天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り⑨ *過去のカルマも清算できる。
天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り⑨
<過去の悪行も『カルマकर्म(行い)』で清算できる。>
『カルマकर्म(行い)』の法則のカラクリはだいたいわかった。
だけど、ここで不安要素がのこる。
それは、もし過去にしてきた行いの結果、
『プンニャपुण्य्(徳)』と『パーパपाप(不徳)』の組み合わせだけで、
すべてが決まるのなら、
もうすでに運命は定められて、変えられないのではないか?
そして、多分私は、恐ろしい程の悪行を積んでいる可能性がある・・
今までの自分の行いを振り返って、覚えているだけでもたくさんある。
言うに言われぬ、“あんなことや、こんなこと・・”
それらが、いつか結果の実を結び、私によって消化されなければならないのだという。
そして、過去にはきっともっとたくさんのことをしているはずだ。
だとしたら、フルフル震える程、怯えてしまう。
こんな人間の心理に『ヴェーダ(聖典)』は救済措置も提示してくれている。
“過去の悪行の数々、もう取り返しのつかない『パーパपाप(不徳)』も、
今している『カルマकर्म(行い)』によって清算できる。“
心配するなかれ。
おおぉ!
よかった、よかった、
『カルマकर्म(行い)』は、『カルマकर्म(行い)』によって清算できる、というのだ。
今している、そしてこれから先行う『カルマकर्म(行い)』を、『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる徳の高いものにしていけば、この善行の結果が“抗体”となる。
過去に積んでしまった行いに対する贖い。
新たな“不運”を生みだす原因に抵抗するには、『パーパपाप(不徳)』を上回る『プンニャपुण्य्(徳)』をつむこと。
原因は、『カルマकर्म(行い)』である。
これに抵抗して、結果の叶い方を変える方法も同じ『カルマकर्म(行い)』で対処できる。
その特別の『カルマकर्म(行い)』のことを
『プラヤスチッタ・カルマप्रायश्चित्तकर्म(過去のカルマに対する償い、清算する行い)』
という。
例えると、すでに病の原因は体に巣食っているのだが、特殊な抗体”をつくることで、この病に抵抗できる。
原因を根こそぎ取るわけにはいかないが、発病してもごく軽く済むように、私たちは特殊抗体をつくることができるのだ。
それは、今から新たな『カルマकर्म(行い)』をするときに、『プンニャपुण्य्(徳)』を生みだすものにすること。
『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる行いは、前述のとおり2つある。
【悪行への対処法 *『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる2つの行い】
1つは、助けを必要としている人々や、生き物に手を差し伸べる行い。
実際的に体を使った手助けでももちろんよいが、間接的な助けになる“寄付”や“公共事業”への参加や、“ボランティア”も非常によいとされる。
自分の時間やエネルギーを、他の人、生物の為に使うこと。
これが『プンニャपुण्य्(徳)』を生みだす。
2つ目は、“祈り”
『カルマकर्म(行い)』の法則も含めた、この世界を維持している秩序と自然の摂理に敬意を示すこと。
例えば、
圧倒的に美しい朝日や夕日を見た時、私たちは思わず手を合わせてしまう。
大きく広がる空を見上げた時、何かとてつもない深さで包まれているような思いから、
胸がすぅ~っとして、なんだか、すべてに感謝したくなるような謙虚な気持ちになる。
ご飯を食べる前にも、手を合わせる。
日常の中で、私たちは謙虚な気持ちで自然の理に素直に敬意を示している。
これを、意志の力でより積極的に行うこと。
それが、『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる“祈り”だという。
インドでは、『ヴェーダ(聖典)』に記述されている儀式をすることが、確実に『プンニャपुण्य्(徳)』を生みだすとされるが、日本に住んでいる私たちができることは何か?
