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2011年9月25日 (日)

「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくても、いいじゃない?⑤


ところで、「ブラフマンब्रह्मन्」は、日本では “梵” とかいわれて、なんだかとっても近寄りがたい・・・

そんな、大変荘厳な響きをもつ「ブラフマンब्रह्मन्」。

でも、「ブラフマンब्रह्मन्」というオリジナルの言葉自体はどういう意味なのか?

どんな意味をその言葉に含むのか?

今日は語源から、「ブラフマンब्रह्मन्」の謎に迫ってみましょう~

* *****「ブラフマンब्रह्मन्」、聖典的解釈********


「ブラフマンब्रह्मन्」とは、「√बृह्ブルフ(大きく広がる、増える、拡大する)」という語源から派生する。

意味は、“すべてに遍く広がる、限りなく大きい”という意味である。

ちなみに、中性名詞。「ブラフマンब्रह्मन्」は男性でも女性でもない。。

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『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』は、この「ブラフマンब्रह्मन्」という言葉が示している3つの“意味”を解釈する。

それが、

『サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)』

という3つの言葉である。

これらの言葉によって、「ブラフマンब्रह्मन्」という音の意味が限定される。

まるで、3本の矢のように、「ブラフマンब्रह्मन्」というターゲットを打ち抜く言葉が

「サットसत्(存在・真実)」

「チットचित्(知の源)」

「アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)」

なのである。


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「ブラフマンब्रह्मन्」=「サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)」
           「サッティヤン・ニャーナン・アナンタンसत्यं-ञ्जानम्- अनन्तम्(存在・知・限りなく満ちるもの)」

***************************************

前回も熱く語ったが、

『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の教えは、

“私たちは、「ブラフマンब्रह्मन्」である” 

という一言である。


この事実を確証することが、人を輪廻、苦悩、問題から解放するという。

問題のない自分とは、自由であり、幸せの意味である。

それがYogaの最終的なゴール「モークシャमोक्ष(悟り・自由)」であるというのだ。


とすると、「ブラフマンब्रह्मन्」を指し示す3つの言葉は、すべて自分自身の事実を指し示した意味でなければ辻褄
があわない。

これから、

「なぜ私たちが「ブラフマンब्रह्मन्」といえるか?」

3つの言葉を解き明かしながらみることにしよう。


「ブラフマンब्रह्मन्」=「サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)」

① 「サットसत्(存在・真実)」  ⇒ 「私はいる」ということ

「私はいる」というのは、否定しようのない事実。

それが、存在を証明している。存在は、誰かに確認する必要も、もはやなし。

私たちは、Yogaをしているから存在しているわけではない。
瞑想したから、存在しているのでもない。
悟りを開かなければ、存在できないのではない。

何をしても、しなくても、誰かに指摘されなくても、間違いなく「私はいる」

このだれもが知っている事実が、「サットसत्(存在・真実)」の意味である。

「私はいる」

「私は「サットसत्(存在・真実)」である。」

そして、この当たり前の自分自身の本質を常に自覚することを望んでいる。


その証拠に私たちは、

誰かに無視されたり、自分の存在を軽く見られたり、無きものにされることに耐えらない!

自分の本質が何にも代えがたい“存在”であるからそう思うのだ。

自分はいる、ここにいる。

存在していることが自分の本質である。

だから、それを自覚し、自分自身の真実であることを常に望んでいる。



② 「チットचित्(知の源)」    ⇒「私は知る、わかることができる」ということ。

見たり、聞いたり知覚したり、それをまとめて考えたり、「知る、解る」のベースである「知・認識の源」が私である。

「認識のベース」としての私がいるから、考えることができ、感覚は物事のセンスをキャッチすることができる。

“考え”や、“感覚”は、実は道具でしかない。

これらの道具は、「知・認識の源」である私の本質があって、はじめて機能している。

たとえば、知覚や認識は脳という場所で起こる。

しかし、脳の主成分はたんぱく質と水。

なぜここに、

「わかる!」が起こる?

「なるほど!!」が発生する?


それは、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』に言わせれば、“私がいるから”。

たんぱく質に

「あっ、わかった!ヒラメイた!」

を起こす何かがある。


それが、「知・認識の源」である。
私とは、たんぱく質でも、水でもない。

そこに「知る」を起こす源、「知・認識の源」という存在こそが私の事実なのだ。

ちなみに、

眠っている時や意識不明の時も、「知・認識の源」としての私は消えることはない。

ただ、脳という場所に問題が起こっていて知覚が起こらないだけだ。

まるで、壊れてしまった蛍光灯のように、電気はそこにあるのだが、灯りがともらない。

同じ様に、場所に問題があれば、いくら「知・認識の源」の私がいても“認識”という光が灯らないのだ。

寝ている時は、“考えや感情”という道具が働いていない。

Yoga的にいえば、脳が『タマスतमस्(鈍性)』の状態になっている。

眠りという状況に陥る時、私たちの脳や心は一時的に重たいノイズで覆われてしまうのだ。

「知・認識の源」はあっても、何らかの障害があって機能しなくなることがある。

だから寝ていても、起きていても、本質的な私はいる。


私たちが「知・認識の源」であることは、私たちの自然に湧く欲求、求めていることをみることからも理解できる。

それは、


「知の源」である私たちは、無知であることに耐えられない!
ということ。

知りたい、原因を理解したい、解りたい、謎のまま放っておけない。

この自然の欲求の根底にあるのは、私たちの事実とは、“無知、知らない事”と矛盾する。

あらゆる「知」のベースである自分自身の事実からみれば、無知は、自分の真実ではない。

だからだれもが自分の本質と矛盾する“無知、知らない事”に我慢がならないのだ。



③ アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)

幸せの瞬間のあの広がり、あの充実。

満ち足りた時の、静寂に近いような至福の満足感。

 それはすべて、自分自身が現れている瞬間である。

私たちは、自分が「幸せ、静寂、満ち足りている」ということの意味そのものだからこそ、幸せをいかなるときも求めている。

よくよく突き詰めて考えれば、自分も、他のだれかも、皆いろいろな物を欲し、何かになろうとしている。

何のためだろう?

最終的に何が欲しいのか?

それは、一言でまとめれば、「幸せ」であり続けたい、というシンプルな思いに行きつく。

すべての生物が望んでいることは「幸せ」だと、聖典はいう。

そんなことは、聖典にわざわざ言ってもらわなくても、私たちは心の深い場所で、皆わかっているかもしれない。

なぜなら、それが自分の真実であり、本来の姿であるからだ。

だから、私たちは焦がれる。

ごく自然の欲求として、自分の本質である「幸せ」や「自由」を求めるのだ。


***


ここからはっきりわかることがある。

私たちが求めているのは、本来の自分の姿であることなのだ。

自分自身の本質を実感し、そう在り続けることを求めている。

なぜなら自分自身の真実であるとき、私たちは心地よさを知る。

自分を受け入れ、自分に寛ぎ、内なるプレッシャーや葛藤から自由であることを知っているからだ。

外の世界にある何かを手に入れなくても、自分自身でいることの心地よさの中で、幸せと自由の意味を実感しているのだ。


“何かが足りない”という欲求からの解放と、それゆえの自由。

“自分に満ちている”、それだけで湧き上がる幸せである事の意味

静寂、落ち着き、安らぎ、

それらは皆、自分自身の本質を指し示している。

****


「ブラフマンब्रह्मन्」とは、この私の本来の在り様を、ただサンスクリット語で言い表した言葉にすぎない。

私たちの真実を含み持つ音にすぎない。


言葉は意味をともなって、はじめて機能する。

聖典の言葉は、意味をもって人に「知」を指し示すことができる。

「ブラフマンब्रह्मन्」とは、私が求める、自分自身の事実を意味している。

聖典は、

“存在・知・満ちていること”

