« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月14日 (木)

From悩み⇒To悟り Yoga的可能性①


<悩み多き人は、『モクシャ(悟り)』の可能性に溢れている!>


悩みが多い。


とびっきり繊細で、すぐにいろいろな物事に傷ついてしまう。
いつも人の目の気にしてビクビク。
何をするにも、思いっきりできていない気がしている。

自分の思い通りに、大胆に何かを決めて飛び出すよりも、
まず
周りを気にして、
他人を気にして
いつまでも踏み出せない。

大きな決断から、日常の些細なレベルまで、
いつも他人の自分に対する視線が、
自分の行動や考えの基準になっていてしまったりする。


自分の本当の思いより、他人の思いが優先になってしまっている。

どう動くか?
立ち居振る舞いから、

何を選ぶか?
食べる、着る物、持ち物の選択。

何処に行くか?
何をするか?
どうするのか?
どんな事をしていても、
「自分がどんな風に他人の目に映っているのか?」
が気になる。


そんな風にウジウジしている
思い切りの悪い自分を悩んでしまう。

“過剰”ともいえる、己の“自意識の高さ”に嫌気すら覚える。

悩める人は、
“自分について” の意識が高いだけでなく、
“他人について”彼らがどのように自分を見ているのか?
に関して高い意識をもっている。

だから息苦しく感じ、
苦悩にハマりやすい。


他人は
「ただの自意識過剰ですぜ。」
と、そういうだろう。


そのとおりだ。


だから、
雑多な世界ですごすには、これはデメリットかもしれない。
第一、いつもビクビクしている自分は、気持ちが悪い。


けれど、
Yogaを極める、
という視点から見れば、


“自意識過剰な人こそYoga的悟り、『モクシャ(悟り・自由)』に近い”

のだという。


Yogaでは、

“悩める”繊細さや、高い自意識はスペシャルな能力だ。“

とされる。

自意識過剰はよくいえば、
感性が豊かで、
感度が高い、ということ。


そして、悩める人は、悩める能力があるからこそ、
「そこから自由になるにはどうしたらよいのか?」
と必死になって考える。

ごにょごにょ思っている考えや、
そこから派生するストレスや苦悩、
内なる葛藤とプレッシャー。

“自由になりたいよぉ~”

いつも、その人は心で叫んでいる。

本気で“自由を”望んでいる。
何から、“自由”になりたいのか?
それもはっきりとわかっている。

ウジウジした自分から、
悩む自分から、
内なるやり場のない圧力の高まりから、
葛藤と悩みから、
自由になりたい。


この自由への渇望は、
「何かしなければ!」
という“モチベーション”になる。

そのモチベーションが、正しいプロセスと一致したら、
“可能性”となる。

可能性は意志と努力しだいで、
“現実”となる。

そうして、悩める人は、Yoga的悟り『モクシャ(悟り・自由)』へ続く道を歩きし、究極の自由へ至る。


だから、
Yoga的にいえば、
悩みは最高のチャンスだ。


Yogaの才能。

そんなものがもしあるとしたら、
それは、この
“悩み多き、豊かで繊細な感性である”
と、経典が示唆する。


自分が考えている自分。
他人が自分に関して考えているだろう、ということを考えている自分。

この2つの側面から自分を意識できる能力は、実は人間だけに許されている。

人間だけに開かれた、自由への扉には、“悩み”という札がかかっている。
それに向き合い、扉に手をかけ、開け放った時、
初めて自由への道を踏み出せる。


高い自己意識。
自分を意識すること。
他人の自分に対する思いを意識すること。
それは、自然界においては、ある種の“力”だ。

悩める感性。
繊細さ。
苦しみ、悲しめる豊かな感情。

そして、

その悩みからの脱却を図ることを望み、願える力。

何が“悩み”の元なのか?
原因を見極められる知性。

そのためには、どうすべきか?
策を講じ、探求することができる自由と意志。


こういった高い能力は、人間だけに与えられている特権だ。

スピリチュアルな探求や、宗教的な修行においては、
忌み嫌われ、失くすべきだ!
とさえまでいわれる、

“悩むことや、
感情的になること。
何かを願うという欲望“

これらすべては、Yogaの経典の視点からみれば、

人間として生を受けた者のみ許された非常にレアで、スペシャルな能力
である。

ここから人は『モクシャ(悟り・自由)』という限りない自由を目指せるのだから。

悩みや悲しみや、苦しみがあるから、
それを感知できるから、
自由を望めるのだ。

そして、その自由は今、ここで、この世界で、この体で生きている内に可能だ。

むしろ、
自由になるには
今、ここ、
でしかない。

Yogaの経典『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』の1つ、
『カタ・ウパニシャッドकठौअनिषत्(カタ奥義書)』はこう言う。

磨かれた鏡の上に、自分の顔をはっきり見る事ができるように、
賢者は、自分自身の本質『アートマーआत्म(人、生き物の真実)』をはっきりと見る。
鏡のように磨かれた、葛藤のない、落ち着いた澄んだ心で、自分自身の真実を知る。
真実の自分を知った者は、完全なる自由に至る。

この世界以外の、別の世界においては、水に映った顔をみるように、夢の中の光景をみるように、ぼんやりと揺らいだヴィジョンしか得る事が出来ない。
しかし、
この世界でのみ、人は明快なヴィジョンをもつことができる。

人間として自由意志を備えた体をもって、この世界で生きている時だけ、
「悟りへ至る、自由の知識」は、真昼の光のようにはっきりと知ることができるのだ。

だから、自由を目指すとしたら、今、ここで、この体をもって為されるべきである。
そのための努力は、今すぐ、すべきだ。(2.3.5)


*********

Cimg1269

みなさま、先月の皆既月食はご覧になりまして?


