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2011年9月25日 (日)

「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくても、いいじゃない?⑤


ところで、「ブラフマンब्रह्मन्」は、日本では “梵” とかいわれて、なんだかとっても近寄りがたい・・・

そんな、大変荘厳な響きをもつ「ブラフマンब्रह्मन्」。

でも、「ブラフマンब्रह्मन्」というオリジナルの言葉自体はどういう意味なのか?

どんな意味をその言葉に含むのか?

今日は語源から、「ブラフマンब्रह्मन्」の謎に迫ってみましょう~

* *****「ブラフマンब्रह्मन्」、聖典的解釈********


「ブラフマンब्रह्मन्」とは、「√बृह्ブルフ(大きく広がる、増える、拡大する)」という語源から派生する。

意味は、“すべてに遍く広がる、限りなく大きい”という意味である。

ちなみに、中性名詞。「ブラフマンब्रह्मन्」は男性でも女性でもない。。

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『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』は、この「ブラフマンब्रह्मन्」という言葉が示している3つの“意味”を解釈する。

それが、

『サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)』

という3つの言葉である。

これらの言葉によって、「ブラフマンब्रह्मन्」という音の意味が限定される。

まるで、3本の矢のように、「ブラフマンब्रह्मन्」というターゲットを打ち抜く言葉が

「サットसत्(存在・真実)」

「チットचित्(知の源)」

「アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)」

なのである。


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「ブラフマンब्रह्मन्」=「サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)」
           「サッティヤン・ニャーナン・アナンタンसत्यं-ञ्जानम्- अनन्तम्(存在・知・限りなく満ちるもの)」

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前回も熱く語ったが、

『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の教えは、

“私たちは、「ブラフマンब्रह्मन्」である” 

という一言である。


この事実を確証することが、人を輪廻、苦悩、問題から解放するという。

問題のない自分とは、自由であり、幸せの意味である。

それがYogaの最終的なゴール「モークシャमोक्ष(悟り・自由)」であるというのだ。


とすると、「ブラフマンब्रह्मन्」を指し示す3つの言葉は、すべて自分自身の事実を指し示した意味でなければ辻褄
があわない。

これから、

「なぜ私たちが「ブラフマンब्रह्मन्」といえるか?」

3つの言葉を解き明かしながらみることにしよう。


「ブラフマンब्रह्मन्」=「サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)」

① 「サットसत्(存在・真実)」  ⇒ 「私はいる」ということ

「私はいる」というのは、否定しようのない事実。

それが、存在を証明している。存在は、誰かに確認する必要も、もはやなし。

私たちは、Yogaをしているから存在しているわけではない。
瞑想したから、存在しているのでもない。
悟りを開かなければ、存在できないのではない。

何をしても、しなくても、誰かに指摘されなくても、間違いなく「私はいる」

このだれもが知っている事実が、「サットसत्(存在・真実)」の意味である。

「私はいる」

「私は「サットसत्(存在・真実)」である。」

そして、この当たり前の自分自身の本質を常に自覚することを望んでいる。


その証拠に私たちは、

誰かに無視されたり、自分の存在を軽く見られたり、無きものにされることに耐えらない!

自分の本質が何にも代えがたい“存在”であるからそう思うのだ。

自分はいる、ここにいる。

存在していることが自分の本質である。

だから、それを自覚し、自分自身の真実であることを常に望んでいる。



② 「チットचित्(知の源)」    ⇒「私は知る、わかることができる」ということ。

見たり、聞いたり知覚したり、それをまとめて考えたり、「知る、解る」のベースである「知・認識の源」が私である。

「認識のベース」としての私がいるから、考えることができ、感覚は物事のセンスをキャッチすることができる。

“考え”や、“感覚”は、実は道具でしかない。

これらの道具は、「知・認識の源」である私の本質があって、はじめて機能している。

たとえば、知覚や認識は脳という場所で起こる。

しかし、脳の主成分はたんぱく質と水。

なぜここに、

「わかる!」が起こる?

「なるほど!!」が発生する?