という3つの矢をもって、その真意を射ぬく。

***


私たちは「ブラフマンब्रह्मन्」に成りたいのではない。

「何かになろう!」とするのは、Yogaの本来の目的ではない。

なぜなら、「なりたい!なろう!」ということは、“今現時点でそうではない”ということを宣言してしまっているような
ものだからだ。

もし、仮に何かになれたとしても、元々そうでないものから変化して成りあがったステータスのように、
いずれまた形を変えてしまうだろう。

私たちは「ブラフマンब्रह्मन्」に成らない。


「ブラフマンब्रह्मन्」であるのだ。


Yogaの教えという名のもとで、誰かが勝手に好き放題、想像で言っている。

「ブラフマンब्रह्मन्」という特別なものになることが、悟りだと。

その意味で使われる「ブラフマンब्रह्मन्」は、光ったり、ちょっと地面から浮いたり、神秘体験や、超常現象を引き

起こしたりする、「○○○マン」的なもの。

そんなモノになることは、私たちの本当の願いではない。

深く考えれば、私たちはそんな者になりたいとは、これぽっちも思っていないはずなのだ。

仮に、神秘的で素敵な「○○○マン」になったとして、


で?

で、それでどうする?

それでも不幸で、苦しみの淵で溺れていたら、一体何を目指していたのだ?

Yogaのゴールは、言葉では何か、突拍子もないことを目指しているようにも聞こえる。

会社に勤めながら、密かに“梵” (日本語でいう「ブラフマンब्रह्मन्」)になろうとしていたり、

社交しながらも、実はYogaをして「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」を見ようとたくらんでいたり。。

しかし、その意味をちゃんと辿って行けば、Yogaで目指すゴールは、私たちが当たり前に、誰もが心から望んでいることを探求する道の果てにあるのだ。

私たちは、自分を受け入れたい。

自分の限界や、葛藤や違和感、苦悩から自由になりたい。

「幸せ」でありたい。
「自由」でありたい。

ただそれだけだ。

聖典は、それを可能にする知識を与え、人を導いている。

そして、それは可能だという。確実に実現できるという。

そんな力強いことをいって道の途上にいる者を励ます。

なぜなら、それは真実だからだ。

すでにある事実なのだ。私たちが「ブラフマンब्रह्मन्」であるということは。

私たち自身の真実である以上、この自由が達成されないことなどない。


すでに真実なのに、そうではないと思っている。

もう「ブラフマンब्रह्मन्」なのに、自分だけはそうじゃないと信じている。

そして、苦悩にはまっている。


・・・そうだとしたら、解決は?

無知に基づく思いこみを解き、事実を受け入れることだけ!

そのための心の準備は、聖典の言葉を聞く事や、瞑想にある。

そして、目を開かせる教えや、師との出会い、良いきっかけは、恩寵として世界から与えられる。

自分が事実を知ることさえ望めば、教えやきっかけは必ず与えられる。

そうことになっている。

心配するなかれ!

そんな風に聖典は言うのだ。


ああ、よかった~


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といわわけで、続きはまた来週~

本日9月25日は、インドの暦では、「プラドーシャ」の日。

私たちが、過去にしてきたあんなことやこんなこと、、けして誇れる事ばかりでない悪行の数々・・

そういう『カルマकर्म(行い)』の結果を、この日に祈ることでまとめて清算できる、といわれています。

まあ、全部チャラになるわけでなく・・・

『カルマ(行い)』の結果は必ず自分で刈り取らねばならないのですが、

結果の影響を少し和らげる事ができる、“抗体”作りに適した日、とでもいいましょうか。


私たちの、アンラッキー、といわれる望まないシチュエーションや、障害や困難。

それらは、すべて過去の所業の結果であると言われています。

というわけで、特別な日にあたる今日は、朝から『プージャ(儀式)』を代行いたしました。

儀式の主は、赤ちゃんができた大事な友達。 私は儀式代行人。

母体の健康、そして赤ちゃんの幸せ、周りからの協力をしっかり受けれるよう願いを込めましたよ。

今日の儀式は11種類の大事な供物を捧げる「11ドラヴィア・アヴィシェーカ」。

ミルクやヨーグルト、はちみつ、サンダルウッド、聖なる灰、ターメリック、ハーブ、ローズ水、など貴重なものをバン
バンご神体にかけて捧げていくのです。


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これが供物の一部。

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今日『プージャ(儀式)』をしてくれた司祭さん。


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ご神体である、「ダクシナムルティ(悟りをもたらす存在、シヴァの化身)」


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『プージャ(儀式)』の終わりには、捧げた供物のいくつかを受け取ります。

捧げた物の結果が浄化のプロセスを辿って自分に戻ってくる。

それを「プラサーダ」といいます。


まるで、『カルマकर्म(行い)』のように。


捧げた物と相応のものが自分に戻ってくる。

それは祝福を持って受け入れられるべき事。

だから、儀式とは、この「プラサーダ」を受け取るまでが『プージャ(儀式)』なのです。


こうやって儀式の中にも、普遍の法則、“自然界の理”を見て、より深く事実を理解しようというのがヒンドゥー世界
の美しさですね~


| 向井田みお |

2011年9月20日 (火)

「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくても、いいじゃない?④

探しているものは、実は自分自身の本質であった。。。


これがYogaのゴールの最大のオチというか、
いやいや、探求のすべてである。


私の師ダヤナンダ先生はよくいうのだが、

「何が事実か解かる、っていうことは、世界最大のジョークを笑えるってことなのさ。」

そんな風にいって、ガハハハと笑う。

・うん、大変明るい。頼もしい。


全生物が皆、自然に欲していること。

自分自身が「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」であると知ること。

その理解において揺らがないこと

これがすべてだと、聖典はいう。

なぜなら、それが理解できたら、どんな世界で生きていても問題がないからだ。
緊張もなく、葛藤もない。

世界の根源が自分自身の本質だ、この事実を知る者を恐れさせ、脅かすものはこの世界にあるだろうか?
そんなものありはしない。

だってすべてが自分自身ということは明らかなのだから。


その人のヴィジョンには、自分と世界の間に恐れや違和感が介在する距離がない。

ただ1つの真実が自分を含めたすべてに広がり、満ちているという事実の確信が、
彼に敵をつくらない。

外にも内にもプレッシャーが無いその人は、常に寛いでいる。 しかも無条件に。

自分こそが安心と幸せと、自由の意味であることの事実に確立した人を束縛し、苦しませ、悩ませるものはないのだ。
いつでも、どこにいても、誰といても、どんな状況であっても。

そして聖典にいわせれば、

私たちが皆、すでに「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」ということはこの世界の唯一の事実なのだという。


