「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくても、いいじゃない?⑤
ところで、「ブラフマンब्रह्मन्」は、日本では “梵” とかいわれて、なんだかとっても近寄りがたい・・・
そんな、大変荘厳な響きをもつ「ブラフマンब्रह्मन्」。
でも、「ブラフマンब्रह्मन्」というオリジナルの言葉自体はどういう意味なのか?
どんな意味をその言葉に含むのか?
今日は語源から、「ブラフマンब्रह्मन्」の謎に迫ってみましょう~
* *****「ブラフマンब्रह्मन्」、聖典的解釈********
「ブラフマンब्रह्मन्」とは、「√बृह्ブルフ(大きく広がる、増える、拡大する)」という語源から派生する。
意味は、“すべてに遍く広がる、限りなく大きい”という意味である。
ちなみに、中性名詞。「ブラフマンब्रह्मन्」は男性でも女性でもない。。
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『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』は、この「ブラフマンब्रह्मन्」という言葉が示している3つの“意味”を解釈する。
それが、
『サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)』
という3つの言葉である。
これらの言葉によって、「ブラフマンब्रह्मन्」という音の意味が限定される。
まるで、3本の矢のように、「ブラフマンब्रह्मन्」というターゲットを打ち抜く言葉が
「サットसत्(存在・真実)」
「チットचित्(知の源)」
「アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)」
なのである。
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「ブラフマンब्रह्मन्」=「サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)」
「サッティヤン・ニャーナン・アナンタンसत्यं-ञ्जानम्- अनन्तम्(存在・知・限りなく満ちるもの)」
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前回も熱く語ったが、
『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の教えは、
“私たちは、「ブラフマンब्रह्मन्」である”
という一言である。
この事実を確証することが、人を輪廻、苦悩、問題から解放するという。
問題のない自分とは、自由であり、幸せの意味である。
それがYogaの最終的なゴール「モークシャमोक्ष(悟り・自由)」であるというのだ。
とすると、「ブラフマンब्रह्मन्」を指し示す3つの言葉は、すべて自分自身の事実を指し示した意味でなければ辻褄
があわない。
これから、
「なぜ私たちが「ブラフマンब्रह्मन्」といえるか?」
3つの言葉を解き明かしながらみることにしよう。
「ブラフマンब्रह्मन्」=「サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)」
① 「サットसत्(存在・真実)」 ⇒ 「私はいる」ということ
「私はいる」というのは、否定しようのない事実。
それが、存在を証明している。存在は、誰かに確認する必要も、もはやなし。
私たちは、Yogaをしているから存在しているわけではない。
瞑想したから、存在しているのでもない。
悟りを開かなければ、存在できないのではない。
何をしても、しなくても、誰かに指摘されなくても、間違いなく「私はいる」
このだれもが知っている事実が、「サットसत्(存在・真実)」の意味である。
「私はいる」
「私は「サットसत्(存在・真実)」である。」
そして、この当たり前の自分自身の本質を常に自覚することを望んでいる。
その証拠に私たちは、
誰かに無視されたり、自分の存在を軽く見られたり、無きものにされることに耐えらない!
自分の本質が何にも代えがたい“存在”であるからそう思うのだ。
自分はいる、ここにいる。
存在していることが自分の本質である。
だから、それを自覚し、自分自身の真実であることを常に望んでいる。
② 「チットचित्(知の源)」 ⇒「私は知る、わかることができる」ということ。
見たり、聞いたり知覚したり、それをまとめて考えたり、「知る、解る」のベースである「知・認識の源」が私である。
「認識のベース」としての私がいるから、考えることができ、感覚は物事のセンスをキャッチすることができる。
“考え”や、“感覚”は、実は道具でしかない。
これらの道具は、「知・認識の源」である私の本質があって、はじめて機能している。
たとえば、知覚や認識は脳という場所で起こる。
しかし、脳の主成分はたんぱく質と水。
なぜここに、
「わかる!」が起こる?
「なるほど!!」が発生する?
