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2011年10月16日 (日)

「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくても、いいじゃない?⑧最終回

さてさて、

すでに「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」であり、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である我々は、これからも最大限に肩の力を抜いて、常に脱力にしていたい。

リラックスしっぱなし。そんな脱力系Yogi の真の悟りとは、こんなたとえ話に通じている。


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とある年末、夜通し飲み明かしていた大学生AとB二人組。

家族のこと、友人の事、恋人の事、学校、就職、過去の恋愛、失敗話、積もる話をあれこれと、お酒を飲みながら
語り合っていた。

話はとめどなく続き、酔いも深まっていった。

すると明け方近くになって、ふとAが言った。

A「そろそろ、家に帰るよ、明日バイトあるし・・・」

B「なーに、いってんだよ。まだ大丈夫だよ。だいたいここお前の家なんだし。それよりさぁ~」

一度途切れかけたが、尽きない話は続いた。


しばらくたって、またAがいう。

A「やっぱり僕、帰らないと」

B「いやだからさぁ、ここお前の家だから。帰る必要ないんだって。心配すんな。ところで、あの続きだけどねっ」

そういって、再び話が展開する。


また途中Aがぼやく

A「もう、俺帰りたい。家帰るよ」

Aはかなり酔っていて、目なんて半分くらいしか開いていない。

B「もぉ~、何言ってんだよお前。さっきから。ここはお前の家なんだって。俺が遊びに来たんだよぉ。帰るのは俺の  方だって。お前は、帰んなくっていいんだよ。」

酔いから不安に陥ったAの疑惑はもう止まらない。

A「いや、ちがうよ。帰らないとダメなんだよ。俺、家帰りたい。」

B「どーしちゃったの、おまえ?帰る家はここなんだって。」

A「もういいから、俺を家に帰してくれよ。俺は家に帰りたい!帰るんだよぉぉぉぉ」


大分酔いがまわったAは、すでに今自分がいる場所解らないくらい混乱している。

Bが何度いっても、自分の家に帰りたいとAはしきりに言い続ける。

すでに、自分の家にいるのに・・・

Aは酔って混乱し、そこが本当に何処だかわからなくなっている。

そして、ただ“行きたい”と思っている場所、“安心できる場所、寛げる場所”がどこかにあると思い、自分の部屋に

いながら、「自分の家に帰りたいよォ」と泣きながら言い続けるのだ。


こんな風に、自分の家にいながら「帰りたい、帰りたい」とこぼして、泣き続けるAを、Bはもう言葉で説得するのを
やめた。
Bは悟っていた。

どんな言葉を使って言っても、いい聞かせるだけでは理解は無理、そう悟ったのだ。

そしてこういった。

B「わぁかったよ、わかったから。泣くな。じゃさ、お前の家に帰ろう。なっ。俺が連れてってやるよ。」

A「ほんと?」

B「さっはやく、コート着て、仕度して。さあ、帰るぞ。」

そういって、Bは自分もコートを着て、荷物をもって、Aの手を引いて家の外に出た。

Aは酩酊状態でBに寄りかかりながらフラフラ歩いた。


BはAの手を引きながら、一度家の外に出た。

公園にいって、駅の周辺を一周して、適当に歩き回った。

20分後再び、さっきまで一緒にぐだぐだ飲んでいたAの家にたどり着いた。

B「よしっ、ついたぞ、お前の家。ほら、中入ろうぜ。」

A「おおっ!たすかった。 ありがとなB。 やっと帰れたよ。お前がいなかったら俺、ここに帰ってこれなかったな」

そういって、Aは20分前にもいた全く同じ自分の家に帰ってきたのだ。

泥酔する前からAは自分の家にいたのに。


Aは実に嬉しそうに家の中に入っていった。安心感から、満面の笑みを浮かべて。


前のAは、帰るべき場所自体にいながら、寛ぐことができなかった。

安心することができず、自分の家にいながら、混乱して、そこが帰るべき場所だと信じることができなかった。疑い
があった。


それで、帰りたいとずっとぼやいていたのだ。

Bは、すでに家にいるAを知っていた。

そこにしかAが安心する場所も、寛げる場所もないのに、どこかにいきたがるAを言葉で説得しようとしていた。
が、やがてそれは無理だと悟った。


言葉の限界をみて、Bは実際にAを連れ出し、道を歩いた。

そうして、Aが望む場所に連れて行った。

いや、どこかに行ったようにみせかけたのだ。

BがAを連れてきた場所。それは、ただAが元々いた場所だった。

まるでどこかへいったようなフリをしただけで、ただ元に戻っただけなのだ。

Bに連れられながら長い道を歩いた後、ようやくAは自分の帰る場所をみた。

いや、見たような気がしたのだ。

それでも改めて自分の家にいることを喜んだ。

実際は、元いた場所に戻ってくるだけであったのだが。


それでもAは、そここそが自分のいるべき場所だと納得するために、外に出て歩きまわる必要があったのだ。


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Yogaの探求は、まるでこの例え話のようだ。