聖典はいう。


あなたは、昔から「存在」であった。

たとえ肉体が現れていようと、なかろうと、絶対的な「存在」があった。

あなたは、「知・認識の源」であり、それゆえ考えというフレームに映る世界を認識することができた。

それはあなたの、“わかった!”という叫びや “なるほど!”という知の輝きが証明している。

事実からいえば、あなたは音を聞いているのではない。

聞くことは、音があなたという「知・認識の源」に起こっていることを、知ることだ。

見えるということは、景色があなたにに映っていることを、知ることなのだ


「存在であり知の源」はこの世界を埋め尽くしている。

あなたが指を指してみせるすべてが、「存在」である。

指をさし、指し示すあなたは「知」である。

それだけが事実として満ちている。

あなたが経験するすべては「存在であり知」である。

この瞬間、今も、そして未来も。

あなたが、「存在・知」であり、満ちているすべてだ。

そういうあなたの本質を「ブラフマンब्रह्मन्」と私は呼ぼう。

あなたが「ブラフマンब्रह्मन्」でなかったことなど、ないのだ。



これが事実だとすると、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である私たちに、問題を作って悩ませ
ている可能性はひとつだ。


それは、私がその事実を知らない。ということ。

私が、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である自分自身の本質を知らない、
ということになる。

「自分自身の本当の姿を知らない。」
「自分の事がよくわからない。」

これが私たちに問題と言えるようなものを作り出している。

本当の姿がわからず、本来の自分の上に、自分でない物を重ねて、それを自分自身だと思っている。

真実の自分の近くにあるモノや、事実に覆いかぶさり隠すものをみて、それらを誤認して判断する。

その虚像である“自分”に、限界をみている。

自分自身を小さい、頼りない、つまらない者
という見方で自分をみて、事実を知らずに勝手に結論をだして打ちひしがれる。

事実を知らないから、自分でないモノを、「これが自分だ」と断定することが、私たちの問題だ。

**


具体的にどういうことが起こっているのだろう?


たとえば、家族や、家や車や、ペット、大事だと思い込んでいる近しいものが傷ついたり、それらを失くしたりすると私たちは非常に苦しむ。まるで、自分の一部が奪い取られて様に感じる。

しかし、不思議な事に他人の家族が同じ病気や事故にあったとしても、同じ家や同じ家が壊れても、自分のペットと同じ種類の動物がどうにかなったとしても、同じような痛みや苦しみは私たちの心には湧かない。

心の奥底からの苦しみはない。

そこには「自分と自分でないモノ」の距離があるからだ。


しかし、ひとたび自分の車とか、洋服とか、宝物がひどい目にあうと自分のことのように私たちは苦しむ。
それらは皆、初めは自分自身ではなかったのに、愛着が増すごとに自分の分身化していってしまう。

「自分でないモノと自分」の間の境が見えなくなる。

そういう境界が薄れたものが傷つくことは、まるで自分が傷つけられるようにイタイ事だと思ったりする。


同じことが、自分の肉体、感覚、精神と、そこに宿っている本来の自分自身の間に起こっている。


私たちは、何も持たずにある日この世界に現れた。
本来肉体すらもっていなかった。

ここにやってきた時に、肉体が与えられ、食べ物が与えられ、服が与えられ、名前や、おもちゃや、特徴や、文化や習慣や、関係や「役割」、、etcいろいろな物が与えられた。

それらはすべて本来の自分自身ではない。
自分に与えられた付属物、変わりゆく物でしかない。

「私自身」は、それらを上手く使いこなす存在である。「この私は」変わらない。

赤ちゃんのころから、今の今まで「この私」はいつも在った。
体が座布団サイズから、1.5メートルに成長しても、±10kgの激変があっても、中心の「私」はいつも変わらない。

小学生の時の写真と、成人式の写真をみて

自分のモノたちのあまりの“かわりっぷり”には驚くが、それらの中心にいた自分は変わらないであることを知っている。だから、その経験を楽しむことや懐かしむことができる。

しかし、わたしたちは中心にいる変わらない自分がいることには驚かない。

本来はそちらの方が、とてつもなく凄いことであるのに。


本質的な自分自身を知らず、しかもこれに無自覚で、それでも私たちは生きていける。

だけど、この基本的な自分への無知こそが様々な問題を作り出しているのだ。


何が事実か知らなければ、私たちは自然に “変わりゆくものや、他の対象物と比較できるもの”を自分自身だとしてしまう。


たとえば、この体や考えや、感情や、感覚など。持っている能力や資格や、技術や学歴や職歴が自分になってしまっている。

自分は“変わるもの”と思っていれば、どこかいつも空しく、頼りない。

だから私たちは、無意識に“確固とした何か”や絶対といわれる何かを、心のどこかで求めている。

自分は比較の対象となるもの、と思っていれば、いつも自分を他の対象物と比べ、過少に評価して自信をなくしたり、過大に評価して尊大になったりもする。

そして世界に限りなくある物の1つが自分自身だと思っていたら、自分はなんて世界でちっちゃい奴なんだろう?!と当然思う。


非力で、小さく、大きな世界の中で、今にもかき消えてしまいそうな儚い自分。

こんな自分に意味あるのか?
そう思ってしまっても仕方ない。


だから、当然そんな自分に意味付けをしようとして、ビッグに、フェーマスに、パワフルになりたいと誰もが思っている。


誰かにとって特別である自分。
自分にとって特別である自分。

世界の中で、自分は小さい奴なんかじゃない!という抵抗感が私たちを「何者かになろう」とさせる。

スペシャルでないと信じ込む小さい自分が、必死になって何かに成ろうとしている。

この欲求の原因は、一言でいえば「不安」だ。

不安な自分を自分で認められない。
だから、自分以外の誰かに認められないと、不安でいっぱいの私たち。

だれかに凄い!といってもらわないとダメなような気がする。

逆に誰かが評価されていると、自分はそれには及ばないのか?と思って、孤独になったり嫉妬してみたり。

嫉妬も、プライドも、だれと喜びを分かち合えない狭さも、みんな「不安」が原因だ。

そしてこの不安は、

私たちが自分自身の本当の姿を解っていない。という根本的な無知にがっちりと根をおろしている。

無知で不安で、世界に対して緊張がいっぱい。

そんな自分を、心から自分が認めることができない。
受け入れることができていない。

それが、自分の心の深くに疑惑や不信を生み、いうに言われぬ不満、フラストレーションをつくりだす。

その私が何かしようとして、心もとなく一人ぼっちで世界に立っている。
事実を誤解して歪めた自分の考えに、世界が映りこむ。

頼りない自分は世界に期待する。

しかし、期待の多くは裏切られる。

そして傷つき、世界に対して壁を作り、心を閉ざしてしまう。

“世界は自分を傷つける” 

その思いがある自分は、どこにも寛ぐことができないまま、
世界は自分の前に大きくはだかり、立ち向かうべきものになる。


だから、だれもが自分を守ろうとし、安全を求める。


すこしでもマシになれると信じて武器をもつ。
身を守る武器は刃物や銃である必要はない。

それは、お金という力かもしれないし、権力かもしれない。資格やポジションや、頼りになるパートナーかも。
しかし、何を持ったとしても、たぶん心から安心することはできない。

なぜなら、自分を守るそれらだってうつり変わり、儚いモノでしかないからだ。


しかも、ここが肝心だが、自分の中心ある無知に根を張る不安の根源が、安心できない限り、
何を持とうと、何をしようと、
不安や恐れには常に影のように自分をつけまわし、心の闇を見せるのだ。

聖典はこの根源の恐れにアプローチする。


「その恐れが無知なのならば、知識をもって私はあなたを恐れを越えさせよう」

という頼もしい教えなのだ。

曰く、


「いいか? あんたが存在しなかったことなどない。

それは確かだな?

そしてもっといえば、知の源でないこともないし、欠けていることなどぬぁい!

