From悩み⇒To悟り Yoga的可能性⑤
すべての問題は、なんと私の勘違いでした。。。
これがリアルな私の苦悩と絶望の正体。
なんだか悪い冗談みたいな話だ・・
しかし、聖典にいわせると、これが現実なのだ。
ということは、私たちは、
元々実体がない、存在がない問題を解決しようとしているのか?
ひょっとして、ただの「妄想」にすぎないものから自由になろうとして必死になっている?
そう、そのとおり。
私の師はよくいう。
「悟りを目指す、ということは、世界最大のジョークを解って、笑い飛ばそうとしていることなのだよ」
まるで、架空のロープにしばられた牛のように。
・・・・・・
牛飼いは、牛をたまに“見えないロープ”で縛ることがある。
本当はロープなんてないのだが、縛っているフリをするのだ。
そうすると牛は自分が縛られていると思って、架空のロープの範囲内でしか動けなくなる。
逃げよう、
自由になろう、
なんて思わない。
「なんで自由に隣の牧草にいかないの?」
誰かが聞いても、牛はいうだろう。
「だって縛られてるもん。」
・・・
ロープの実態を見もしないで。
事実を確かめもしないで、
牛は見えないロープに縛られる。
本当は、ロープなんて在りもしないのに。
牛は何が自分を縛っているのか見極めもせずに、無知のまま、
“見えないロープ”に縛られ続け、自由を制限される。
同じ様に、私たちは、自分の真実を見極めずに、
架空の「妄想」に縛られて、自由を奪われている。
悩み、苦悩、悲しみという、
実体のないロープに縛られている。
そして、
牛飼いが、このロープを外すためには、
「見えないロープ”を外す(フリ)」を、牛に見せなくてはならない。
そうしないと、牛は解らない。
自分が自由であるどうかを。
牛飼いがロープを外す動作をみてはじめて、
牛は「自由になった!」
と喜んで囲いの外へ飛び出していく。
最初から縛られてなんていなかったのに。
本当は、あのときも自由だったのに。
私たちがしているYogaは、これに少し似ている。
もともと実体のない問題に縛られ、自由を奪われているようにみえる。
そして、それを頑張って、解こうとしている。
息を止めたり、考えを止めたり、体の動きを型にはめたり、
いろいろなテクニックを駆使して。
でも、本当は自分の「妄想」に縛られて身動きがとれなくなっているだけだ。
Yogaの修行や探求、瞑想の真の目的は、実体のない問題の“本質”をみることにある。
自分は何にも縛られてない、
私たちは初めから自由だった、
そして、いつだって自由だ。
ということをわかるために。
その理解をたすけるYogaの師の役目とは、牛飼いのように、「“見えない”ロープを外す」ふりをしながら、問題の根源を見せる事にある。
「ちょっと、ちょっと・
あんたが今、不自由に感じている、悩んでいるという、“ロープ”の実態をみてみなさいよ。
これがリアルなロープかい?
あんたを死ぬほど悩ませてる悩みとは、本当は何の事なのだ?」
・・・・
何もしなくても、今私たちはこのまま、ありのままで
すでに自由なのだ。
だけど、それが判らない。
答えは自分の中にはない。
夜の深い闇の中には、自ら光る物が何もない。だから暗過ぎて何も見ることができない。
闇を照らすのは、闇の外から持ち込んだ“明り”であり、光”だけである。
私たちの深い“無知”の闇は、
闇を解消するための“明り”を外からもたらされなければならない。
闇自体の中には、光はないのだから。
この無知を照らす光は、聖典の言葉であり、ヴィジョンである。
そして光を持って、闇を照らし、明りをもたらすことができるのが、
師の伝える教えとメソッドだということになる。
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マンゴーの季節と相成りました。
いや~しかし、でっかいですね。
すばらしい!
この季節を1年耐えに耐えてまっていましたよ。
さてさて、まずはお供えしてから頂きましょう。
ちなみに1Kg=50Rs(100円) です。
マンゴーに関しては、インドっていい国だよなぁ
| 向井田みお | 固定リンク
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- ヨガ哲学の旅(2010.03.19)