それは、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』に言わせれば、“私がいるから”。

たんぱく質に

「あっ、わかった!ヒラメイた!」

を起こす何かがある。


それが、「知・認識の源」である。
私とは、たんぱく質でも、水でもない。

そこに「知る」を起こす源、「知・認識の源」という存在こそが私の事実なのだ。

ちなみに、

眠っている時や意識不明の時も、「知・認識の源」としての私は消えることはない。

ただ、脳という場所に問題が起こっていて知覚が起こらないだけだ。

まるで、壊れてしまった蛍光灯のように、電気はそこにあるのだが、灯りがともらない。

同じ様に、場所に問題があれば、いくら「知・認識の源」の私がいても“認識”という光が灯らないのだ。

寝ている時は、“考えや感情”という道具が働いていない。

Yoga的にいえば、脳が『タマスतमस्(鈍性)』の状態になっている。

眠りという状況に陥る時、私たちの脳や心は一時的に重たいノイズで覆われてしまうのだ。

「知・認識の源」はあっても、何らかの障害があって機能しなくなることがある。

だから寝ていても、起きていても、本質的な私はいる。


私たちが「知・認識の源」であることは、私たちの自然に湧く欲求、求めていることをみることからも理解できる。

それは、


「知の源」である私たちは、無知であることに耐えられない!
ということ。

知りたい、原因を理解したい、解りたい、謎のまま放っておけない。

この自然の欲求の根底にあるのは、私たちの事実とは、“無知、知らない事”と矛盾する。

あらゆる「知」のベースである自分自身の事実からみれば、無知は、自分の真実ではない。

だからだれもが自分の本質と矛盾する“無知、知らない事”に我慢がならないのだ。



③ アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)

幸せの瞬間のあの広がり、あの充実。

満ち足りた時の、静寂に近いような至福の満足感。

 それはすべて、自分自身が現れている瞬間である。

私たちは、自分が「幸せ、静寂、満ち足りている」ということの意味そのものだからこそ、幸せをいかなるときも求めている。

よくよく突き詰めて考えれば、自分も、他のだれかも、皆いろいろな物を欲し、何かになろうとしている。

何のためだろう?

最終的に何が欲しいのか?

それは、一言でまとめれば、「幸せ」であり続けたい、というシンプルな思いに行きつく。

すべての生物が望んでいることは「幸せ」だと、聖典はいう。

そんなことは、聖典にわざわざ言ってもらわなくても、私たちは心の深い場所で、皆わかっているかもしれない。

なぜなら、それが自分の真実であり、本来の姿であるからだ。

だから、私たちは焦がれる。

ごく自然の欲求として、自分の本質である「幸せ」や「自由」を求めるのだ。


***


ここからはっきりわかることがある。

私たちが求めているのは、本来の自分の姿であることなのだ。

自分自身の本質を実感し、そう在り続けることを求めている。

なぜなら自分自身の真実であるとき、私たちは心地よさを知る。

自分を受け入れ、自分に寛ぎ、内なるプレッシャーや葛藤から自由であることを知っているからだ。

外の世界にある何かを手に入れなくても、自分自身でいることの心地よさの中で、幸せと自由の意味を実感しているのだ。


“何かが足りない”という欲求からの解放と、それゆえの自由。

“自分に満ちている”、それだけで湧き上がる幸せである事の意味

静寂、落ち着き、安らぎ、

それらは皆、自分自身の本質を指し示している。

****


「ブラフマンब्रह्मन्」とは、この私の本来の在り様を、ただサンスクリット語で言い表した言葉にすぎない。

私たちの真実を含み持つ音にすぎない。


言葉は意味をともなって、はじめて機能する。

聖典の言葉は、意味をもって人に「知」を指し示すことができる。

「ブラフマンब्रह्मन्」とは、私が求める、自分自身の事実を意味している。

聖典は、

“存在・知・満ちていること”

という3つの矢をもって、その真意を射ぬく。

***


私たちは「ブラフマンब्रह्मन्」に成りたいのではない。

「何かになろう!」とするのは、Yogaの本来の目的ではない。

なぜなら、「なりたい!なろう!」ということは、“今現時点でそうではない”ということを宣言してしまっているような
ものだからだ。

もし、仮に何かになれたとしても、元々そうでないものから変化して成りあがったステータスのように、
いずれまた形を変えてしまうだろう。

私たちは「ブラフマンब्रह्मन्」に成らない。


「ブラフマンब्रह्मन्」であるのだ。


Yogaの教えという名のもとで、誰かが勝手に好き放題、想像で言っている。

「ブラフマンब्रह्मन्」という特別なものになることが、悟りだと。

その意味で使われる「ブラフマンब्रह्मन्」は、光ったり、ちょっと地面から浮いたり、神秘体験や、超常現象を引き

起こしたりする、「○○○マン」的なもの。

そんなモノになることは、私たちの本当の願いではない。

深く考えれば、私たちはそんな者になりたいとは、これぽっちも思っていないはずなのだ。

仮に、神秘的で素敵な「○○○マン」になったとして、


で?