あなたは自分の凄さを知らなさすぎる。

自分の真実を歪めず、はっきり理解して、自分自身のままであればよいのだ。」



自分が、私には見えていない。

自分自身であるからこそ、最も近い存在でありながら、最も遠いところに理解がある。

永遠に私たちは自分の顔を直接見て確認することができないように。

一番近くて、一番遠くにある存在。


だから、「私」は自分の近くにある何かを、自分だと早とちりして結論付ける。
この体や、考えや、感覚や、動きや癖や習慣や声が、自分自身であるというように。

体の限界を、自分の限界にしている。
体のコンディションを、自分の状態にしてしまっている。


事実は、「高い身長を持つ自分」、これがいつしか、「自分は背が高い」、になる。
「太った体を持つ自分」、が、「私は太っている」になる。
「怒りっぽい質を持った私」が、「私は怒りっぽい」になる。
「病気を持った体をもつ私」が「私は病人」になる。

それ故、私=様々な問題の巣窟、みたいになってしまうのだ。


・・ぁぁ、そうかもしれん。


もし、そう思ったら、聖典のヴィジョンを理解できる心の準備が整っているといわれる。


なぜなら、私たちに特有の問題の質とそのメカニズムを理解しているから。

問題のありかが何処にあるかさえ解れば、
解決はそこにあるのみ。

ただしい処方箋をもってアプローチすればいい!

その特効薬が『ヴェーダ(聖典)』の最終章の教え『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の言葉である。


ならば、ここから

Here We Go!!

**********************************

続きはまた来週~

どんどん話が大きくなる。。

皆さんご無事?

私は、こんな話を毎日インドで聞いているのですよ。

さてさて、すっかり日本は秋めいてきてのでしょう。


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こちら南インドは異常気象なのかもしれん。
いつもなら雨季で、毎日雨に潤いを与えられるはずが、今年はカラカラ。

雨が少なくて心配ですな。

連日暑くて、大変です。

というわけで、今日は朝から雨乞いの祈りを東の空に向かっていたしたしだいです。


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「雨フレフレ」

| 向井田みお |

2011年9月12日 (月)

「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくても、いいじゃない?③

**『ヴェーダ(聖典)』は、私たちの本質は「幸せの意味、自由の意味」であるという。
その意味を表現している言葉が「ブラフマンब्रह्मन्」であると。

しかし、この世界には、いいことばかりはない。
苦悩だらけ、つらいことだらけ・・・かもしれない。


本当に私が幸せの源なのか?

『ヴェーダ(聖典)』のいうことをにわかには信じがたい。

そういう人達は昔からインドにも沢山いた。

そして、人間の真実は「苦」だという、学派も現れた。

「サーンキャसांख्य(2元論を主張する学派)」哲学といわれるのがこの代表選手。

人間の本質は苦、だからそれを認めてしまえば、楽になるだろう?という。
だって、世界と自分は常に別れて、幸せを味わっている一体感の中にいることの方が、
イレギュラーなことなのだから。。

というのが彼らの主張。

はたしてそれに対して、『ヴェーダ(聖典)』の最終章『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』を忠実に解釈し、

「人間の本質はただ1つの真実である、それが幸せの意味だ!それが「ブラフマンब्रह्मन्」だ。」

と教える賢者たちはどうこういった考えに対峙していったのか?


「私たちが今この瞬間も、ここで、「ブラフマンब्रह्मन्」じゃないなんて、だれがいいきれる?
あなたがいつだって探し続け、求め続けているのは、“幸せの意味であること”ではないのか?
 そうだっただろう?

それは、外のものでは手に入らない、どこかに行くことでも得ることができないということは解ったはずだ。
じゃあそれはどこにある?

どこでも、どんな時でも、私たちがそうでありたいと思っていること。

つまり「幸せであり、自由」であるということが、実在していて、私たちがそう確信することが可能であるのなら、
今ここでも、そうでなければおかしい。

だったら、その可能性は何処に在ると思う?

今、ここに、まさにいるあなた自身が初めから、探したり、得たり、出かけたりしなくてもそうである、

あなた自身であることだけが、「幸せであり、自由」でなければ、人間の探求はいつまでたっても終わることはない

と、そうは考えないのか?」


そんな風にいう。

さて、これからどうして私たち自身が「ブラフマンब्रह्मन्」であるのか?

探しているものは、探している者自体だった。。

という結論をだせるのか?

「ブラフマンब्रह्मन्」の解釈とともに見ていこう。


*******************************


もし誰かが言うように、「苦」が私たちの本来の姿だったら、
私たちがいま「幸せ」の瞬間を求めているように、私たちはいつも「苦」の追求へと明け暮れているはずだ。


自分の本来の姿でありたい、

この自然に湧いてくる真実への欲求が、その人を「苦」へと走らせるだろうから。

だが、そんなことはない。

私たちにとって、「苦」やっぱり「苦」なのだ。
あたりまえだが。

「苦」は嫌な物で、避けたいものだと誰もが思う。

なぜならそれは、自分の本質ではないから、
私たちは「苦」が自分の中にあることに違和感を覚えるのだ。

どんな些細なことでも私たちは自分の中に「苦」をみたら、とりのぞきたいと思う。
それがごく普通の、自然な欲求だ。


本来“自分でない”ものが自分の中に、存在していることに私たちは我慢ならない。

そういうものだ。

違和感をもちながら、リラックスすることなどできない。

例えば、
目の中にはいった埃は、どんなに小さくたって気持ち悪い。 。
胃の中にはいってきたピロリ菌は、目に見えないほど小さいけれど、本来ある自分のシステムにおいて異質であ
るから、気分が悪くなる。全身が異物に対してリアクションして病の症状を現す。

そんな風に、この肉体というレベルでも、本来の自分以外の物が侵入してくることに、私たちは耐えられない。

故に、「苦」を見たら、すぐにでも取り除きたい。
なぜならそれは、自分にとって“異質”なものだからだ。

当然だ。


そして本当の自分の姿である「幸せ」の意味にいつまでも留まりいたい、と思う。

幸せの瞬間の時にいつもいたい。いられたら、と思う。

私たちが深くいい眠りについている時。
私たちは自分の中に違和感をみていない。だから、その状態を心地よく思い、寛ぐことができる。
そこにいつまでも留まりたい、と願う。


それが、私たちが、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」を指し示す言葉の3つ目の意味
「アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)」そのものである、といいきる根拠だ。

自分の中に違和感がないこと、異質なモノが無い時に経験できている絶対的な安心感や幸せ。

これは、外からつけたしたものではない。
元々ここにあったのだ。


自分の中に、自分を否定したり、拒絶したりする思いや、緊張や、不安という異物がなければ、
私たちは本来の“幸せ”である事実に留まることができる。


しかし、

私たちは混乱している。本来の自分が何者か,解らなくなっている。


そうして忙しく外へ出かけ、何か自分をマシに、マトモにしてくれそうなものを血眼になって捜している。
もはや戻るべき場所、帰るべき所がどこなのかも、忘れてしまっているのだ。



さて、

我を忘れるような経験から、私たちは自分の本来の姿に立ち戻ることを思い出す。

自分に違和感のないこと。

そのとき味わえる“幸せ”の意味。

私たちの経験に対して、聖典の結論は真実を証明する。

あなたとは、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である、

ということをいうのだ。

でも、

し、

「いやいや苦こそ、我が本性。我は苦なり。苦を求めるなり」

というオトボケさんがいたら、迷わずインド・ボンベイあたりの駅前スラムに裸で送り込んであげてほしい。
きっと、あらゆる「苦」ゆえの絶頂に達することができるはずだから。。。 


『ヴェーダ(聖典)』が述べる事実は、

私たちの本性は、「幸せ」の意味そのものである、ということである。

私たちは、普段ごく自然にいろいろな物、何かステキなものを求めているようにみえる。

その物が欲しいのか?

