From悩み ⇒To悟り Yoga的可能性⑥<Yoga的解決>
さて、そうはいっても壮大な聖典のヴィジョンを理解するために、
今私たちができる事は何だろう?
<Yoga的解決>
Yogaは、単なる“ポジティブシンキングpositive thinking”とは違う。
たとえ「妄想に」悩んでいたとしても、むりやり明るく振る舞うようなことは、けして解決にはならないことを経典はいう。
本当の気持ちに蓋をして、強引に“明るさ”を装うことではない。
むしろ、
悩みなら悩みを
不安なら不安を、
恐れや怒りを
徹底的に見る。
その問題の元凶は何なのか?というところまで。
そしてその原因にストレートにメスをいれる。
“問題がない”ように思いこむこと、
“問題を頭から強引に取り除こうとすること”
“明るく”振る舞うこと、
そんなことはYogaではしない。
問題にしっかり向き合い、逃げずに、自分の頭で考えるようにいわれる。
だから、苦しいし、時間もかかる。
なにも解決しない、と思う事が多いかもしれない。
でも、
“ポジティブシンキングpositive thinking”
といって、本当の自分を覆ってしまうのは、そういう“新しい嘘”を自分についていることになる。
同じ様に、
「怒りが芽生えたときには、このマントラを唱えなさい。
そうすれば、怒りはどこかへいくだろう」
なんていう、「まがい物のYoga」をする自称グルもだいぶ怪しいと思っていて、まず間違いない。
マントラで、自分の感情は誤魔化しきれない。
問題を歪めてしまうだけだ。
本当の気持ちを無視して、
新たな思いを上乗せしているだけ。
それでは、苦しい悩みの原因はいつまでたっても解決しない。
自分の気持ちに蓋をしてしまうことで、
鬱屈した気持ちは自由に外に飛び出せなくなる。
すると、心の中で発酵がすすむ。
後に思ってもいない、ドロドロした姿に変わってしまう事もあるだろうし、
なにより、自分が気持ち悪い。
心に鬱積を抱えたまま、本当の意味で明るくなんか振る舞えるわけがない。
そんなことはいつまでも続かない。
なぜなら本当の解決ではないから。
問題を複雑化させているだけだ。
Yogaと称した“自己啓発”っぼい解決法は、うわべは私たちの役に立ちそうにみえる。
けれど、
所詮うわべだけのテクニックは
自分の心にある
“問題の核”
までは届かない。
応急処置にはいいだろう。“○○セラピーのように。
でも、根本治療になっていない。
だから、再び同じ症状に見舞われることになる。
Yogaは、悩みに対して、
“核”
となっているところまで掘り下げる。
それは、時間もかかるし、
意志と努力が要求される。
自分の世界に対する姿勢を問う作業だから、簡単ではない。
しかし、うわべだけじゃない“根本解決”を目指しているのだ。
なぜ悲しいのか?
なぜ苦しいのか?
苦しむ自分とは何なのか?
そのためにはどうしたらいいのか?
この根にある思い方、考え方の構造と論理を見て、
原理を見出す。
その上で、
どうしたらいいのか解決法を示す。
それが、Yogaの在り方なのだ。
自意識をもって考える自分、
それがいろいろな悩みを作っている、というのは事実だ。
「だから、考えないようにするべきだ。
あなたの敵は、あなたの考えだ。
瞑想によって、考えを失くすのだ。
あなたの考えや思いが問題を起こす。
ならば、その考えを失くしなさい。
呼吸だけをみて、考えないようにしなさい」
そんなことを問題解決法として提唱する、強引な教えもYogaやスピリチュアルの探求という名の元にまかり通っていたりする。
“考えない。”
一見よい解決法のようにみえる。
しかし、“考えない”ことでは何も解決できない。
与えられた考える能力と悩める力を無駄にしているだけだ。
これらの力と機能を生かして、私たちは徹底的に考えなければならない。
深く考えなければ、本当の解決は得られない。
考えない事、
無になること、
心を動かさない事、
外の世界と隔絶して孤独と静けさの中でひたすら修業をつむこと、
人とコミュニケーションをとらないこと、
それらは一見、なんだか効き目がありそうな響きがある。
けれど、Yoga的な問題解決の術は、そんなロマンチックなスピリチュアル幻想とは違う。
“考えないこと”は、
裏をかえせば
“問題をみない”、
ということになる。
考えないことに、逃げている。
それではいつまでたっても問題は形を変えて私の前に何度でもやってくるだろう。
出来事を“問題”としてとらえてしまう“自分の見方”が変わらない限り、
問題が起こるメカニズムは変わらないのだから。
悩みに対して、苦悩に対して
“考えを止滅させる、考えを失くす”
という方法論は、
まるでダチョウだ。
・・・
敵に追われて、恐怖のプレッシャーがマックスに達したダチョウは、突然砂浜の砂に頭をつっこむらしい。そして、敵を自らの視界にいれないことにする。
そうすれば、安心。
砂に頭をすっぽりいれたダチョウにとって、敵はいなくなる。
だから、ダチョウは自分を苦しめる問題をみないことで、楽になろうとする。
現実逃避することで、味わえる束の間のハッピータイム。
しかし、残念ながら追っている敵に対して、ダチョウはお尻まるだしだ。
・・・・・
だから、問題は、見ない事でも、逃げることでも解決しない。
遅かれ早かれ、問題の“中心”に捕まえられてしまうだろう。
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さて、そのマンゴーですが、
わたくし、あまりの嬉しさで調子に乗って“顔”なんて書いてしまいましたよ。
人面マンゴー
し、しまった。
顔をかいたとたん、愛着が150%UPしている。
おまけに、名前までつけてしまった。
このままでは、絶対疲れた夜に話しかけてしまう。。。
。。。わたしに、こいつを食べる事が、できるのか??
愛しの”マイティー” と。 July2011
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