From悩み⇒To 悟り Yoga的可能性④
私とは、この体や感覚や考えを持って、全体世界として現れた『ブラフマンब्रह्मन्』である。
その私が意志を伴って世界に参加している。
全体世界の躍動に貢献している。
私の本質は『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』である。
『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』とは、私の、事実である。
“自分とは世界である”
そう自分を理解することが、人を“不安と恐れ”と、そこから派生する様々な問題から人を自由にするという。
तरति शोकमात्मवित्
“自分の事実を知った者は、悲しみの海を超える”
(『チャーンドギャウパニシャットचान्दोग्योपनिषत्』)
・・・・・
「自分が世界だと?何を言っているんだ?」
「誇大妄想も甚だしい!」
そう思うかもしれない。
しかし、
聖典のヴィジョンは、「妄想」ではない。
何十年しか生きていない1人の人間が、限りある知性でだした“結論”と、
何千年もの間、多くの人々に信頼され、理解されてきた“結論”
のどちらの信頼性が高いのか?
どちらが信じる価値があるのか?
答えは明白だ。
しかも
この『ヴェーダ(聖典)』の最終的なヴィジョンは確実に人々にメリットを与え続けてきた。人を限りない自由へと解放してきた。
結果は、Yogaの歴史が物語っている。
インドに今も生きる賢者たちが、証明している。
だから、このヴィジョンは、
知性において、理解されるべき事実だと、
そう言い切るに値する価値がある。
では、
もし経典がいうように、私とは全体であり、1つの事実であるというのなら、
なぜ私たちは問題や苦悩の原因となる「妄想」を抱えてしまうのだろう?
経典のいう事実は、まさに今も、この瞬間も私自身であるはずなのに、
なぜ私は、
“世界から離れている、孤独である”と考えたり、
“私は小さく、世界においてさしたる意味もなく存在する奴”なんて、
自分の事を思ってしまうのだろう?
あるがままの自分でいるだけで、すでに自由であるはずなのに、
なぜそう思えないのだろう?
自分とは世界である。
世界そのものである自分は、すでに今もあるがまま、この肉体をもったまま、
様々な状況に囲まれながらも、本質は自由である。
自分を限定するものなど、どこにもない。
それが経典のヴィジョンだが、
なぜ同じヴィジョンで、私は自分と世界を見る事ができないのだろう?
真の自分でいることを、阻んでいるのは何か?
そして、本当の自分の上に、思い違い、間違いをのせて、勘違いに苦しみ悩むのは
なぜなのだろう?
経典は
それは、“無知”である、という。
単に自分の事を知らないということ。
さらに、知らないというだけでなく、
無知の上に自分なりの考え、私だけの世界観、つまり“主観”をのせて
自分と世界を見ているからだという。
無知に端を発した、自分なりの思い方、考え方、“勘違い、間違い”が私たちを悩ませている。
全くの無知ならば罪がない。
苦しみもない。
けれど、私たちは高い自意識と、世界を感知できる感受性と知性も併せ持っている。
だから、
「自分がいる。」
というのははっきりとわかる。
「世界がある。」
ということも、クリアだ。
しかし、その実態とは何か?
を問うたときに、自分の中には答えがない。
「自分がいる、そのことを私は解っている、」
というところまではいい。
けれど、その自分とは
“何者であるか?”
これに対する答えがないのだ。
だから、推測する。
私とは、多分、体だ。
考えだ。
いや、生理機能、空腹や渇きのことだろう。
いやいや、生々しい感情に違いない。
そんな風に自分の周りにあるもの、自分がもっているだけの付属物を“自分自身”
と思い込んでしまう。
限りある付属物を自分、と思いこんでいたら、
私とは、
“制限があり、小さく、いつか壊れ、儚く終わる宿命を背負ったもの。
世界にありふれた、たいして意味のないもの“
ということが結論になってしまう。
しかし、その結論が間違いなのだ。
まるで、薄ぼんやりとした光の下でみたロープを蛇と間違えて、不安と恐怖に慄くように、
私たちは、
ぼんやりとみえている自分自身を、見間違えている。
そして、混乱し、苦悩や悲しみの海に溺れる。
故に、
この人間特有の悩める能力と、高い自意識と知性を、“自由”のために使わなかったら、
こんな能力は、ただの呪いでしかない。
犬や猫や鳥に生まれて、お気楽に暮らしていた方が、どれだけ幸福だっただろう。
しかし、この能力をひとたび“自由を目指す”ために使うようシフトチェンジすれば、
それはこの上ない祝福になる。
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お寺で今日もお焚き上げがありましたよ。
今日の『儀式の主・ヤグニャマーナ』は
同級生のアーナンダ君。
イスラエルからやってきた彼は、
3ヶ月間『मौनモウナ(沈黙の行)』をしていて、
それが、めでたく終了したのです。
それだけでも、彼の『プンニャपुण्य्(徳)』は相当にUPしたはずなのが、
最後のとどめにお焚き上げの儀式まで!
なんと、なんと、、
一体どんな風になっていくんでしょうね。。
隣の席のわたくしは、彼の変化を大変楽しみにしておるのです。
というわけで、アーナンダ君よ、おめでとう!
そして、彼の『プンニャपुण्य्(徳)』にあやかろう。
あやかり系M
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- ヨガ哲学の旅(2010.03.19)