それとも、

そういう物を持っている“幸せな状態の自分”が欲しいのか?

どちらだろう?

私たちが欲しいのは、物ではない。特別な場所ではない。

それを得ることによって味わえる、一体感、安心感、寛ぎ、心地よさ、が欲しいのでは?


一言でまとめれば「幸せである」、そういう自分の在り方を求めているのだろう。

皆が忙しく何か物や状況を探しているようにみえる。
けれど、皆、その物の後ろにある「幸せである自分」だけを求めているのだ。


物や状況は、この自分を表に引き出してくる、切っ掛けにすぎない。
そういえるのは、「幸せ」の意味が私自身であること、に他ならないからだ。


自分が何かと一体感を得ている。

その時自分の本質が“喜びや幸せ”という感情や経験といった形をともなって姿を表す。


なぜ、物や場所はきっかけにすぎないか?

といえば、
ある物を目の前にして私たちが、いつも必ず同じ心境でいれるか?といったら、けしてそうではないからだ。

体のコンディションが崩れたときの、夢のように甘いフルーツは私たちを必ずしも喜ばせない。
世界最高のチョコレートも、10個程経験した辺りから、多分苦痛になる。
憧れの場所にいっても、耳に入ってくる悲しいニュースによって、私の喜びは冷めてしまう。

状況やモノは、あくまでも“自分の本質”を引き出してくれるきっかけにすぎず、“幸せ”をもたらすものではない。

“幸せ”という物がどこにも売ってないのは、それが絶対ではないからだ。


私たちは何かと一体感を得ていたり、我を忘れて何かに没頭していたり、理解したり、夢中になっている時、心から寛いでいる時に、幸せを体験している。

この幸せは、自分の本質である“幸せの意味”を否定されない時に可能なのだ。


「私は不幸だ、悲しい、小さい、醜い、無意味だ。。。」


だなんて、決めつけて言う自分の中の誰かががいない限り、私は単純に幸せなのだ。

集中しているとき、熟睡しているとき、夢中で何かをしているとき、この否定的な結論をだす何者かがいない。
自分を“小さく、無意味な私と決めつける中心がいなくなる時、

不満とプレッシャーでいっぱいな、事実を知らずに何かに怯える“無知な私”が力を失う。

否定し、騒ぎ立てる、自分の中の何かが静かになった時、
私は心から自分の本質を“幸せ”な経験として味わえる。


なぜなら、それこそが私たちの本当の姿だから。


そして、この主観的に自分を判断し、ネガティブな結論をだし、違和感を抱えている何者かは、

他ならない私の1つの考え方、物の見方、認識の仕方なのである。

私たちの探求とは、自分自身の真実である。

私たちが本当に探しているのは、自分自身の本質を知り、そこに在り続ける、ということなのである。


苦悩だ、つらい、不安だといってのける“私”は、

本質の私を覆い隠し、本来ののびのびした自分を制限する主観であり、勘違いだ。

それは己の事実を知らない、無知が根源となっている。


だから、「幸せ」でありたければ、この様な考え方をする自分の中心にいる無知が、理解し、納得する必要がある。
自分の真実とはが何か?ということを。


問題の中心にしか、解決はない。

自分の苦痛や恐れの違和感の原因は無知にあるのなら、知識を持って納得することでしか解決はできない。

私は自分を知らなすぎる。

そして、無知の上に勘違いを重ねて、世界と自分をみている。
それが問題を作り出している。

私は、何かを得ても、得なくても、幸せの根源「ブラフマンब्रह्मन्」である。
幸せと自由、意味である。


そのクリアーな理解から自分と世界をみたら、無知ゆえの勘違いにしがみついていた問題たちが自然と離れて行ってしまう。

違和感や勘違いは、問題が蔓延る場所を失う。

事実に納得した私の中には、問題が巣食うポイントがどこにもないからだ。


光と同時に、闇は同じ場所にいることはできない。

同じ様に、

無知は、真実の知識と理解と同時に存在することは不可能なのだ。

そして、私たちの無知を、鋭い矢のように貫いて、吹き飛ばすのが聖典の事実を語る言葉に含まれた教えである。

それが、

『アハン・ブランマ・アスミअहं ब्रह्म अस्मि
私の真実は世界の源「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である。

『タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि(You are That)
あなたの本質とは「タットतत्(あれ)」=「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である)


という一文であり、その意味でなのである。

*****************************

というわけで、今週はここまで。

聖典はなんども、


「あなたが「ブラフマンब्रह्मन्」だ。

あなたとは、心から望むただ1つの真実のことなのだ。」
と私たちにいう。


・・・それでも、私たちは納得がいかない。

「そんなバカな!
ごくわずかの幸せを間にはさみながら、ほぼ悲劇を生きてるような、そんなヒロインであるあたくしが“幸せと自由”の意味ですって!?
そんなこと信じなくってよ。」


そう言うかもしれない。

でも、それって自分がたった一人で自分に対して出した結論なのでは?

そうやって、不幸や苦悩の主人公を気取るのは勝手だが、それでは生きることがつらいことになってしまう。

そしたら、私たちは実に悲しき生物だなぁ・・


しかし、『ヴェーダ(聖典)』の最終章でそれを力強く“全否定”する。


「あなたが、幸せじゃなくってどーすんだっ?!
生きることは幸せである自分を納得する旅のようなものだ。

そうじゃなきゃつまらんじゃないか?

苦だけなら、生きてることは、呪いになってしまうだろうさ。

違うぞ。

生きていることは、それだけで祝福であり、それだけで喜びなのだよ。


あなたがいる。

それは、もう奇跡なくらい凄いことなのだから」


とでもいうように、私たちに明るい真実を教えているのだ。

さあさあ、この明るい教えの続きはまた来週~

「「ブラフマンब्रह्मन्」じゃない、なんていえる根拠なんてまるでナシっ。」

という聖典の教えをさらにみていこう♪

しかし、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』は明るいですなぁ~
こんな教えがあって、ホントよかった、よかった。

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ところでパッションフルーツって、ご存知ですか?

ガムとか、ジュースの味では知っていたけど、私はインドに来るまで知りませんでした。
アシュラムには、パッションフルーツの木があるのです。
で、こんなふうに無造作に実がなる。


こんな風になっているから、風の強い日や雨の日にはポトポトと実がおちてくる。

そんな時この木の下をとおりがかると、
パッションフルーツを自然に収穫できてしまうのです。シメシメ(^0^)


・・・風の強い日に、この木の周りを、うろちょろしている怪しい日本人。

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で、あけると、プチプチした種に、こんなオレンジのとろっとしたジュースがかかっている。
スプーンですくって食べると、うーん、あのガムの味!