それは、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』に言わせれば、“私がいるから”。
たんぱく質に
「あっ、わかった!ヒラメイた!」
を起こす何かがある。
それが、「知・認識の源」である。
私とは、たんぱく質でも、水でもない。
そこに「知る」を起こす源、「知・認識の源」という存在こそが私の事実なのだ。
ちなみに、
眠っている時や意識不明の時も、「知・認識の源」としての私は消えることはない。
ただ、脳という場所に問題が起こっていて知覚が起こらないだけだ。
まるで、壊れてしまった蛍光灯のように、電気はそこにあるのだが、灯りがともらない。
同じ様に、場所に問題があれば、いくら「知・認識の源」の私がいても“認識”という光が灯らないのだ。
寝ている時は、“考えや感情”という道具が働いていない。
Yoga的にいえば、脳が『タマスतमस्(鈍性)』の状態になっている。
眠りという状況に陥る時、私たちの脳や心は一時的に重たいノイズで覆われてしまうのだ。
「知・認識の源」はあっても、何らかの障害があって機能しなくなることがある。
だから寝ていても、起きていても、本質的な私はいる。
私たちが「知・認識の源」であることは、私たちの自然に湧く欲求、求めていることをみることからも理解できる。
それは、
「知の源」である私たちは、無知であることに耐えられない!
ということ。
知りたい、原因を理解したい、解りたい、謎のまま放っておけない。
この自然の欲求の根底にあるのは、私たちの事実とは、“無知、知らない事”と矛盾する。
あらゆる「知」のベースである自分自身の事実からみれば、無知は、自分の真実ではない。
だからだれもが自分の本質と矛盾する“無知、知らない事”に我慢がならないのだ。
③ アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)
幸せの瞬間のあの広がり、あの充実。
満ち足りた時の、静寂に近いような至福の満足感。
それはすべて、自分自身が現れている瞬間である。
私たちは、自分が「幸せ、静寂、満ち足りている」ということの意味そのものだからこそ、幸せをいかなるときも求めている。
よくよく突き詰めて考えれば、自分も、他のだれかも、皆いろいろな物を欲し、何かになろうとしている。
何のためだろう?
最終的に何が欲しいのか?
それは、一言でまとめれば、「幸せ」であり続けたい、というシンプルな思いに行きつく。
すべての生物が望んでいることは「幸せ」だと、聖典はいう。
そんなことは、聖典にわざわざ言ってもらわなくても、私たちは心の深い場所で、皆わかっているかもしれない。
なぜなら、それが自分の真実であり、本来の姿であるからだ。
だから、私たちは焦がれる。
ごく自然の欲求として、自分の本質である「幸せ」や「自由」を求めるのだ。
***
ここからはっきりわかることがある。
私たちが求めているのは、本来の自分の姿であることなのだ。
自分自身の本質を実感し、そう在り続けることを求めている。
なぜなら自分自身の真実であるとき、私たちは心地よさを知る。
自分を受け入れ、自分に寛ぎ、内なるプレッシャーや葛藤から自由であることを知っているからだ。
外の世界にある何かを手に入れなくても、自分自身でいることの心地よさの中で、幸せと自由の意味を実感しているのだ。
“何かが足りない”という欲求からの解放と、それゆえの自由。
“自分に満ちている”、それだけで湧き上がる幸せである事の意味
静寂、落ち着き、安らぎ、
それらは皆、自分自身の本質を指し示している。
****
「ブラフマンब्रह्मन्」とは、この私の本来の在り様を、ただサンスクリット語で言い表した言葉にすぎない。
私たちの真実を含み持つ音にすぎない。
言葉は意味をともなって、はじめて機能する。
聖典の言葉は、意味をもって人に「知」を指し示すことができる。
「ブラフマンब्रह्मन्」とは、私が求める、自分自身の事実を意味している。
聖典は、
“存在・知・満ちていること”
という3つの矢をもって、その真意を射ぬく。
***
私たちは「ブラフマンब्रह्मन्」に成りたいのではない。
「何かになろう!」とするのは、Yogaの本来の目的ではない。
なぜなら、「なりたい!なろう!」ということは、“今現時点でそうではない”ということを宣言してしまっているような
ものだからだ。
もし、仮に何かになれたとしても、元々そうでないものから変化して成りあがったステータスのように、
いずれまた形を変えてしまうだろう。
私たちは「ブラフマンब्रह्मन्」に成らない。
「ブラフマンब्रह्मन्」であるのだ。
Yogaの教えという名のもとで、誰かが勝手に好き放題、想像で言っている。
「ブラフマンब्रह्मन्」という特別なものになることが、悟りだと。
その意味で使われる「ブラフマンब्रह्मन्」は、光ったり、ちょっと地面から浮いたり、神秘体験や、超常現象を引き
起こしたりする、「○○○マン」的なもの。
そんなモノになることは、私たちの本当の願いではない。
深く考えれば、私たちはそんな者になりたいとは、これぽっちも思っていないはずなのだ。
仮に、神秘的で素敵な「○○○マン」になったとして、
で?
