんだから。

まあ、少なくとも、“恐れに対して恐れない”ことはできる。


これはね、ちょっとしたコツだが、必ず言葉にだしていうんだよ。

そして、自分から出た言葉を聞くんだよ。

そうすればな、まあ大ジョブだっ!」


ちょっと前だったら適当にごまかしていたのですがね・・
今回は、もう一生かかってもいいから、この問題を根こそぎごっそりみなければならん、と思いましたよ。

根幹治療には、いい時だ。
そして、なんだったらここから大きく成長してみようと思いに至ったのです。


なぜなら、私は今まで同じ様なパターンの問題に追い込まれて、ハマリ、悩み、世界と自分を憎み、背を向けたり目を逸らしたりし続けてきたからです。

「もうそんなこと充分だ。
そんな小ささは、もうお終いだー!」

という切実な思いがわき、
今、根幹治療に及ばないかったら、多分一生同じパターンで人生を投げやりにしてしまうだろう、と思い、変化を拒まず、思い切って心と体がしたいようにさせてみることにしたのです。

さて、その結果は何処に繋がっていくのでしょう?

自分でもよく解りませんが、もう少し様子を見てみましょう。

何かまた変化が起こったら、それをオープンに、ライブでお伝えしていきますよ


といわけで、気になる変化はまた次回。

<続く~>

さて、内なる変化に戸惑う、ひよっこのあたくし。

一体どうプロセスしようとしたのでしょう?


心を浄化するためのYogaとはこれいかに?


浄化のために、現在私がしていること。


“己の計算なしに、ただやるべきことに従事する”
生きることがすべてYoga。


通称『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』について。

次回はその辺をお伝えできたらいいと思います。


そしてこれは瞑想をするために絶対に必要な準備。

瞑想できる心を準備する浄化のYoga。
向かうべきゴールは「ブラフマンब्रह्मन्」。

上手くまとまればいいのですがね・・・

とりあえず、今からボランティアに行ってきます。

*****************************************

Img_4213


アシュラムから毎日見上げている山(丘?)

ああ、あんな風に堂々と大きくなりたい。

何にも揺れずに立っていられたら、どんなに素晴らしいだろう。


山のように揺るがないでっかい心を持つべく、人間的成長に向かってようやく歩き始めたわたくしですが、

毎日の細かいことをちゃんとこなしていくことしかないのですね。

Yogaには、近道もジャンプもありません。

でも焦ることはない。


一瞬一瞬の自分の態度を確かめながら、着実に積み上げていくのみ!

は~  やれやれ

というわけで、また来週~

| 向井田みお |

2011年11月 7日 (月)

Yoga的心の浄化_瞑想の前にすべきこと① 内なる恐れに向き合う

先々週まで長いこと「ブラフマンब्रह्मन्」について、というヘヴィーなテーマで書いておりました。
長く難しいテーマにお付き合いいただいた心広き「ヨーギーयोगी(Yogaの実践者、達人)」の皆さま、
ありがとうございます。


いやいや~、
我ながら、妙な所に来てしまったようじゃないか?え?大丈夫?
とは思っていたのですが、とにかくねじ伏せるように完結させてしまいましたよ。
すいませんねぇ


ここまで書いておいてなんですが、あんな事(もちろん「ブラフマンब्रह्मन्」のことですが・・・?)は理解しなくても、Yogaをする上でも、Yogaを極める上でも、悟りとかを目指している場合でも、
とりあえずのところは問題ないのでご心配なく。


ただ、コアなYogaの聖典とか経典とか言われるものには、一体何が書かれ、人々は長い時間の中で何を目指し、理解しようとしていたのか??
という事がわかればオケOKです。


だって、日本語だと『ウパニシャッド』は“奥義書”とか言われておるのですよ。
まあ、響きが物凄い。
敷居が高すぎて、もはやその山には登ってみる気もおこらんよ・・という感じです。
オーバーで、奥めいて、秘密めいている。
あれ?これがYogaだったのですか? という思いもありますねぇ。


自分でも、「背骨をまっすぐにしたいなあ~」というほんのりした理由で始めたYogaが、
何の因果でインドの山奥でサンスクリット語の聖典を紐解くところまでキテしまっているのか?もはやワケがわかりません。


世界が自分をのせて流れるように、巡っている。
自分に解る理由なんてない。そんなもの世界に求めても仕方ない。
こうなったらただ、世界に起こっていることをもうそのまま受け止めて、流れに抵抗せず従うのみ。
するべき課題をその都度世界から与えられ、つきつけられて、無我夢中でこなしいく。
逃げずに、抵抗せずに、大きな流れの中でやるべきことをする。
そうやって、なんとか人として成長し、生きていくのでしょう私は。

そんなわけで、“奥義書”の話にもどりますがね・・
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』

そこで語られているエッセンスだけをお伝えするとすれば、
テーマは「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」について。

「ブラフマンब्रह्मन्」がある。

それが自分自身の真実である。

『タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि
(You are the Whole,あなたの真実は、この世界の全てである。)』

これが教えの全てです。

4つの『ヴェーダ(聖典)』に分かれていようが、10個の主要な『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』があろうが、教えのエッセンスはこれのみです。