・・・己の経験の貧困さにいやけがしますが。。

パッションフルーツの存在はオリジナルを知らずに、ガムから知ったものでね、、ええ、ええ。
そうしても、こういうチープな感動の仕方になってしまいますよ

甘みと鋭い酸っぱみ(クエン酸)が、疲れを吹き飛ばしてくれてくれますな~。


さとて、、これが調子にのって収穫した兄弟たち。


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あ、あんたち・・なんて無邪気なんだ?!

| 向井田みお |

2011年9月 4日 (日)

「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくてもいいじゃない?②

Yoga経典、聖典の「悟り・自由」への鉄則

「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」、つまり自分自身の事実とは、
「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」であると知ること。

⇒これが人を究極の自由へ至らしめる術ある、と聖典はいう。


*****


この「ブラフマンब्रह्मन्」について、そして「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」についての事実は、
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』という聖典に書かれている。


『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』とは、
別名『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』という。
2つは、同じ本の同じ個所を指している。

同じ聖典の、同じ部分が「形式と機能」という2つのスタンドポイントからみることで、それぞれに呼び名を変えているのだ。


【形式・場所で表現した場合】
『ヴェーダ(聖典)』という本の一番最後にある部分、という意味。
『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』=『ヴェーダ(聖典)』の一番後ろにある章


【機能・内容で表現した場合】
『ヴェーダ(聖典)』の最後の章が、表現しているテーマとその役割、を意味しての呼び名。
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』

ウパ=自分に一番近い(問題を) ニ=はっきりと シャッド=壊して、根こそぎとり、人を自由へ導く知識。


『ヴェーダ(聖典)』という聖典には、特定の作者はいない。

一個人の著作物ではない。だからこそ聖典としてのステータスがある。

その内容は、生き方や教養、文化、社会システムのあり方についてあるべき姿を人に教え、規定する。

ヒンドゥー文化圏におけるファウンデーションを構築している知識体系である。

Yogaを生み、育んだ彼の大陸(インド)では、この『ヴェーダ(聖典)』は“絶対”といわれる。

何を持って“絶対”などというのか?

というならば、
それは、『ヴェーダ(聖典)』に対して、人間には反論の可能性がないからである。

否定しようが、肯定しようが、その内容については人間の能力では真偽を確認することが不可能なのだ。
それ故、“絶対”と呼ばれている。

人は『ヴェーダ(聖典)』の記す主要なテーマについて、証明できる能力と機能を持ち合わせていない。

では、一体どの辺のテーマを『ヴェーダ(聖典)』が扱っているのか?


たとえば、人間の生死の仕組みや、
肉体を手放した後の死後の世界の事や、
生まれる前にあった状態のことなどである。
なぜ自分は人と違うこの人生を生きるのか?
なぜ生物には生まれついての違いがあり、違うシナリオがそれぞれに用意されているのか?

これらが『ヴェーダ(聖典)』の語る主要テーマである。

私たちにはそういった類の真意を確認することができない。

生死が繰り返される“輪廻”といわれるサイクルの有無や、その目的や原因について。
『カルマकर्म(行い、業)』といわれるものの実体について。
天国や地獄と言われる場所があるのか、どうなのか?
そこには、天使とか神々とかいわれる存在がいるのかどうか?
どうやったら天国にいって、どうやったら地獄を避けられるのか?


この辺りの、なんとも興味深いけど、憶測すら及ばない範疇のテーマを扱うのが『ヴェーダ(聖典)』だ。

生きている私たちには、この知識の確かさを証明しようがない。

しかも、死んだ者は通常同じ体には戻ってこないため、本当かどうかはだれも立証することができない。
もし、死の世界から戻ってきた、という人がいるのなら、事実彼は死んでなどいないのだ。
戻れる、ということは生きていること。
だから、戻ってきた人は本格的な黄泉への旅路にはついていない。
夢のような微かな世界を一時的に体験しているだけなのだ。


それゆえ、
肉体を手放した後の行くべき世界がどうであるか?は我々には知る由もない。

それが真実かどうかを証明する術がないのだ

かといって、否定するだけの根拠も論理ももっていない。。


この種のことをテーマとして扱う『ヴェーダ(聖典)』は、だれか1人の人間によって書かれたのではなく、

“感性の鋭い複数の者たちによって、聞かれたものである” と、いわれる。
「シュルティश्रुति(聞かれたもの、聖典)」
それが聖典である。


だから、私たちは『ヴェーダ(聖典)』の言う事に関しては、
「はー、なるほど。そうですかー」
と言って、受け入れることしかできない。


証明も確認もできないことに、反論することも、大賛成することもできない。

だから、取るべき態度としては、ただ

「世界のカラクリ」として述べられる事実を受けいれるか、受け入れないか、この2つだけだ。

『ヴェーダ(聖典)』は、どちらのスタンスも押し付けたりしない。
信じろとも、信じるな、ともいわないのだ。
「信じなさい。これが1つの真実、唯一の神なのだからっ!」
という教義の押し付けは、聖典のヴィジョンにはまるでない。


『ヴェーダ(聖典)』は淡々と伝える。

「これはただの見えている世界の後ろに広がる、壮大な事実だ。
私はただ事実を示しているだけだ。

人が受け入れようが、受け入れまいが、関係ない。
信じられようが、信じられまいが、事実には変わりはないから。」

・・・なんというか、とても余裕なのだ。


その『ヴェーダ(聖典)』の最後の章に該当するのが、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』。
聖典のラストパートの主なテーマは、「天国や地獄」という辺りでウロウロしているところから、一歩超えていくための術、が記されている。

生物は皆、己が過去に行った結果を生きているという。
行いの結果は、“経験”を通してのみ消化することができる。
そして、過去に積んだ膨大な『カルマकर्म(行い)』が、生死の輪廻をつくっている。
この輪廻のサイクルに囚われる事を“束縛”=「サムサーラसम्सार(生と死、苦悩の繰り返し)」という。

ここまでが『ヴェーダ(聖典)』の前半に書かれているテーマだ。


その後、ここから脱出する方法を言い始めるのが、最後の章である『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』になる。


「サムサーラसम्सार(生と死、苦悩の繰り返し)」から離れることを「モークシャमोक्ष(悟り・自由)」というが、なぜそういえるのか?

終わることのない繰り返しに囚われていること、輪廻に限定されていることを人は“苦悩”という。
そこからどうやったらそこから自由になれるのか?


苦悩のメカニズムと束縛からの解放


というテーマを扱うのが『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』である。


「束縛・苦悩・輪廻」
どれも同義語で意味する所は聖典にとっては同じだが、
そこからブレイクスルーする術を『ヴェーダ(聖典)』の最終章は語っている。


結論として、その術は、「真実を知ること」であるという。
その真実が、聖典の中では「ブラフマンब्रह्मन्」という言葉で記されている。


『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』はいう。

人が苦から自由になるための唯一の方法は、「真実」を理解することである。
自分自身の真実について知ることが、人を束縛から解放する。
というのだ。

どういうことだろう?

人は苦悩の渦中で嘆く。
「人生は苦悩の連続だ!生きることは苦しみだ。そして俺の人生は絶望だー」


しかし、一体騒いでいるのはだれなのだろう?

「生きることは苦悩だ。そして死ぬことは苦しみだ。」
と決めつけ、眉間にしわをよせて言い放っているのはだれなのだ?

それは、事実なのだろうか?

そうやって、『ヴェーダ(聖典)』のラストパート『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』は、物事を“問題”ととらえ、出来事を“苦悩”にしている私たちの中心に言葉と論理で攻め入ってくる。

人生を苦に、問題にしているのは、もしかしたら、“生きることは苦”といいきっている勘違いしているだれか、かもしれない。

本当のことを確認できずに、勝手に自分の中で問題としてり上げてしまうことが原因になっているのかもしれない。

本当は自分の真実は聖典のいうように、苦から自由かもしれなかったら?
もし、本来の自分を知らなかったら?

