「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくても、いいじゃない?①
ああ、そろそろ「あれ」について書かねばならないだろう。
いろいろと書き殴ってきたこのブログだが、実は「あれ」についての核心は避けていたのだった。
Yogaを学び、Yogaに生きようとする真摯な我々が避けて通ることができないコンセプト、
それが、
「あれ」である。
『ヴェーダ(聖典)』の中で「あれ」は、「ブラフマンब्रह्मन्」といわれている。
「ブラフマンब्रह्मन्」は『ヴェーダ(聖典)』にでてくる言葉である。
Yoga的な物の考え方やYogaに生きる目的を決定している基盤となる『ヴェーダ(聖典)』を理解するうえでのキーワードとなる。
Yogaの本を読んだり、Yoga的な哲学に触れる以上、「ブラフマンब्रह्मन्」という言葉を避けることはできない。
「ブラフマンब्रह्मन्」
その響きは重く、大変に厳かな空気が漂い、なにやら謎めいている。
「え? 何マン?」
などとは、ちょっと軽く聞きかえせないような崇高さ。
先日乗った飛行機で、「夏休みインド体験実践中」とおでこに書いてあるような大学生たちも、そういえばいっていた。
・・・
「「ブラフマン」っていうのが、「アートマン」と一体化したら、人間って悟るんだって、」
「へー、すげー」
「って、ガイドに書いてあったんだよ」
・・・
旅人が愛用するガイドブックにすら載っている。
それくらい「ブラフマンब्रह्मन्」はインドや、インド発のYogaを理解する上での最大のキ―ワードだといってもいいだろう。
Yogaについて熱心に学ぼうとする我々が手にする哲学書やYoga的教えの本に、この言葉が載っていないはずがない。
「ブラフマンब्रह्मन्」
“言葉”は確かに有名だ。
けれど、
本当のところ、肝心なその“意味”はよく理解されていない。
「○○○マン」
とついてると、ついうっかり
「Xマン」とか「ヤッターマン」とか
「アンパンマン」とかの類を、思い浮かべがちだが、
それらとは全く別種の特別な響きがある言葉。
それが、
「ブラフマンब्रह्मन्」
聖典の中では、
「ブラフマンब्रह्मन्」は
「あれ तत्」と表現されている。
わかったようでわかっていない。
それが「ブラフマンब्रह्मन्」だ。
良く分からないから、いろいろなことが勝手に憶測されている。
それは内なる青い光である、とか
稲妻の閃光のごとしヒラメキだ、とか
超越意識だ、とか
ハイヤーセルフだとか。
しかし
本当は何なんでしょうね?これ。
「ブラフマンब्रह्मन्」は私たちが見るべき、得るべき、何かなのだろうか?
聖典や経典はこんな風にいっている。
「大変得難い、秘密中の秘密、それがブランマンである。」(『バガヴァッドギーター』9章)
「ただ1つの「ブラフマンब्रह्मन्」の知識を手に入れることで、人はすべてを知ったと同じことになる。」
(『ムンダカ・ウパニシャッドमुण्ड्कोपनिषद्』1章)
こういった表現だけみると「ブラフマンब्रह्मन्」は、まるで獲得すべき何か、物や状況のようにみえる。
しかし、本当のところどうなのだろう?
だいたい、実体すらあるかどうかも分からない物を得ることなんてできるのか?
もしそうだとすれば一体どうやって?
すごく疑問だ。
たしかにYogaの経典や、それを支える『ヴェーダ(聖典)』などは、こういうのだ。
「人は、「ブラフマンब्रह्मन्」を知ることで、悟りを得る。
そして、「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」が「ブラフマンब्रह्मन्」と一体化することが
“解脱・真の自由”である。
解脱とは、「モークシャमोक्ष(悟り・自由)」、「ニルヴァーナनिर्वाण(入滅)」ともいわれる。
それを得た者は、様々な制限や限界、苦悩から自由になる。」
と。
どうも、この「ブラフマンब्रह्मन्」とか「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」というのが、「悟り」へのキー・ファクターらしい。
Yogaをスピリチュアルな探求の手段とし、「悟り」へ続く道とするのか?
それとも、超常現象や超能力を得たりするための、怪しい鍛練法とするのか?
はたまた、キレイになる体操で終わりにするか?
その辺のYogaの方向性を定める境界で、行先を選ぶことにおいて重要な鍵を握っているのが「ブラフマンब्रह्मन्」のコンセプトのようである。
そして、実は。
このキーワードを理解することが、私たちのYogaに対する態度を大きく変える。
「ブラフマンब्रह्मन्」という言葉が、何を意味しているのか?
もし、自分がそれと一体化することが悟りだというのなら、
「ブラフマンब्रह्मन्」のイコールの向こう側にある、
自分=「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」とは、何のことなのか?
で、実際この2つが一体化する、とは何なのか?
つまりYoga的「悟り」とは一体何を示しているのか?
我々は何を欲し、目指そうとしているのか?
今回は、この辺を探っていきたいと思っています。
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気になる続きは来週に、
ぐぐっと「あれ」に迫ります!
しかし、あれですね~
あの話題はヘヴィーなので、今回は週1回づつ更新してみますよ。
全部書いては見たのです。そうしたらA4で55ページ。
9話完結編になってしまいました。
途中解らなくても、最後にたとえ話を用意しました。
「結局、何がいいたいの?」
に応えられるようにと。。
まー賢い皆さんに対しては、ただの老婆心にすぎませんが。
ひとまず、ひとまず。
*ただ今マントラ録音中。
現在、時間をみつけては南インドのアシュラム内でマントラを録音しています。
これを少しずつどこかで活用していただけるようになれば、と思っております。
とりあえずは、夏の一時帰国中練習したマントラ。
鳥の声や牛声のはいった、ほのぼのしたかんじに、仕上がりつつあります。
| 向井田みお | 固定リンク
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- ヨガ哲学の旅(2010.03.19)