私は、インドにて皆既月食体験いたしましたことよ、であります。

インドは世界中でも月食・日食が多い大陸。
2011年だけで5回あることになっている。。

そして、“月食”は不吉といわれており、絶対にみんな外にでません。
月食の時間帯前後は、お寺も締まります。
きっちり扉を閉めて、月食の影響を受けないようにするのです。
ぽ~っとお外で月食なんて浴びたら、良からぬ影響を受けてしまう、とでもいうように、
しーんと静まりかえります。


月食の始まりと、終わりの時間にはシャワーを浴びます。
月食中は「ジャパ」というマントラを唱える瞑想をして過ごします。

でも、そうやって静かに過ごした日は、その日を境に何かが確実に変わるのです、自分の中に変化が起きているのを感じます。不思議なもんですな。

さて、次の月食は、12月10日。6:14-9:47分の間だそうです。

私目も、ここぞとばかりに「ジャパ瞑想」いたします!

写真は、『バガヴァッドギーター』を出版している出版社のカレンダー手帳。
「パンチャアンガ」といいます。

これに、毎日の月の動き、星の動き、日食・月食、儀式にふさわしい日、断食の日
などの情報が書かれているインド人の必需品です。


| 向井田みお |

From悩み⇒To悟り Yoga的可能性②


<悟りに近い、悩み多き人>

自己意識が高い人は、悩みが多い分、
Yoga的悟り『モクシャ(悟り・自由)』に至る可能性が高い。

悩む人は、悩みのない人を羨ましいと思う。
いつも能天気で、あっけらかんとして、
内側でぐちぐち言わない。

「悩みなくて、いいよなぁ~」
と思っている。


猫や犬ですら、“悩みが無い”、という点において羨ましいと思う。


しかし、
それぞれにバックグラウンドや、物事に対する思い方、考え方はあるが、
“悩めること”はすごい能力をデフォルトで持っているということなのだ。

ただでさえ、悩みがちな人は、“悩んでいる自分”に、悩んでいたりもする。
ぐちぐちする自分に嫌悪感をもったり、
そんな自分に居心地悪くなっていたりする。

そうして、
“悩んでいること”自体に、悩んでしまう。

だから、まずはここで視点を変えよう。

“自分は悩む能力が、高い人間なんだから仕方ないよなっ!”

そういって、自信を持とう。


“自分は、Yogaの道を歩いて、悟りを目指す資格が自分は十分にある奴なんだ”

と。
そう堂々と言っていい。その能力の高さは、Yogaの経典のお墨付きだ。


そして、初めのステップとして、“悩む自分に、悩むこと” からの自由を手にいれよう。


“無知ゆえの、無垢ゆえの「幸せ」”
とはよく言われる。

何も知らないから、味わうことのできる幸せ。

まるで無垢な赤ちゃんのように、何も知らない動物のように。

でもそれでは、人間的な成熟は望めない。


“何が問題を知り、悩みの本質は何か?
そこまで突き詰めて、徹底的に考えて、
意志と努力と能力によって問題を越える。
人間的に成長することで獲得できる、揺らぐことのない「幸せ」”

Yogaはそれを目指している。

悩める人には、
自分の心に巣食う問題と向き合う覚悟と、
探求していく意志と自由、
適切な教えに出会うチャンスさえあれば、

Yogaの究極のゴール『モクシャ(悟り・自由)』に至る道が開かれている。

動物は自然界の法、世界を維持している理の外に飛び出す能力がない。
経典の言葉でこの「法」を、『ダルマधर्म(秩序、法)』というが、
動物は、『ダルマधर्म(秩序、法)』に則ったプログラムを生きている。

例えば、
犬の人生(犬生?)は、自分で積極的に働きかけをする生き方よりも、敷かれたプログラムを消化していく生き方だ。

動物は、どんなに気の向くまま、思いのまま自由にふるまっているように見えても、
自分の意志で何かを決定することがない。

望み、決断し、行いをする、
ことができない。


だから、私たちが見る夢のように、のほほ~んと生きる事を、体験している。
そうして今まで積んだ『カルマकर्म(行い)』の結果を消化しているのだという。

自分で何も決断しないのだから、悩むことがない。

「あれをすればよかった、
こんなこと、しなければよかった。」

自分を責めたり、他人を責める事もない。

そして、自分のことに関しては、
“自分がいる”
ということはわかるが、

“その「いる、在る」自分とは何か?”
を考える高い知性がない。


他人(他犬?)に関しては、
犬は、種族の保存のため、猫や鳥や他の動物との区別はできる。

が、
他の犬の目に映っている自分を意識できる“自意識”は持っていない。

だから、
鏡を見てめかしこんだり、
流行の服を着たり、
愛される吠え方を研究したり、
品のいい歩き方を練習したりはしない。


他の犬と比較して、
優越感に浸ったり、
落ち込んだり、
尊大になったりもしない。

でも、人間はこういったことを、皆がしている。

高い自己意識を備えているゆえに、
自由意志があるゆえに。

そして悩む。


また、人間は動物と違って、
100%自然の法に従ってプログラムを消化して生きているのではない。

“自由意志”をもって、自分で考え、決断し、新しい『カルマकर्म(行い)』とその結果をつくる。
そうやって世界のダイナミズムに参加しているのだ。

人間は世界に対して、消費者であるよりも、貢献者なのだ。
しかも、そこから自由になることも許されている。

このポイントから人間をみれば、人は

“悟り=自由を目指すために生きている”

ともいえる。

Yogaの道の先にある、目指すべきゴールは、
何にも囚われない自由『モクシャ(悟り・自由)』に至る事。

この自由を生きるために、
人間は特別デザインされている。

この肉体も、
考えも、
感情も、
世界と自分に対する思い方も、
様々な考えを持つことができるのも、
問題に向き合い、解決しようと努力できることも
すべての生き物が憧れ、いつか目指そうとする“自由”を手にいれるための特注フォームなのだ、

と、経典はいう。


人間だけが、
もしくは、
人間と同じような繊細な自意識と自由意志を備えている生物ならば、
どの世界にいようと、どの星に生きようと
同じ様に
“自由になる資格“がある。