そして、聖典の教えの目的は、すべての人が本当に心から望んでいることに辿りつけるようにするためにあります。


古代のYogi(Yogaの達人)も、現代社会に生きるYogaを志す我々も、

「何が一体欲しいのか?望んでいるのか?」

これを突き詰めてみれば同じことを望み、探し求めている。

それは、“いつでも幸せで在りたい。苦悩から自由でありたい”ということ。


無条件の幸せと安心、そして解放。

人間なら、みんな同じことを望み、同じゴールをみているのです。

そのゴールに至る方法がYogaだと。

Yogaをして“限りない自由”が自分である、ということ理解し、実感する。

幸せは獲得するものではない。
安心や安らぎは成ろうしたり、手に入れたりするものではない。
自由はこの世界から飛び出て別の次元の何処かにいくことではない。

“自分自身が自由、安らぎ、幸せ、の意味である”ということを知ること。

徹底的に自分に向き合い、考え、納得すること。

簡単にいってしまえば、

“すでに私たちは探しているもの、目指しているゴールそのものなのだ”
ということを理解すること。


聖典に言わせれば私たちは、もはやそのままで完璧。完全体。
何も足すことも引くこともない。無限なる存在。すでに悟りの意味そのもの。

だけどなぜそう思えない?

それは私たちがしがみついている自分独自の考え、結論、主観、歪んだ物の見方がブロックしているからだという。
聖典のいう事実をそのままに受け取れないのは、客観的な見方がなかなかできていないということ。
ありのままの事実が歪んだ心に、歪んだ景色として映り込んでしまっている。

だから、とても聖典のいう真実を実感できない。信じられない。


その障害を乗り越えていくためにYogaが必要なのです。

Yogaはありのままを映せる心を準備するためにある。

アーサナやプラナーヤーマで体、呼吸を扱い、自分の道具とそれを使う自分自身の境界を客観的にみてはっきりさせる。

体に起こっている問題と、自分の思いの中で起こっている問題は違うということをまずみる。

例えば。

私たちの肉体は自然界の物、そのルールで何の不都合もなく動いている。

だから体は余分に入ってきた栄養を、
“よしよし、これでまさかの飢えにも対処できるな。ばっちりだ。ドンドン貯めてこう!”とウキウキするけど、

私たちの心の中では、太る⇒醜い⇒ダメな自分などと苦悩になってしまうことがある。


これは、体と自分の間に混乱が起こっているから。
主観が事実を歪めてしまうのだ。

Yogaは様々なレベルで客観的になる練習方法。

ありのままをありのままに見るためには、Yogaが有効なのです。


そして練習を重ねることで、やがて聖典の事実を理解するまで客観的になる。

今、ここに在る自分自身に納得する。

自分であることに違和感も葛藤も苦悩もなく、完全に受け入れる。

世界にも自分にも、プレッシャーなく激的に?リラックスする。

自分自身であることに喜び、完璧であることを知る。

何をしていても、何処にいても、誰といても、

「これでいい。これでよし。もう完璧だっ!」

とこれっぽっちの恥じらいもなく、堂々と心からいうことができる。

自分を完全に信頼し、誇りをもって、これまた完全な世界に立つ。
これが、Yogaをすることの意味と聖典のいうYogaのゴール。
私たちが本当に望むこと。

しかし本当に、そうなったらいいですな~

恐れも不安も悩みもなく、自分を楽しむことができるなら、なんて素晴らしいんのだろう。
もうそれ以上に望むことなんてないだろう、きっと。

で、私たちはただ自分でありたいためにYogaをしているわけです。


今の自分に「Ok.オッケー、オールライト!うん、すべてこれでよし。」
というだけのために。


聖典は私たちが自分に納得し、すべてを楽しみ喜ぶことができることは勿論可能だという。
だから教える。

そして、自由のために私たちは別人になる必要も、特別な何かを手に入れる必要もない。
私たちは、このままでいい。
ただそれだけ。

ンが、ただそれだけなのに、なかなかわからない。

それほどに、私たちの心に巣食う恐れや不安やプレッシャーは大きい。
自分の事なのに、問題や苦悩の根源が見えない程、私たちは混乱している。

Yogaはこの混乱を解いて、ここに在る事実をありのままにみることを教える。
歪めずに、迷わずに、真実を理解すること。
ただそれだけなのです。

・・・・・

ところで、そんなことを日々学ぶわたくしなのですが、実は2週間前から大きな変化を迎えてしまったのです。

それで、ブログも途絶え、メールもせず、生活リズムが全くつかめず、とにかくひたすらこの内なる変化に振り回された。
それでも必死で自分を見失わないようにしておりました。


どうやら、あたくしもいよいよ本格的にYogaに取り掛からねばならぬ時が来たようです。

突如2週間前あたりから、“心の浄化”=客観的な物の見方への転換“への衝動が、内側から湧いてきたのです。マグマのように。

自分でも
「いったいどうしっちゃったのさ? ちょっと、そんなになってどうすんのっ!」
と思われる状況に見舞われ、怒涛の日々を過ごしていました。


その詳細はまた来週。

とりあえず、今日は心の浄化を加速させるべく、これからお寺に行ってまいります。

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変化の兆しをヒッシヒシと感じる日々。

東の空から昇る朝日にここぞとばかりに祈りましたよ。

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どうか、自分の小ささを超えていくことができますように。


今日起こることのすべてに、
自分と世界との繋がりを見ることができますように。


自分自身への信頼を強くもつことができますよう。


| 向井田みお |

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