1つは、もしその土地で伝わる儀式があるのなら、それを形式通りにすることがよいとされる。必ずしも『ヴェーダ(聖典)』の規定に則らなくても、昔から伝統的にされている儀式や祈りの形式には、意味がある。
何か結果を確実に生んでいる、という実績に裏打ちされているからこその伝統なのかもしれない。
だから、神事や伝統的な祈りや儀式に参加することは、Yoga風にいうと『プンニャपुण्य्(徳)』をつくることになる。
そして、どんな形式でも言葉でもいいから、“心をこめて、祈ること”
できれば、具体的に積極的に。
忙しい日常の中、あえて祈りの時間をつくる。
それは意志と努力が必要とされる。
具体的な思いを、言葉にだす祈りがよいとされる。
自分が本当に探求したいことのために“祈る”
他人の平和や幸せのために“祈る”
その“祈り”の行いが『プンニャपुण्य्(徳)』を生みだす。
同時に、この“祈り”は、自分の内なる要求を汲みだす行いにもなる。
「本当に自分の欲しいもの、求めるべきものはなにか?
そのためにはどうすればいいのか?」
それを意志ある行いによって汲みあげるのだ。
自分の本当にしたいことのために、人生をつかうこと。
そのために、私たちは体を与えられ、この世界という舞台に参加している。
だから、目的が明確で、しっかりと役を演じることができるようになること、
それはこの世界が望んでいることでもある。
ゆえに、こんな風に自分の思いを意志によって汲みあげる行い“祈り”は、
ささやかながら自然の摂理に働きかける。
その真摯な気持ちの現れである行いは、『プンニャपुण्य्(徳)』をつくり、必ず結果を生む。
結果を生むため、『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる『祈り』は、具体的に意志で行わなければなければならない。
大自然の前で、もしくは、特定のご神体の前で
ただなんとなく手をあわせて“ぽぉ~っと”していたら効果が薄い。
意志を伴わない『カルマकर्म(行い)』は、結果を生まないからだ。
思いを掘り起こす、謙虚な気持ちを汲み上げ、何がしたいのが、しっかり考えて祈ること。
「私は、自分で本当に欲しいモノがなんだかよくわからないけど、
神様は、きっとすべてご存じのはず。
だから、ただすべて委ねて、祈りましょう~♪」
こういう覚悟のない、意志薄弱な行いは、『カルマकर्म(行い)』になりえないのだ。
だから、どうか祈りは積極的に。
意志が明確な祈りは、『カルマकर्म(行い)』として必ず次なる結果を生む。
Yogaでは、自然界のこの摂理を理解できる繊細さと賢さがある人こそが、
“祈れる人”だという。
物質的な物が幸せの基準とされる国では考えにくいことだが、
プラクティカルで、現実的な人こそ“祈り”の力を知っているという。
“ある日手ぶらでやってきた自分が、この世界で必要なものをすべてもって持って生きていられる。”
この背景に、ただ事ではない力と真理とルールが働いている事を知る人。
そのルールを“祈り”のよって、自分に引きつけることができると知る人。
自分が生きているということを大きな視野でとらえられる人。
本当の意味で、実践的である人が祈れる人なのだ。
祈りと善行。
この意志ある2つの『カルマकर्म(行い)』によって、私たちは過去にした事を、ちゃんと購える。
積まれてしまった『パーパपाप(不徳)』に対抗できる。
今回の生で、消化しなければならない結果は、運命のシナリオに刻まれてはいるのは確かだ。
しかし、
その結果がどう現れるか?
ここまでは、定められていない。結果の現れを、私たちは意志で変えることができるのだ。
たぶん、自分の『カルマकर्म(行い)』の口座には、過去の未熟な私がしてしまった『カルマकर्म(行い)』が、次の“不運”の原因として、多分たっぷりたまっているだろう。
それと逆の行い、祈りや善行という『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる行いである
『プラヤスチッタカルマप्रायश्चित्तकर्म(過去のカルマに対する償い、清算する行い)』によって上手く変えることができる。
運命を変えて、何事も自分の歩む道を妨げないように、変えることができる。
だから、諦めてはいけない。
過去を振り返って悔むことも不安に思うことも、罪悪感を感じることもない。
私たち全員に、自由に物事を決められる意志と実行できる努力をして生きる“特権”がある。
前向きに、はっきりした考えをもって、この特権を使いつくすことが、私たちの運命を変える。
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今日は大変良い天気だったので、わたくしも洗濯しました。
木にロープをはって干しているとは、
なんとなく牧歌的でございます。
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