そして“悩み多き人”は、
とりわけその可能性が高いのである。

***************************************


アシュラムでは毎週土曜日、ココナツおじさんがやってくる。

後ろの小さな『リキシャ』といわれる屋根付きバイクで、ココナツを売ってくれる。

これがおいしいんですなぁ
Cimg1273

| 向井田みお |

From悩み⇒To悟り Yoga的可能性③ <悟りとは?   『ヴェーダ(聖典)』のヴィジョン>


<悟りとは?『ヴェーダ(聖典)』のヴィジョン>


Yogaでは、

悟りのことを『モクシャ(悟り・自由)』という。


それは、苦悩や悲しみから自由になるということを意味している。


そして、この世界で生きる人間はだれしも、

『モクシャ(悟り・自由)』を目指すために特別デザインされた体や考えを備えている。

大きな可能性を秘めた“自由意志”を持って、
今も、世界の秩序と法に参加しながら生きている。


人として生きる事は、ただ与えられたものを消費するだけの、
“消費者”ではなく、


積極的に世界の動きに意志を持って参加する、
“貢献者”  である。

積極的に世界にはいりこみ、他人や出来事と関わり、
沢山悩み、様々な経験を通して学ぶことで、
私たちはこの世界をつくっている大きな流れの一部に参加し、流れを変える事すらできる。


そんな風に世界と積極的に関わっている自分は、
けして孤独ではない。


世界から孤立し、離れている、
と感じて、孤独感を覚える事もあるけれど、
実際は、私たちは世界から、1ミリも、1秒も離れていることはない。


「自分は世界といつも共にある。

むしろ、
世界そのものである。」


これが、Yogaの聖典『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』、
またの名を『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』がいう教えである。
聖典の言葉では、

『タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि
(You are the Whole,あなたの本質とは全体である)』


という。
これが教えのエッセンスをすべて含む、最終的なセンテンスである。


私たちは、世界のダイナミックな動きに参加しながら、新しい流れも作り出せる。
常に、この全体の世界の動きの中に在る。


その事実を知ることが、
私たちを悩ませる原因
“恐れ”や“不安”
という妄想から人を自由にするという。

「世界から離れている」
という思いが“不安”を作る。

不安を埋めるために、私たちは何かを求め、自分に何かをつけたそうとしている。
それは、地位かもしれないし、名声かもしれない。


しかし、そこをどんなに追求しても“限り”があり、不安は解消されない、と経典はいう。
外の物をいくら求めても、私たちの中心に居座る不安は癒されることはない。
なぜなら、中心が不安でいっぱいなのだから。


「世界とは、自分とは違う別の存在である。」
その思いが、私たちに“恐れ”を抱かせる。

“恐れる”私たちは、いつも自分を世界から守ろうとしている。
権力や財産や、持ち物や資格や仕事が、私たちを守れる、と思って、それらの追求に明け暮れる。

この探求も限界がある。


それらを手に入れることは、何も悪いことではないのだが、
自分の根源にある、“不安や恐れ”は、外の物をいくら手に入れてもなくならないのだ。
物質は、一時的に“埋めあわせをする物”でしかない。


なぜなら、心の奥底にある“不安と恐れ”は、


「自分は、世界から離れ、孤独である。
とても小さく、とるに足らない自分が、たった一人で世界に対峙している。」


という自分に対する結論が生みだしているからだ。

故に、この根にある“結論”が変わらない限り、
自分に対する“認識”が大きなヴィジョンに変わらない限り、
小さな自分の不安と恐れが無くなることはない。

しかも、私たちは、自分が自分に結論づけしている“小さい自分”という認識が間違いであるかどうかもわかっていない。

自分の真実がよくわかっていない。

この“自分がよくわからない”という無知が、より一層の混乱と、不安と恐れを創りだす。

だから、聖典はいう。


「恐れと不安をもっている、というその結論は、はっきり言って勘違いだ。
“自分自身”の本質とは、不安でも恐れでもない。


世界から離れている、ことなんてできない。
孤独などない。
それらは、あなたを惑わす妄想にすぎない。


真実とは、満ちている、この限りない、1つの全体世界があるということだ。
そして、世界の本質と、あなた自身の本質はただ1つの真実である。
今もあなたが世界として、そこに在り続けているのだ。」


聖典はいう。

“真の自分自身”を、自分の中心が理解しない限り、、
この“不安と恐れ”の原因なくならないと。


なぜなら、

不安の原因であった、「世界から離れている」という思いも
恐れの原因であった、「世界は、自分とは違う。」という考えも、
どちらも“自分の真実を知らない“ことに上乗せした「妄想」
でしかないからだ。


だから、経典は何度でも不安に感じている人にいう。
孤独の中にいる人間にいう。


「本当の自分」とは、この全体世界の本質と何も変わらない。
何も離れていない。
すべてが、1つの普遍で、限りがなく広がっている。


あなたの本質とは、時間にも空間にも制限されることがない世界のベースである。
現れた全体世界である。
世界とは、あなた自身のことである。

ここに現れている世界は、その全体が1つの法と秩序であり、
すべてを含んで、ただ1つの意識的な実体として躍動している。“

その全体世界のことを、聖典は『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』と呼ぶ。


そして、世界に“存在”を与え、遍く広がる真実を
『ブラフマン(究極の知、存在、遍く広がるもの)』
という言葉で語る。

『ブラフマン(究極の知、存在、遍く広がるもの)』は、

すべてを存在させている、“存在の根源”である。
そしてそれは、“意識の根源”でもある。

生物に、「知る、わかる」という認識を与える“意識の源”として在り、
無生物には、「形と名前と機能」という姿で現れる際の、“知の根源”として在る。


『ブラフマン(究極の知、存在、遍く広がるもの)』が、
世界の隅々へ隈なく広がり、満ちている。


そしてこの『ブラフマン(究極の知、存在、遍く広がるもの)』こそが、
私自身の真実、『アートマーआत्म(人、生き物の真実)』である。


これが『ヴェーダ(聖典)』の最終的なヴィジョンだ。

この1つのヴィジョンを教え、語るのが、
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』である。

そのメッセージは、

『タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि
(You are the Whole,あなたの本質とは全体である)』

という一文に集約される。

世界である『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』の真実は『ブラフマン(究極の知、存在、遍く広がるもの)』である。
そして、私の事実もまた『ブラフマン(究極の知、存在、遍く広がるもの)』である。