聖典は、あらゆる苦悩の原因は、私たちが自分を知らないことにあるのだという。


私たちは皆、世界というドラマに、いろいろな役を演じるプレイヤーとして参加している。

日々私は様々な「役」を演じている。
しかし、本来の私は「役」以前に、プレーヤーである。
そしてさらにいうならゲームに参加するプレーヤーである以前に、最もベーシックな形で、ただそこにいる「存在」である。

聖典は、この「プレーヤーとしての個」、その本性である「存在」の事実を明かす。


私たちの日常の問題は、関わり合う人との関係性や、モノとの間で起きている。

だれもが、プレーヤーとして「役割」をもちながら、世界というゲームに参加している。

そしてゲームの中で、自分を悩ませる問題はいつも役と役の間の軋轢でおこっている。


しかし、役の前にベーシックな「プレイヤー」である自分は、役の問題からは本来切り離さ
れている。

さらに、プレイヤーの前に、「存在」である自分は、役とは関係なくそこに存在している。

そのレヴェルの自分自身には、存在を揺らがせるような“問題”や“苦悩”などはない。

苦脳や問題の原因である“関係性”に囚われることもなく、シンプルに「存在」している私のどこに、
問題を作りだすプレッシャーやひずみ、誤解、比較、などがある?


多くの人が、本来の自分であることよりも、”役をいかにうまく演じるか?ということに夢中になっている。

普通ゲームの中の世界において、最重要課題は

“いかに役をうまくこなしていけるか?”であって、
“演じている者は誰なのか?”ではない。

そうして、だれもが自分が、何かを“演じている者”であることを忘れている。

そして、世界ゲームの中で、皆それぞれの「役」の上での問題にはまる。
そうした考え方や物事のとらえ方に没頭して、本来の自分を見失う。


私は誰なのか?
本質的な私とは何者なのか?


世界というゲームから自由になるには、そこまで自分を掘り下げてみる必要がある。

ゲームを止めること、ゲームから脱け出すことは完全な「自由」を意味しない。

なぜなら逃げるようにゲームからさっても、また次の別のゲームに囚われる可能性は残るからだ。


自由になるには、1つの方法がある。

それは、

「自分は、役を担ってゲームに参加している。
役はゲームの一部となり、ゲームを動かしている。

しかし、私の本質は“役”ではなく、“役”のベースとして在る、演じているベースになる存在である。

ゲームの中にいながら、ゲームに捕えられることのない“存在”が私である。」

この事実を知ることが私たちをゲームから解放する。
ゲームの中にいながら、本来ゲームから自由な“存在”が自分の事実と知ることが、ゲームを楽しむ知恵として必要なのだ。


様々な「役」を演じる自分と、「役」の上の問題を理解すること。

役は、本質的な自分とは違う。

この事実の理解が、ゲームにおける役に起こる問題と、本来の自分との間に距離をつくる。
そのことで、ある種の余裕、スペースが自分の中に生まれる。
自分は「役」ではない。
もちろん他の人も本質的には「役」ではない。

「役」以前に、プレイヤーとしてある「個」、さらにその個人の「存在」そのものが、人の本当の姿である。

聖典はさらにいう。

ゲームの世界は、あくまでゲームの世界だ。そこには“実存、実体”というものはない。
すでにある「存在」のうえで、様々な出来事が展開しているにすぎない。

その世界の中で自分は、いろいろな「役」を一時的に担っている。
「役」には実体がない。

ということは、本質的な自分とは、「役」を演じている者であり、役のベースである。
それは、まるでゲーム世界のように動き、変わりゆくものの背後で、いつも変わることなくあり続ける実体である。
それが「個」の本性であり、事実だというのだ。


自分は、本当は何者なのか?

私たちは本質的な自分を知ることもなければ、確認もしていないかもしれない。
そうして、目に映る出来事や、状況に巻き込まれているだけの自分をみて「苦」だなんて、
結論づけているのかもしれない。

こうやって聖典は私たちの根幹にある“あたりまえ”と思っていることに、まず揺さぶりをかける。


「人生全て苦悩なり」

そんなことをいっている中心人物はだれか?
そして、その者は本当に苦であるのか、どうなのか?
これこそ見極めるべきだ、という。

もしかしたら、苦の渦中にいる人は、自分自身の事実を知らないで、ただ表面上に現れた状況を決めつけている

だけなのかもしれない。
そうやって、“自分=苦”だと信じ込んでいるのだとしたら?

なぜ、そんなことがいえるかというと、
『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の言葉は、

真実とは、人が個人的な経験に基づいてする推測からおよそかけ離れているものだ、

ということを語るからだ。
「真実」とは、リアルっぽくみえることの、正反対のところにあったりする。
このヴィジョンを聖典は何度も語る。

聖典のクライマックス、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』は、はっきりという。

「人の本質とは、苦ではない。
人の真実は、「ブラフマンब्रह्मन्」である。」


そして、この1つの供述を土台にして、「ブラフマンब्रह्मन्」についての説明をする。

「ブラフマンब्रह्मन्」とは、“実存、実体”のことでもあるが、さらに包括的な意味を含んでいる。

「絶対的な存在であり、限りのない知の源であり、終わることなく満ちるもの」

という3つのポイントから意味を指し示されている言葉が「ブラフマンब्रह्मन्」なのだ。

① 絶対的な存在であり、
② 限りのない知の源であり
③ 終わることなく満ちるもの

3つの言葉によって、明かされているのが「ブラフマンब्रह्मन्」という1つの言葉の意味。

それら3つをいいかえると、かの有名なフレーズ、

「サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)」

となる。


まず、はっきりさせなければならないのが、

「ブラフマンब्रह्मन्」は、物ではない、ということだ。

人が見たり、聞いたり、触ったりできるような何か、ではない。


獲得できる物でも、代償としてもらえるご褒美でも、お金や労力と引き換えに得ることができるような対象物でもない。

「ブラフマンब्रह्मन्」は、物ではない。
それは、「意味」なのだ。


どんな質にも限定されず、何によっても縛られないということの意味。

自由の意味。解放の意味。

“自由”という言葉の意味を、強いて一言サンスクリット語で表すとしたら、それが「ブラフマンब्रह्मन्」という音になる。


「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」という言葉を規定して、さらに聖典は結論をいう。


“「ブラフマンब्रह्मन्」とは限りなく在り続ける。
それは、“あなた”の事実である。“

これが、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』のヴィジョンを一文で表した、

「タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि」
You are the Whole,あなたの本質は、「あれ」=「ブラフマンब्रह्मन्」である。

というセンテンスの意味だ。


“あなた”は、「ブラフマンब्रह्मन्」である。
と、聖典にいわれている“私”の事実・

私とは、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」なのだ。



・・
・・・・あれ?

今だれか
「ホントォ?」
とか呟きました?

実は、そんな風に呟やく、あなたの本来の姿が「ブラフマンब्रह्मन्」なのだ、と聖典はいう。


疑問をもてること。
ホント?という言葉を放てるということ。
ある考えを持ちつづけ、思考し、認識することができること。
このすべては「ブラフマンब्रह्मन्」が源にあることによって、はじめて可能になると聖典は定義する。


「ここまでいっても、あんた、まさか自分が「ブラフマンब्रह्मन्」じゃないとでも思っているのか?
 本当に?」

まるでそんな風に聖典は、言っているように聞こえる。

そう改めて問われたら、私たちはオタオタするしかないかもしれない。
そして、苦し紛れにこんなことを口走るかもしれない。


「もしかしたら、聖典がいうように、自分が「ブラフマンब्रह्मन्」、ということも
なくはないかなー、と思うような気がしないでもないけど。。。
でも自分って、そんな大それたものではないような感じなんですよね~
“絶対的な存在、知の源、限りないもの”だなんて、
ちょっとスケールが大きすぎてピンとこないんですよ。。。」

そんな風に思ってしまうのが本心だ。

“自分が絶対なるもの、限りないもの、知の源だ”

なんて、いくら知の権威である聖典の言葉だからといっても、迂闊にスイスイ飲み込めない。
鵜呑みにするには、ちょっとスケールが大きすぎる。

“あんたが「ブラフマンब्रह्मन्」なんだ!”