で、それでどうする?

それでも不幸で、苦しみの淵で溺れていたら、一体何を目指していたのだ?

Yogaのゴールは、言葉では何か、突拍子もないことを目指しているようにも聞こえる。

会社に勤めながら、密かに“梵” (日本語でいう「ブラフマンब्रह्मन्」)になろうとしていたり、

社交しながらも、実はYogaをして「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」を見ようとたくらんでいたり。。

しかし、その意味をちゃんと辿って行けば、Yogaで目指すゴールは、私たちが当たり前に、誰もが心から望んでいることを探求する道の果てにあるのだ。

私たちは、自分を受け入れたい。

自分の限界や、葛藤や違和感、苦悩から自由になりたい。

「幸せ」でありたい。
「自由」でありたい。

ただそれだけだ。

聖典は、それを可能にする知識を与え、人を導いている。

そして、それは可能だという。確実に実現できるという。

そんな力強いことをいって道の途上にいる者を励ます。

なぜなら、それは真実だからだ。

すでにある事実なのだ。私たちが「ブラフマンब्रह्मन्」であるということは。

私たち自身の真実である以上、この自由が達成されないことなどない。


すでに真実なのに、そうではないと思っている。

もう「ブラフマンब्रह्मन्」なのに、自分だけはそうじゃないと信じている。

そして、苦悩にはまっている。


・・・そうだとしたら、解決は?

無知に基づく思いこみを解き、事実を受け入れることだけ!

そのための心の準備は、聖典の言葉を聞く事や、瞑想にある。

そして、目を開かせる教えや、師との出会い、良いきっかけは、恩寵として世界から与えられる。

自分が事実を知ることさえ望めば、教えやきっかけは必ず与えられる。

そうことになっている。

心配するなかれ!

そんな風に聖典は言うのだ。


ああ、よかった~


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といわわけで、続きはまた来週~

本日9月25日は、インドの暦では、「プラドーシャ」の日。

私たちが、過去にしてきたあんなことやこんなこと、、けして誇れる事ばかりでない悪行の数々・・

そういう『カルマकर्म(行い)』の結果を、この日に祈ることでまとめて清算できる、といわれています。

まあ、全部チャラになるわけでなく・・・

『カルマ(行い)』の結果は必ず自分で刈り取らねばならないのですが、

結果の影響を少し和らげる事ができる、“抗体”作りに適した日、とでもいいましょうか。


私たちの、アンラッキー、といわれる望まないシチュエーションや、障害や困難。

それらは、すべて過去の所業の結果であると言われています。

というわけで、特別な日にあたる今日は、朝から『プージャ(儀式)』を代行いたしました。

儀式の主は、赤ちゃんができた大事な友達。 私は儀式代行人。

母体の健康、そして赤ちゃんの幸せ、周りからの協力をしっかり受けれるよう願いを込めましたよ。

今日の儀式は11種類の大事な供物を捧げる「11ドラヴィア・アヴィシェーカ」。

ミルクやヨーグルト、はちみつ、サンダルウッド、聖なる灰、ターメリック、ハーブ、ローズ水、など貴重なものをバン
バンご神体にかけて捧げていくのです。


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これが供物の一部。

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今日『プージャ(儀式)』をしてくれた司祭さん。


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ご神体である、「ダクシナムルティ(悟りをもたらす存在、シヴァの化身)」


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『プージャ(儀式)』の終わりには、捧げた供物のいくつかを受け取ります。

捧げた物の結果が浄化のプロセスを辿って自分に戻ってくる。

それを「プラサーダ」といいます。


まるで、『カルマकर्म(行い)』のように。


捧げた物と相応のものが自分に戻ってくる。

それは祝福を持って受け入れられるべき事。

だから、儀式とは、この「プラサーダ」を受け取るまでが『プージャ(儀式)』なのです。


こうやって儀式の中にも、普遍の法則、“自然界の理”を見て、より深く事実を理解しようというのがヒンドゥー世界
の美しさですね~


| 向井田みお |

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