*********************************


それにしても、とれたてのココナツは「おいちい、おいちい」

味は、“とぼけたポカリスエット” みたいなのですが、

熱い国で飲む飲み物としては、素晴らしい。


何やらたくさんの酵素がはいっているらしいですよ。

Cimg1278


| 向井田みお |

From悩み⇒To 悟り Yoga的可能性④

私とは、この体や感覚や考えを持って、全体世界として現れた『ブラフマンब्रह्मन्』である。
その私が意志を伴って世界に参加している。

全体世界の躍動に貢献している。

私の本質は『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』である。
『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』とは、私の、事実である。

“自分とは世界である”

そう自分を理解することが、人を“不安と恐れ”と、そこから派生する様々な問題から人を自由にするという。

तरति शोकमात्मवित्
“自分の事実を知った者は、悲しみの海を超える”
(『チャーンドギャウパニシャットचान्दोग्योपनिषत्』)


・・・・・

「自分が世界だと?何を言っているんだ?」
「誇大妄想も甚だしい!」


そう思うかもしれない。

しかし、
聖典のヴィジョンは、「妄想」ではない。


何十年しか生きていない1人の人間が、限りある知性でだした“結論”と、
何千年もの間、多くの人々に信頼され、理解されてきた“結論”
のどちらの信頼性が高いのか?

どちらが信じる価値があるのか?


答えは明白だ。


しかも
この『ヴェーダ(聖典)』の最終的なヴィジョンは確実に人々にメリットを与え続けてきた。人を限りない自由へと解放してきた。

結果は、Yogaの歴史が物語っている。
インドに今も生きる賢者たちが、証明している。

だから、このヴィジョンは、
知性において、理解されるべき事実だと、
そう言い切るに値する価値がある。

では、
もし経典がいうように、私とは全体であり、1つの事実であるというのなら、
なぜ私たちは問題や苦悩の原因となる「妄想」を抱えてしまうのだろう?


経典のいう事実は、まさに今も、この瞬間も私自身であるはずなのに、
なぜ私は、
“世界から離れている、孤独である”と考えたり、
“私は小さく、世界においてさしたる意味もなく存在する奴”なんて、
自分の事を思ってしまうのだろう?


あるがままの自分でいるだけで、すでに自由であるはずなのに、
なぜそう思えないのだろう?

自分とは世界である。

世界そのものである自分は、すでに今もあるがまま、この肉体をもったまま、
様々な状況に囲まれながらも、本質は自由である。
自分を限定するものなど、どこにもない。

それが経典のヴィジョンだが、
なぜ同じヴィジョンで、私は自分と世界を見る事ができないのだろう?


真の自分でいることを、阻んでいるのは何か?


そして、本当の自分の上に、思い違い、間違いをのせて、勘違いに苦しみ悩むのは
なぜなのだろう?


経典は
それは、“無知”である、という。

単に自分の事を知らないということ。

さらに、知らないというだけでなく、
無知の上に自分なりの考え、私だけの世界観、つまり“主観”をのせて
自分と世界を見ているからだという。

無知に端を発した、自分なりの思い方、考え方、“勘違い、間違い”が私たちを悩ませている。

全くの無知ならば罪がない。
苦しみもない。

けれど、私たちは高い自意識と、世界を感知できる感受性と知性も併せ持っている。


だから、
「自分がいる。」
というのははっきりとわかる。


「世界がある。」
ということも、クリアだ。


しかし、その実態とは何か?


を問うたときに、自分の中には答えがない。


「自分がいる、そのことを私は解っている、」
というところまではいい。


けれど、その自分とは
“何者であるか?”

これに対する答えがないのだ。


だから、推測する。


私とは、多分、体だ。
考えだ。
いや、生理機能、空腹や渇きのことだろう。
いやいや、生々しい感情に違いない。


そんな風に自分の周りにあるもの、自分がもっているだけの付属物を“自分自身”
と思い込んでしまう。

限りある付属物を自分、と思いこんでいたら、

私とは、
“制限があり、小さく、いつか壊れ、儚く終わる宿命を背負ったもの。
世界にありふれた、たいして意味のないもの“

ということが結論になってしまう。

しかし、その結論が間違いなのだ。


まるで、薄ぼんやりとした光の下でみたロープを蛇と間違えて、不安と恐怖に慄くように、
私たちは、
ぼんやりとみえている自分自身を、見間違えている。


そして、混乱し、苦悩や悲しみの海に溺れる。


故に、
この人間特有の悩める能力と、高い自意識と知性を、“自由”のために使わなかったら、
こんな能力は、ただの呪いでしかない。


犬や猫や鳥に生まれて、お気楽に暮らしていた方が、どれだけ幸福だっただろう。


しかし、この能力をひとたび“自由を目指す”ために使うようシフトチェンジすれば、
それはこの上ない祝福になる。


**************************************

Cimg1285

お寺で今日もお焚き上げがありましたよ。

今日の『儀式の主・ヤグニャマーナ』は
同級生のアーナンダ君。

イスラエルからやってきた彼は、
3ヶ月間『मौनモウナ(沈黙の行)』をしていて、
それが、めでたく終了したのです。

それだけでも、彼の『プンニャपुण्य्(徳)』は相当にUPしたはずなのが、
最後のとどめにお焚き上げの儀式まで!

なんと、なんと、、

一体どんな風になっていくんでしょうね。。

隣の席のわたくしは、彼の変化を大変楽しみにしておるのです。

というわけで、アーナンダ君よ、おめでとう!

そして、彼の『プンニャपुण्य्(徳)』にあやかろう。

あやかり系M


| 向井田みお |

From悩み⇒To悟り Yoga的可能性⑤

すべての問題は、なんと私の勘違いでした。。。


これがリアルな私の苦悩と絶望の正体。

なんだか悪い冗談みたいな話だ・・


しかし、聖典にいわせると、これが現実なのだ。


ということは、私たちは、


元々実体がない、存在がない問題を解決しようとしているのか?
ひょっとして、ただの「妄想」にすぎないものから自由になろうとして必死になっている?