・・・聖典はそういうけれど。

 「でも、そんなこと、急にいわれても・・・ 」

ヴィジョンが壮大すぎて、というか唐突すぎて、どうしていいかわからない。

そして、
やっぱり「ホントかなぁ?」と思ってしまう

すると、さらに、たたみ掛けるように聖典は続けるだろう。

「だったら逆に聞くが、
あなたが、“「ブラフマンब्रह्मन्」じゃない。といえるベースになる根拠はあるのか?

そう否定するあなたの、思考や機能はどこにある?

あなたの体や口を動かして何かをいわせ、
考えを働かせ、疑問を持たせ、結論をだしているその知覚のベースは何だと思っている?

だれがそこにいるのか?
そこには何かが絶対的にあるだろう?

少なくとも、思考のベースとなる「知」はあるはずだ。
それからあなたという「存在」も。

そのどちらも、あなたの体や頭に満ちているから、あなたは何かを思って結論づけられるのじゃないか?

とすると、あなたは誰だ? 何なのだ?」

「・・・うう・・」
・・うーん、こ、言葉につまる。

たじろぐ私たちに、さらに聖典はいう。

「“あなた”がいる、これは確かなことだろう?」
「へ?」

「自分がいる、それは誰に確かめなくても明らかだろ?
それとも、いるかどうか?お母さんに確かめないと解らんのか?」


“自分がいる、何かがある” 

 その「存在」は、誰にも否定できない。

それは絶対だ。

では、その“いる”自分とは、だれのことだと思うのか?

“あなた”とは、何を示しているのだと思う?」

「・・・」

こんふうに、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』は徹底的に、
“自分をなんとなく曖昧に認識している者”
にぐいぐい迫ってくるのだ。


そして、私たちが
「おやおや?自分とは、ひょっとしたら聖典がいうように、「ブラフマンब्रह्मन्」なのじゃなかろうか??」
と思ってしまう所まで、キレある論理で攻め込たてる。


反論の余地もなく、聖典のビジョンに押されまくったボンヤリな私は、気がつくとその言葉にうなずいていることになる。

聖典はこう見せようとしている。


『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の意味する真実、「ブラフマンब्रह्मन्」とは、
私たち自身の真実を指し示している。
私たちが知ろうと知るまいと、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」とは、私たち自身の事実である。


私たちは疑いようもなく、ここに、今、存在している。
それはだれがなんといようと絶対的に「存在」している。

誰かに確かめてもらう必要もない。

“自分がここにいる。今、いる。”

このことはどんな言葉でも否定できない。
その事実から、聖典は私たちを『サットसत्(存在、真実)』であるという。


私たちは、“今、ここに、こうして生きる。”
ということは、はっきりわかる。

“知る、わかる”という認識が、私たちの中で起こっている。

なぜなら、そこには「知・認識の源」となるベースがあるからである。

何もないところに、
「わかった!」
は、起こりえない。

だれにも否定できない絶対的な「存在」がある。

そして、その“ある”ということが、私によって解られている。

この“解る”の源が、「知・認識の源」=「チットचित्(知の源)」である。

私たちに認識を与える源である。

さらに、「サットसत्(存在・真実)」であり、
それを知っている「チットचित्(知の源)」である私は
この体や考えに限りなく満ちている。

私の中に存在がないところも、
「知・認識の源」がないところも、私たちにはない。

それを「アーナンダआनन्द(満ちていること、限りがないこと)」という。

実は、わたしたちはこの自分が、“限りのない存在、満ちていること” であることを知っている。

たとえば、
とてつもない“幸せ”を体験しているとき、
私たちは自分の本質である“限りのなさ”をみている。

だから“幸せ”を感じられる。


自分と、何かが一体となるとき、私たちは“喜び”を感じる。
誰かと心から理解し合った時、同じことを考えていると解った時というのは、自分と外の世界が一体になる瞬間だ。


物事を経験する主体(わたし)と、物事の経験である対象(ここでは、“他人の考え”“)が一体になる時がある。
その瞬間、自分と他を隔てているものや離しているものはない。

自分から離れたものがない時、私たちに無敵だ。そこには、恐れがない。

あるのは、境界が取り除かれた限りのない事実。

何かを喜ぶとき、楽しい時、“我を忘れ“夢中になっているとき、大笑いする瞬間、感動して心が震えるような経験をしている時、わたしたちは”自分と外の世界“という2元に分かれた見方の間から、ただ1つの無限の広がり見ている。

何も別れてなどいない、完ぺきな1元、たった1つの確かなことを見ているのだ。

聖典は、この“無限の広がりに満ちている”こととが、自分自身の本来の姿”

であるというのだ。


その本質的な自分はとても心地がいい。

だから、私たちはいつも無敵の、無限の、心地よさを求めている。

なぜなら、それが、私たちの事実だからだ。
真実の自分でいる、それを実感できるような瞬間だからこそ、心地よさを本能的に求める。

私たちの真実であるから、いつまでもそこに在り続けたいと思うのだ。

幸せや喜びの経験は、自分自身の本来の姿である
「アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)』でいられる瞬間だ。

それが「幸せ」ということの意味である。


私たちは「幸せ」という物を求めているのではない。
そんなものはこの世には存在しない。

私の存在こそが、「幸せ」の意味なのだ。

だから、この自分自身の真実に触れる瞬間を私たちは何度も何度も得ようとして、探している。

これこそが、まさに、
“探しているものは、実はすべてここにある”という青い鳥的結末。

我々が求める「アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)』」とは、

「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」のことである。


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永遠のハピネスの正体、

それが私たちの事実、

それこそが「ブラフマンब्रह्मन्」の意味。

ということを聖典はいうのですね。そしてYogaはそれを実感するための道であり、テクニックでもある。


しかし、世には

「いやいや、あまったれんな。人生は苦、ク、苦、くっ!なのだぜよ。」

と主張する人達もいる。

そんな人たちは何千年も前からインドにいた。

さあ彼らの主張にどう聖典は切ってみせるのか?

私たちが苦ではなく、「幸せ」の意味だと揺るがずにいられるその根拠とは?

気になる続きはまた来週~

おたのしみに。

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ところで、帰国したての8月22日は『バガヴァッドギーター』で主人公アルジュナに
Yogaの教えと「モークシャमोक्ष(悟り・自由)」とは何か?瞑想とは何か?を教える師匠クリシュナのお誕生日でした。
いつもはクラスが行われるレクチャーホールが、突然祭壇となった日。


ちなみに、クリシュナの飾りつけをしている半裸の男は、司祭さんです。
南インドの男性の正装は、実は「半裸」。

お寺に入る時や、正式な行事のときは、みんな一斉にシャツを脱ぎます。。。


ここぞ!という時に服を脱ぐ、という習慣。

不思議なもんです。


| 向井田みお |

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