私たちはすでに、探すべき場所、辿りつくべき所にいる。

すでに、自由であり、幸せの意味であり、「ブラフマンब्रह्मन्」である。

それが私たちの真実、「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」なのだから。


聖典は何度もいう。
「あなたこそが、今まさに、あなたが必死になって探していること、そのものなのだ。」と。

「「タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि(You are the Whole,あなたの本質とは「ブラフマンब्रह्मन्」である)」 あなたは、「ブラフマンब्रह्मन्」だ。」

ということが、1つの「ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)」で9回も連発されている個所もある程だ。しつこいくらいに何度も繰り返す。

しかし、無知と混乱で自分が何者かわからない私たちは、聖典の言葉に納得できない。

そうして、Aのように、「ブラフマンब्रह्मन्」でありながら、つまり、すでに「幸せと安心」の意味であるのにもかかわら

ず、わざわざいろいろなことに“苦悩”をみて涙をこぼしていたり、

絶望の淵で“もう死んでしまおうかしら?”なんて思っていたりする。


フザケてるのか?


解っている人は、そう思うだろう。


いやいや・・・

悩む人は、ただ知らないだけなのだ。あまりにも。

自分自身が何者か?ということを


そんな、勘違いで苦しむ気の毒なAのような私たちを見て、
B(グル=先生、Yogaの師)は、私たちの手を引いて長い道のりを一緒に歩いてくれる。
 

ただ元々いる場所に帰るだけのために。

聖典にいわせれば、私たちはすでに「ブラフマンब्रह्मन्」。

すでに、求めているものそのものであるのだから、Yogaすら必要ないという。

しかし、私たちは、そうせざるを得ない。

ただ“納得”するために。

師とか賢者と言われる人達は、明らかすぎる真実、当たり前すぎる事実を知りながらも、悩める人の手を惹いて一
緒にYogaの道に付き合ってくれる人なのだ。


だから、Yogaやスピリチュアルな探求を教えることは100%「慈悲」なる行いだと言われる。


私たちは迷えるAと同じように、すでに寛げる場所にいながら、苦しい思いをしているかもしれない。


しかし、素晴らしいことに、私たちはもうYogaを始めていたりする。

ということは、帰るべき所へ至る道を歩き始めたということだ。


その道が目指す場所はただ1つ。

自分自身の真実だ。

そして、この冗談みたいな結末を心のどこかで知ることで、Yogaの道を歩くこと事態を笑いとばしてしまいたい。

そう思うのだ。

****


さて、酔っ払い学生AとBの話は笑えますが、自分の事となるとなんとも笑えないわたくしたち。

というわけで、言葉でだけ、論理だけ、概念でだけで真実を理解するのは、ことほど左様に難しい。

だからこそYogaのメソッドやテクニックが開発されてきたわけですが。

その中でも、自分の事実を知るために最も大事なメソッドの1つが「瞑想」。

「瞑想」の実践なしには、自分の事実に目が覚めること、尚且つ真実を実感することはできない。

「幸せ」の意味であること、「満ちている」ということの意味であること、

それは、瞑想の中ではっきりと実感することが可能なのです。

だからこそ、瞑想が大事だと言われます。

何が本当なのか?何が私たちのリアルなのか?


このリアルに迫る瞑想を、次回のブログではご紹介いたします!

こうご期待。

では、

サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~

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アシュラムには、「タックショップ」といわれる、日用品を売るコンビニがある。

今日は全施設『プージャ(儀式)』をする日ということで、この日我がコンビニも儀式で清められた。

コンビニを切り盛りするスワミ(出家者)たちと、わたくし。


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というわけで、全館『プージャ(儀式)』は私が切り盛りする「オーディオルーム(聴く図書館)」も清められたり・・

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さらに、ダヤナンダ・スワミジの車も儀式をされました。

1年に一度全施設が入念に『プージャ(儀式)』される日。清められていいですね~

それにしてもほのぼの・・


と、油断してたらやられたであります!

私のPCもしっかり儀式され、インド人のオデコにくっついてるアイツをつけられている!

ターメリックとクムクム。


うーん、
今年1年も無事でありますように・


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| 向井田みお |

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