そう、そのとおり。

私の師はよくいう。

「悟りを目指す、ということは、世界最大のジョークを解って、笑い飛ばそうとしていることなのだよ」

まるで、架空のロープにしばられた牛のように。


・・・・・・


牛飼いは、牛をたまに“見えないロープ”で縛ることがある。
本当はロープなんてないのだが、縛っているフリをするのだ。

そうすると牛は自分が縛られていると思って、架空のロープの範囲内でしか動けなくなる。

逃げよう、
自由になろう、
なんて思わない。

「なんで自由に隣の牧草にいかないの?」
誰かが聞いても、牛はいうだろう。

「だって縛られてるもん。」


・・・


ロープの実態を見もしないで。
事実を確かめもしないで、
牛は見えないロープに縛られる。
本当は、ロープなんて在りもしないのに。


牛は何が自分を縛っているのか見極めもせずに、無知のまま、
“見えないロープ”に縛られ続け、自由を制限される。

同じ様に、私たちは、自分の真実を見極めずに、
架空の「妄想」に縛られて、自由を奪われている。


悩み、苦悩、悲しみという、
実体のないロープに縛られている。


そして、
牛飼いが、このロープを外すためには、
「見えないロープ”を外す(フリ)」を、牛に見せなくてはならない。
そうしないと、牛は解らない。
自分が自由であるどうかを。


牛飼いがロープを外す動作をみてはじめて、
牛は「自由になった!」
と喜んで囲いの外へ飛び出していく。

最初から縛られてなんていなかったのに。
本当は、あのときも自由だったのに。


私たちがしているYogaは、これに少し似ている。

もともと実体のない問題に縛られ、自由を奪われているようにみえる。
そして、それを頑張って、解こうとしている。

息を止めたり、考えを止めたり、体の動きを型にはめたり、
いろいろなテクニックを駆使して。

でも、本当は自分の「妄想」に縛られて身動きがとれなくなっているだけだ。


Yogaの修行や探求、瞑想の真の目的は、実体のない問題の“本質”をみることにある。


自分は何にも縛られてない、
私たちは初めから自由だった、

そして、いつだって自由だ。
ということをわかるために。

その理解をたすけるYogaの師の役目とは、牛飼いのように、「“見えない”ロープを外す」ふりをしながら、問題の根源を見せる事にある。

「ちょっと、ちょっと・
あんたが今、不自由に感じている、悩んでいるという、“ロープ”の実態をみてみなさいよ。
これがリアルなロープかい?

あんたを死ぬほど悩ませてる悩みとは、本当は何の事なのだ?」


・・・・

何もしなくても、今私たちはこのまま、ありのままで
すでに自由なのだ。

だけど、それが判らない。

答えは自分の中にはない。

夜の深い闇の中には、自ら光る物が何もない。だから暗過ぎて何も見ることができない。

闇を照らすのは、闇の外から持ち込んだ“明り”であり、光”だけである。


私たちの深い“無知”の闇は、
闇を解消するための“明り”を外からもたらされなければならない。
闇自体の中には、光はないのだから。


この無知を照らす光は、聖典の言葉であり、ヴィジョンである。
そして光を持って、闇を照らし、明りをもたらすことができるのが、
師の伝える教えとメソッドだということになる。

**************************
Cimg1326_2

マンゴーの季節と相成りました。

いや~しかし、でっかいですね。
すばらしい!
この季節を1年耐えに耐えてまっていましたよ。

さてさて、まずはお供えしてから頂きましょう。

ちなみに1Kg=50Rs(100円) です。
マンゴーに関しては、インドっていい国だよなぁ


| 向井田みお |

From悩み ⇒To悟り Yoga的可能性⑥<Yoga的解決>

さて、そうはいっても壮大な聖典のヴィジョンを理解するために、
今私たちができる事は何だろう?

<Yoga的解決>


Yogaは、単なる“ポジティブシンキングpositive thinking”とは違う。


たとえ「妄想に」悩んでいたとしても、むりやり明るく振る舞うようなことは、けして解決にはならないことを経典はいう。

本当の気持ちに蓋をして、強引に“明るさ”を装うことではない。


むしろ、
悩みなら悩みを
不安なら不安を、
恐れや怒りを
徹底的に見る。


その問題の元凶は何なのか?というところまで。


そしてその原因にストレートにメスをいれる。


“問題がない”ように思いこむこと、
“問題を頭から強引に取り除こうとすること”
“明るく”振る舞うこと、
そんなことはYogaではしない。


問題にしっかり向き合い、逃げずに、自分の頭で考えるようにいわれる。


だから、苦しいし、時間もかかる。
なにも解決しない、と思う事が多いかもしれない。


でも、
“ポジティブシンキングpositive thinking”
といって、本当の自分を覆ってしまうのは、そういう“新しい嘘”を自分についていることになる。


同じ様に、

「怒りが芽生えたときには、このマントラを唱えなさい。
そうすれば、怒りはどこかへいくだろう」

なんていう、「まがい物のYoga」をする自称グルもだいぶ怪しいと思っていて、まず間違いない。


マントラで、自分の感情は誤魔化しきれない。
問題を歪めてしまうだけだ。


本当の気持ちを無視して、
新たな思いを上乗せしているだけ。


それでは、苦しい悩みの原因はいつまでたっても解決しない。


自分の気持ちに蓋をしてしまうことで、
鬱屈した気持ちは自由に外に飛び出せなくなる。


すると、心の中で発酵がすすむ。


後に思ってもいない、ドロドロした姿に変わってしまう事もあるだろうし、
なにより、自分が気持ち悪い。


心に鬱積を抱えたまま、本当の意味で明るくなんか振る舞えるわけがない。


そんなことはいつまでも続かない。


なぜなら本当の解決ではないから。


問題を複雑化させているだけだ。


Yogaと称した“自己啓発”っぼい解決法は、うわべは私たちの役に立ちそうにみえる。

けれど、
所詮うわべだけのテクニックは
自分の心にある
“問題の核”
までは届かない。

応急処置にはいいだろう。“○○セラピーのように。


でも、根本治療になっていない。
だから、再び同じ症状に見舞われることになる。

Yogaは、悩みに対して、
“核”
となっているところまで掘り下げる。


それは、時間もかかるし、
意志と努力が要求される。
自分の世界に対する姿勢を問う作業だから、簡単ではない。
しかし、うわべだけじゃない“根本解決”を目指しているのだ。

なぜ悲しいのか?
なぜ苦しいのか?
苦しむ自分とは何なのか?
そのためにはどうしたらいいのか?


