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2011年7月14日 (木)

From悩み⇒To悟り Yoga的可能性①


<悩み多き人は、『モクシャ(悟り)』の可能性に溢れている!>


悩みが多い。


とびっきり繊細で、すぐにいろいろな物事に傷ついてしまう。
いつも人の目の気にしてビクビク。
何をするにも、思いっきりできていない気がしている。

自分の思い通りに、大胆に何かを決めて飛び出すよりも、
まず
周りを気にして、
他人を気にして
いつまでも踏み出せない。

大きな決断から、日常の些細なレベルまで、
いつも他人の自分に対する視線が、
自分の行動や考えの基準になっていてしまったりする。


自分の本当の思いより、他人の思いが優先になってしまっている。

どう動くか?
立ち居振る舞いから、

何を選ぶか?
食べる、着る物、持ち物の選択。

何処に行くか?
何をするか?
どうするのか?
どんな事をしていても、
「自分がどんな風に他人の目に映っているのか?」
が気になる。


そんな風にウジウジしている
思い切りの悪い自分を悩んでしまう。

“過剰”ともいえる、己の“自意識の高さ”に嫌気すら覚える。

悩める人は、
“自分について” の意識が高いだけでなく、
“他人について”彼らがどのように自分を見ているのか?
に関して高い意識をもっている。

だから息苦しく感じ、
苦悩にハマりやすい。


他人は
「ただの自意識過剰ですぜ。」
と、そういうだろう。


そのとおりだ。


だから、
雑多な世界ですごすには、これはデメリットかもしれない。
第一、いつもビクビクしている自分は、気持ちが悪い。


けれど、
Yogaを極める、
という視点から見れば、


“自意識過剰な人こそYoga的悟り、『モクシャ(悟り・自由)』に近い”

のだという。


Yogaでは、

“悩める”繊細さや、高い自意識はスペシャルな能力だ。“

とされる。

自意識過剰はよくいえば、
感性が豊かで、
感度が高い、ということ。


そして、悩める人は、悩める能力があるからこそ、
「そこから自由になるにはどうしたらよいのか?」
と必死になって考える。

ごにょごにょ思っている考えや、
そこから派生するストレスや苦悩、
内なる葛藤とプレッシャー。

“自由になりたいよぉ~”

いつも、その人は心で叫んでいる。

本気で“自由を”望んでいる。
何から、“自由”になりたいのか?
それもはっきりとわかっている。

ウジウジした自分から、
悩む自分から、
内なるやり場のない圧力の高まりから、
葛藤と悩みから、
自由になりたい。


この自由への渇望は、
「何かしなければ!」
という“モチベーション”になる。

そのモチベーションが、正しいプロセスと一致したら、
“可能性”となる。

可能性は意志と努力しだいで、
“現実”となる。

そうして、悩める人は、Yoga的悟り『モクシャ(悟り・自由)』へ続く道を歩きし、究極の自由へ至る。


だから、
Yoga的にいえば、
悩みは最高のチャンスだ。


Yogaの才能。

そんなものがもしあるとしたら、
それは、この
“悩み多き、豊かで繊細な感性である”
と、経典が示唆する。


自分が考えている自分。
他人が自分に関して考えているだろう、ということを考えている自分。

この2つの側面から自分を意識できる能力は、実は人間だけに許されている。

人間だけに開かれた、自由への扉には、“悩み”という札がかかっている。
それに向き合い、扉に手をかけ、開け放った時、
初めて自由への道を踏み出せる。


高い自己意識。
自分を意識すること。
他人の自分に対する思いを意識すること。
それは、自然界においては、ある種の“力”だ。

悩める感性。
繊細さ。
苦しみ、悲しめる豊かな感情。

そして、

その悩みからの脱却を図ることを望み、願える力。

何が“悩み”の元なのか?
原因を見極められる知性。

そのためには、どうすべきか?
策を講じ、探求することができる自由と意志。


こういった高い能力は、人間だけに与えられている特権だ。

スピリチュアルな探求や、宗教的な修行においては、
忌み嫌われ、失くすべきだ!
とさえまでいわれる、

“悩むことや、
感情的になること。
何かを願うという欲望“

これらすべては、Yogaの経典の視点からみれば、

人間として生を受けた者のみ許された非常にレアで、スペシャルな能力
である。

ここから人は『モクシャ(悟り・自由)』という限りない自由を目指せるのだから。

悩みや悲しみや、苦しみがあるから、
それを感知できるから、
自由を望めるのだ。

そして、その自由は今、ここで、この世界で、この体で生きている内に可能だ。

むしろ、
自由になるには
今、ここ、
でしかない。

Yogaの経典『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』の1つ、
『カタ・ウパニシャッドकठौअनिषत्(カタ奥義書)』はこう言う。

磨かれた鏡の上に、自分の顔をはっきり見る事ができるように、
賢者は、自分自身の本質『アートマーआत्म(人、生き物の真実)』をはっきりと見る。
鏡のように磨かれた、葛藤のない、落ち着いた澄んだ心で、自分自身の真実を知る。
真実の自分を知った者は、完全なる自由に至る。

この世界以外の、別の世界においては、水に映った顔をみるように、夢の中の光景をみるように、ぼんやりと揺らいだヴィジョンしか得る事が出来ない。
しかし、
この世界でのみ、人は明快なヴィジョンをもつことができる。

人間として自由意志を備えた体をもって、この世界で生きている時だけ、
「悟りへ至る、自由の知識」は、真昼の光のようにはっきりと知ることができるのだ。

だから、自由を目指すとしたら、今、ここで、この体をもって為されるべきである。
そのための努力は、今すぐ、すべきだ。(2.3.5)


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みなさま、先月の皆既月食はご覧になりまして?


私は、インドにて皆既月食体験いたしましたことよ、であります。

インドは世界中でも月食・日食が多い大陸。
2011年だけで5回あることになっている。。

そして、“月食”は不吉といわれており、絶対にみんな外にでません。
月食の時間帯前後は、お寺も締まります。
きっちり扉を閉めて、月食の影響を受けないようにするのです。
ぽ~っとお外で月食なんて浴びたら、良からぬ影響を受けてしまう、とでもいうように、
しーんと静まりかえります。


月食の始まりと、終わりの時間にはシャワーを浴びます。
月食中は「ジャパ」というマントラを唱える瞑想をして過ごします。

でも、そうやって静かに過ごした日は、その日を境に何かが確実に変わるのです、自分の中に変化が起きているのを感じます。不思議なもんですな。

さて、次の月食は、12月10日。6:14-9:47分の間だそうです。

私目も、ここぞとばかりに「ジャパ瞑想」いたします!

写真は、『バガヴァッドギーター』を出版している出版社のカレンダー手帳。
「パンチャアンガ」といいます。

これに、毎日の月の動き、星の動き、日食・月食、儀式にふさわしい日、断食の日
などの情報が書かれているインド人の必需品です。


| 向井田みお |

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