で、それでどうする?
それでも不幸で、苦しみの淵で溺れていたら、一体何を目指していたのだ?
Yogaのゴールは、言葉では何か、突拍子もないことを目指しているようにも聞こえる。
会社に勤めながら、密かに“梵” (日本語でいう「ブラフマンब्रह्मन्」)になろうとしていたり、
社交しながらも、実はYogaをして「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」を見ようとたくらんでいたり。。
しかし、その意味をちゃんと辿って行けば、Yogaで目指すゴールは、私たちが当たり前に、誰もが心から望んでいることを探求する道の果てにあるのだ。
私たちは、自分を受け入れたい。
自分の限界や、葛藤や違和感、苦悩から自由になりたい。
「幸せ」でありたい。
「自由」でありたい。
ただそれだけだ。
聖典は、それを可能にする知識を与え、人を導いている。
そして、それは可能だという。確実に実現できるという。
そんな力強いことをいって道の途上にいる者を励ます。
なぜなら、それは真実だからだ。
すでにある事実なのだ。私たちが「ブラフマンब्रह्मन्」であるということは。
私たち自身の真実である以上、この自由が達成されないことなどない。
すでに真実なのに、そうではないと思っている。
もう「ブラフマンब्रह्मन्」なのに、自分だけはそうじゃないと信じている。
そして、苦悩にはまっている。
・・・そうだとしたら、解決は?
無知に基づく思いこみを解き、事実を受け入れることだけ!
そのための心の準備は、聖典の言葉を聞く事や、瞑想にある。
そして、目を開かせる教えや、師との出会い、良いきっかけは、恩寵として世界から与えられる。
自分が事実を知ることさえ望めば、教えやきっかけは必ず与えられる。
そうことになっている。
心配するなかれ!
そんな風に聖典は言うのだ。
ああ、よかった~
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といわわけで、続きはまた来週~
本日9月25日は、インドの暦では、「プラドーシャ」の日。
私たちが、過去にしてきたあんなことやこんなこと、、けして誇れる事ばかりでない悪行の数々・・
そういう『カルマकर्म(行い)』の結果を、この日に祈ることでまとめて清算できる、といわれています。
まあ、全部チャラになるわけでなく・・・
『カルマ(行い)』の結果は必ず自分で刈り取らねばならないのですが、
結果の影響を少し和らげる事ができる、“抗体”作りに適した日、とでもいいましょうか。
私たちの、アンラッキー、といわれる望まないシチュエーションや、障害や困難。
それらは、すべて過去の所業の結果であると言われています。
というわけで、特別な日にあたる今日は、朝から『プージャ(儀式)』を代行いたしました。
儀式の主は、赤ちゃんができた大事な友達。 私は儀式代行人。
母体の健康、そして赤ちゃんの幸せ、周りからの協力をしっかり受けれるよう願いを込めましたよ。
今日の儀式は11種類の大事な供物を捧げる「11ドラヴィア・アヴィシェーカ」。
ミルクやヨーグルト、はちみつ、サンダルウッド、聖なる灰、ターメリック、ハーブ、ローズ水、など貴重なものをバン
バンご神体にかけて捧げていくのです。
これが供物の一部。
今日『プージャ(儀式)』をしてくれた司祭さん。
ご神体である、「ダクシナムルティ(悟りをもたらす存在、シヴァの化身)」
『プージャ(儀式)』の終わりには、捧げた供物のいくつかを受け取ります。
捧げた物の結果が浄化のプロセスを辿って自分に戻ってくる。
それを「プラサーダ」といいます。
まるで、『カルマकर्म(行い)』のように。
捧げた物と相応のものが自分に戻ってくる。
それは祝福を持って受け入れられるべき事。
だから、儀式とは、この「プラサーダ」を受け取るまでが『プージャ(儀式)』なのです。
こうやって儀式の中にも、普遍の法則、“自然界の理”を見て、より深く事実を理解しようというのがヒンドゥー世界
の美しさですね~
| 向井田みお | 固定リンク
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