この根にある思い方、考え方の構造と論理を見て、
原理を見出す。


その上で、
どうしたらいいのか解決法を示す。


それが、Yogaの在り方なのだ。


自意識をもって考える自分、
それがいろいろな悩みを作っている、というのは事実だ。


「だから、考えないようにするべきだ。
あなたの敵は、あなたの考えだ。
瞑想によって、考えを失くすのだ。
あなたの考えや思いが問題を起こす。
ならば、その考えを失くしなさい。
呼吸だけをみて、考えないようにしなさい」

そんなことを問題解決法として提唱する、強引な教えもYogaやスピリチュアルの探求という名の元にまかり通っていたりする。


“考えない。”


一見よい解決法のようにみえる。
しかし、“考えない”ことでは何も解決できない。


与えられた考える能力と悩める力を無駄にしているだけだ。


これらの力と機能を生かして、私たちは徹底的に考えなければならない。
深く考えなければ、本当の解決は得られない。


考えない事、
無になること、
心を動かさない事、
外の世界と隔絶して孤独と静けさの中でひたすら修業をつむこと、
人とコミュニケーションをとらないこと、

それらは一見、なんだか効き目がありそうな響きがある。


けれど、Yoga的な問題解決の術は、そんなロマンチックなスピリチュアル幻想とは違う。


“考えないこと”は、
裏をかえせば
“問題をみない”、
ということになる。


考えないことに、逃げている。


それではいつまでたっても問題は形を変えて私の前に何度でもやってくるだろう。
出来事を“問題”としてとらえてしまう“自分の見方”が変わらない限り、
問題が起こるメカニズムは変わらないのだから。

悩みに対して、苦悩に対して
“考えを止滅させる、考えを失くす”
という方法論は、
まるでダチョウだ。


・・・

敵に追われて、恐怖のプレッシャーがマックスに達したダチョウは、突然砂浜の砂に頭をつっこむらしい。そして、敵を自らの視界にいれないことにする。

そうすれば、安心。
砂に頭をすっぽりいれたダチョウにとって、敵はいなくなる。
だから、ダチョウは自分を苦しめる問題をみないことで、楽になろうとする。

現実逃避することで、味わえる束の間のハッピータイム。

しかし、残念ながら追っている敵に対して、ダチョウはお尻まるだしだ。

・・・・・

だから、問題は、見ない事でも、逃げることでも解決しない。
遅かれ早かれ、問題の“中心”に捕まえられてしまうだろう。


*******************************


さて、そのマンゴーですが、

わたくし、あまりの嬉しさで調子に乗って“顔”なんて書いてしまいましたよ。

Cimg1331

人面マンゴー


し、しまった。
顔をかいたとたん、愛着が150%UPしている。

おまけに、名前までつけてしまった。

このままでは、絶対疲れた夜に話しかけてしまう。。。

。。。わたしに、こいつを食べる事が、できるのか??


Cimg1357


愛しの”マイティー” と。  July2011 

| 向井田みお |

From悩み⇒ To悟り Yoga的可能性⑦

<悩める自分の特権を生かして、今できること>

Yogaの道を歩む我々にとって、何よりも意志と努力によって養わなければならない大事なことがある。


それは、


“ありのままの物事に対する客観的な理解と態度
”である。


Yogaの経典『YogaSutra(ヨーガスートラ)』には、
『ヨーギーयोगी(ヨガをする人)』の目指すべき境地は、『サマーディसमाधि(心の静寂)』であると書いてある。


それは、“無になることでも、心の止滅、”でもない。


その謂は、


外の物事や人々、状況に振り回されず、自分自身の本質である心の静寂に寛いでいること”

である。

何があっても、揺れない。ぶれない。


それは、物事を客観的にとらえられる理解と態度に立脚して、始めて可能になる。

悩める私は、素晴らしい能力と感受性をもっているのだが、
数々の問題は、

“高い自意識を持った状態で、
主観的に物事をみていること”


から発生している。

自意識は能力だ。
感受性もYogaにとっては不可欠である。


しかし、この自意識をもって、
自分だけの世界観、物事の見方を、
ありのままの外の出来事や人々に投影することが、
自分特有の“問題や悩み”を創りだしているのだ。

私たちはいつも
“客観的に、ありのままの世界をみている”とは限らない。

物も、
人も、
景色も、
主観的にとらえがちだ。


Yogaでは、いかに、世界の出来事や物事に対して、自分と関わる人々に関して

“客観的な理解”と“態度”を身につけていることができるか、を重要視する。

なぜなら、
その客観的な姿勢と態度が、自分自身の真実、世界の真実をありのままに理解する心を準備し、まっすぐな知性を養い、それらが理解の基盤となるからだ。


客観性は、自分特有の歪んだ物の見方を正す。


主観が、単なる出来事を“問題”と変質させ
“問題”が、“苦しみや悲しみ”という形で私たちを悩ませている。

おそらく、自分がありのままをみる態度を身につけたとしても、
周囲に起こる出来事や、関わる人は変わらないだろう。


変わるのは、
悩みの中心にいた、
苦しみの核となっていた“私”なのだ。


出来事を、“苦しみや悲しみ”ととらえて悲劇のヒロインになっていた自分が変わる。


その自分は、ありのままの世界を、素直にありのままに映す歪みない鏡のような知性で、世界をみる。


そこに、“悩み”は起こらない。

あるのは、ただの純粋な出来事や人々なのだから。

世界を歪めて、自分のことを勘違いで見なくなった時、
ありのままをいつも自然に見ることができるようになったとき、
私たちは、すべてを明快な事実として理解できるようになる。

そうやって、自分の真の姿を掴んだ自分は、無敵だ。
なぜなら、この世界には初めから敵などいない、ことを知るから。
“恐れ、不安”がない、というのは、この敵がない“無敵状態”のことをいう。

それが、自由。
それこそが、Yoga的悟りだ。


『モクシャ(悟り・自由)』で得られる結果
『プラヨージャナप्रयोजन(結果、メリット)』はここにある。


どこにいても、
何をしても、
自分を苦しめる物はなにもない。


自分自身でいるだけで、満ちている。


たとえ
悟ったとしても、自由になったとしても、
この肉体が痛むことはある。
目から涙をこぼれさせる出来事もあるだろう。
やがて老い、力が無くなり、今までできていたことは、いつかできなくなる日もくる。
不自由なこともあるだろう。
肉体が自然界に戻っていく日も、勿論そのうちやってくる。


それでも、

「私は苦しい。
私は悲しい。
私は苦悩する者だ」

という勘違いから起こる悲劇はない。


もはや、こんなことは悟った人の目から見れば、喜劇なのかもしれないが。。。

***********************************

Before 
Cimg0549

これは1年まえの写真


After
Cimg1360
そしてこれが現在の写真

どうです?
なにか変ってますか?

私としては、内面の人間的激成長を目指して頑張ったのですが、
こうしてみると、あんまり変わってないですね。

なに?髪型がやばい?


う、うう、うん。。。
わかってるさ。


でも今は、その言葉は聞かなかったことにしておこう。

| 向井田みお |

2011年7月13日 (水)

From悩み⇒To悟り Yoga的可能性⑧


では、客観的な視点を持つにはどうすればいいのか?


それには、リアリティーを見る“瞑想”が非常に有効である。



<リアリティー瞑想>


この瞑想のターゲットは、“物事を客観的にとらえること”にある。


①  まずは座ってリラックスする。

緊張した、テンション高い状態というのは、主観に囚われている(もしくは、囚われていた残像に影響されている)ということ。
だから、まずは落ち着く。

背中をすぅ~っと伸ばして、脚をどっしり床につけて、しっかり座る。
優しく目を閉じ、目の奥の力をぬく。
瞼の力をぬいて、まゆ毛の間を弛める。
できるだけ長く息を吐く。

② 頭の中で、
「大きな広い海」を思い浮かべる。

イメージが大事なのではない。
 “海と自分との関係”をみるのがメインだ。


思い浮かべた「海」に対して、私たちはたぶん
「海とはこうあるべきだ。これじゃいかん!けしからん!」
なんて思わない。


ありのままの自然のものに対して、自分のディマンド(要求)は限りなくゼロに近い。
その自分をみてみる。


ディマンドや主観の押し付けをしない自分は、ありのままの物事をとらえている自分である。
そういう自分の状態をみる。
そのために、海のイメージを使っている。


同じ様に、「山」「牧草」「空」…etc

自分の歪んだ主観が、入り込まない“自然”の景観を思い浮かべる。
その対象をとらえている自分の状態をよくみる。

緊張のない、ありのままをみる自分とは、どういう状態かを知る。

③ 思い浮かべるイメージを、自然から都市へシフトさせる。
「町、建物、町を行く人々」
それらに対して、自分がどういう状態でとらえているか見てみる。

自然界の物を見ている自分と多分あまりかわらないだろう。
思い入れがないものに対しては、私たちは主観なく、客観的にとらえられるから。

④ 次に自分と関わりのある人を思い浮かべる。
「母、父、兄弟」
そして
「今一番気になる人」を思い浮かべる。
いい意味でも、悪い意味でも

好きな人、
自分をイライラさせる人、
密かに憎しみを抱いている人、
ライバル、

とにかく自分の心を揺らす人々を思い浮かべる。
彼らをとらえている時の自分の状態をみる。


おそらく、自然の物を思い浮かべた時とは全く違う状態になっている。


これが、“主観”で物をみている私の状態だ。
この状態をみてみる。


主観でみている物事に関しては、私たちはそれらの対象を自分の心にインストールしてしまっている。
さらに悪い事に、その思いを内側で飼ってしまっている。


偏愛や、憎しみ、怒り、嫉妬、これらはすべて“思いこみ”を養うエサだ。
そうやって肥えた“主観”が、悩みと苦しみのキーファクターとなる。


だから、愛する人、大好きな人がある日、一番憎い人になったり、
嫌いだったあの人に、コロっとまいってしまう、というアクシデントが起こる。

私たちは、この見方でとらえた対象たちを、アンインストールする必要がある。


****************************


1年に一度だけ咲くという、『ブランマカマラ』という蓮の一種が今日咲きました。

これは本来はヒマラヤ山脈のある斜面にしかないのだそうです。

Cimg1321

澄みきった白が透きとおって、夜の闇に映える。
美しい。

どれどれ香りはどうかな?

Cimg1324
くんくん・・・


柔らで、静かな、そしてとても繊細な香りがしました。

後1時間でこの花は枯れてしまうそう。
花の命は3時間・

あまりに短い盛りに、おばさんは涙がでそうです。。。

| 向井田みお |

From悩み⇒To 悟り Yoga的可能性⑨


【アンインストール】


心の中で次のような内容のことを、言葉にして言ってみる。
そうやって宣言することが、この方法の効果を上げる。


「この心に浮かんだ人は、あくまでも私がとらえた人物像だ。


この人は、過去に“私の見方”で見た人である。
そして今、“私の見方”でみている人である。


それは、その人を正確にとらえているかもしれないし、
違うかもしれない。


あくまでも、“私の見方”でとらえた人でしかない。

その人があるがままでいる“自由”を私は与えよう。
その人自身はすでに自由だが、
私の思い方ということから、自由に解放しよう。


私がみている“その人”には、その人なりのバックグラウンドがあり、そうある事情がある。

私に対して、その人がした発言や行いにも、すべて事情がある。
その人なりの理由がある。

あの時点では、その人ができたベストの振舞いだったのだ。
この事実を認め、彼に自由をあげ、私の内から解放しよう。

人は、その人が生きる領域において、自由に振る舞える権利がある。
私にその人を変える権利はない。


だから、自由にしよう。

私の中でも、その人が自由であるように、私の思いから解き放とう。」

この主旨の言葉を心の中でいう。
そして、自分の思い入れがある人を、自分の心の中から自由にする。


その人がありのままでいられるように、
さらに、自分がありのままにみていられるように。


一通り、気になる人々に対して、このアンインストールをする。


これは物事を客観的にとらえる、かなり有効な方法だ。
メリットとして、確実に自分の中のモヤモヤや怒り、悩みが激減していくことに気がつく。

⑤ その後で、自分の事を見てみる。
この肉体、呼吸。
そして五感の動き。
心。

心に思いを映している自分。
特有の思い方、考え方をする自分をみる。


思いを見ている自分は、どの考えにも染まらずに、物事を意識する純粋な意識体だ。
それが、“素の自分”である。


何の役も演じず、何の思いにも染まらず、悩みがない。
とても客観的にただ“在る”自分。


その状態に、しばらくとどまる。


“落ち着き、静けさ、心地よさ、安心感、”を知る。

“満ち足りているということの意味、
“何の要求もない幸せ、ということの意味“


それらの意味に他ならない自分を知る。


素の自分とは、私たち皆が探している「幸せ」の意味である。


私こそが、「幸せ」の意味そのものであるという事実を知る。


このメソッドが、「世界と自分の事実を客観的にとらえる」有効な方法である。


この瞑想は一度行えばいいというものではなく、瞑想をしていなくても、その人を自然に受け入れる事が出来るようになるまで、何度も繰り返す必要がある。


“ある人”の存在によって、自分の心が揺れ無くなるまで。
問題を抱える事が無くなる時まで。


この方法は何度も行う。


やがて、自分を悩ませる人、脅威を抱かせる人は、私の中にはいなくなる。
心の平和が保たれる。
それが、客観的に物事をみる、ということだ。


まるで、海を見ていた時の自分のように、


“ややこしいことをいうあんな人や、
いつも不満たらたらで、仏頂面のあの人“
たちに客観的に接することができるようになる。

そこを目指しているのである。


それが、『ヴェーダ(聖典)』の最終的ヴィジョンを理解する一番の準備となる。

*************************************


なんでこんなにブログの更新が遅いのかって?


それはネ、 野生動物にネット回線を邪魔されているからなのさ。

Cimg1281


お解りいただけただろうか?

この至近距離での野生の象・

こんなものが、徘徊している山奥でのブログの更新は毎回命がけですよ。


でも、こんなに真昼にはめずらしいですえ。

しかし、近くで見ると迫力ありますな。

これでベイビーなのだそうです。

**注***

野生の象は迂闊にちかよると、大変危険です。
良い子は、こんなに近づいて、にやけた記念写真なんか絶対撮影しないように。


Cimg1280

という警告のための入魂の一枚。


| 向井田みお |

From悩み ⇒ To悟り Yoga的可能性⑩

“客観的に物事をみる”
といっても、
それは、けして他人に対して冷たくドライになれ、と言っているわけではない。


人々に対して、
必要ならば手を差し伸べ、助けることを厭わない。
ケアが必要なら、惜しみなく与えることができる。


基本的な関係において、
「信頼と思いやり」
はそのままにして、
あくまでも、私の主観だけをアンインストールするのである。


自分の意見や考え方を押し付けて、その人を変えようという要求を手放す。


ただただ、
“その人がその人であること。”
を認め、受け入れ、温かく見守ることができるように。


それがYoga的な理想の人間関係だ。


そんな風に人々と接することができることが、人としての懐の深さだったり、大きさだったりする。
Yogaは、大きな人間になることを目指している。


なぜなら、Yogaの最終的に理解すべきヴィジョンは、


『タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि
(You are the Whole,あなたの本質とは全体である)』

なのだから。

大きい心にしか、大きいヴィジョンは宿らない。
しかも、私たちがYogaにおいて理解しようと思っている事は、“大きい”ということすら超えた、
“全体”
なのだから。

・・・・

肝に銘じておきたいのは、私たちは自分の態度は変えられる。
しかし、他人を変えることはできない。


他の人の問題は、あくまでもその人の問題であって、私には一切関係ない。


私ができることは、それにリアクションせず、
ただ見守ること。
「信頼と思いやり」はそのままで、自由にしてあげることだ。


不機嫌な顔で挨拶もせず、イライラしている職場の人には、


「アー今日は、ご機嫌斜めですな~。ナマステ、ナマステ。」


くらいに思っておく。


彼女の、彼の不機嫌の原因は、私には関係ない。

仮に、自分の発言や行いがそのきっかけになっていたかもしれないが、
それを受け止めて、態度にだしているのは、その人だから、
やっぱり私にはどうしようもないのだ。


そんな風に、人を自由に、
そして自分を歪んだ主観から自由にする。


それが、実質悩みを手放すことになる。

その自由は、やがて必ず“究極の自由”『モクシャ(悟り・自由)』へ繋がっていく。

悩みを成長のチャンスに変えて、
世界から運ばれてくる課題を、私はどんどん突破していこうと思う。

最終的に、
鏡の向こうからいつも私を覗き込んで、厳しく批判してくる
“あの人”
から自由になるために。


_end___

***********************************
Cimg1294

ホーマ、というお焚き上げの後。
ご利益の煙を吸いこもう~


いつも長い文章を読んでいただきありがとうございます。

8月2日~15日まで一時帰国することとなりました。

ブログに関してのご感想やご意見、もしありましたら、どうぞおきかせください。

いつも、インドの山奥で1人ポチポチ孤独に打ち込んでいるので、
どんな風なことをお伝えするればいいのか、気になっているのです。
私も、一応“悩める人”ですから。

というわけで、
帰国中は、『Under The Lightアンダーザライト』

にできるだけいるようにいたします。


どうぞお話しおきかせくださいませ。

そして、今回の「リアリティー瞑想」を解説しながら、実践もしていきます。

ご質問はその際に、ぜひどうぞ。

朝だいぶ早いですが、このようなYoga的『集い サットサンガ』をする予定です。

向井田みおによる一時帰国企画、朝のYoga&「サットサンガ(Yoga人の集い)」

http://www.underthelight.jp/utl_news/2011/07/_yoga8345101112.html


気が向いたら、ぜひぜひ。

では、日本でお会いいたしましょう。


Cimg1286

お焚き上げの火に供物をなげこむ私。


どうか日本が、福島が復興しますように。
傷ついた方々が、癒えますように。

ここから、いつもお祈りしています。

| 向井田みお |

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »