天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り⑤ 「カルマの法則」運を作る行い
<『カルマकर्म(行い)』の法則』とは?>
“幸運・ラッキー”は、意志と努力で作り出せる。
そして、
確実にラッキーを作りだせる行い、というのも経典にしっかり規定されている。
Yogaの経典『ヨーガスートラ』に記される、5つずつの行いはみていった。
さらに、大きくこの法則を掴むために、『ヨーガスートラ』のベースにもなっている、『ヴェーダ(聖典)』をみてみよう。
『ヴェーダ(聖典)』に記される強運・ラッキーの元、『プンニャपुण्य्(徳)』を蓄積できる行い、以下2つ。
① 人・生き物を助けること、与えること。
良心・『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』に従った行い。
これらを総称して、
『プールタカルマपूर्तकर्म(人、生き物に貢献する行い)』 という。
生き物を大切にし、困った人に手を差し伸べ、優しい声をかける。
持っているものを、必要としている人に惜しみなく与え、寄付をすること。
生物として、守るべきことを果たす。
人間として、自分に課された“やるべきこと”を成し遂げる。
世界を展開させる1つのルールと秩序は、
『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』と呼ばれる。
私たちの心には“良心”として、『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』が浸透している。
“ダルマは、仏教でいうところの、「ダンマ」。
『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』に従う行いは、『プンニャपुण्य्(徳)』を生む。
“幸運”という結果を作りだす第一のファクターとなる。
ラッキーを作りだす2つ目の行いは。
② 『ヴェーダ(聖典)』に規定された儀式をする行いをすること。
これは、
『イシュターカルマइष्टकर्म(聖典の儀式をすること)』と呼ばれる。
『ヴェーダ(聖典)』の儀式『プージャ(儀式)』やマントラの斉唱には、
特別な『プンニャपुण्य्(徳)』を作りだす謎のテクノロジーが隠されている(らしい。。。)
その書かれたとおり、規定された通りに『カルマकर्म(行い)』をすることで、
幸運な出来事の原因となる“徳”が作り出せるという。
またそれは
『イーシュヴァラ(全体世界)』の象徴と直接に関わる行い(儀式や、祈祷など)であってもいいとされる。
必ずしもヒンドゥー教のご神体を拝むことだけが、儀式や祈祷ではない。
サンスクリット語のマントラを唱えることでなくてもいいという。
どんな国にも、どの地方にも伝わり、伝統とされる儀式や祈祷は、
特別な徳、『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる元となる。
この2種の行い、
“善行と祈り”
によって私たちは“運・ラッキー”を作れるのだ。
そして、“アンラッキー・不運”は、この2種と逆の行いによって、
他でもない私たち自身が作りだしている。
与えない、助けない、秩序を守らず迷惑をかける、
そんな行いの種をまけば、“不幸・不運”という実がなる。
その実は、どんなに苦くまずくても、種をまいた張本人に刈り取られなければならないし、
味わわれなければならない。
それが、世界のルールだ。
過去にした私たちの『カルマकर्म(行い)』が今をつくり、
今している私たちの『カルマकर्म(行い)』が未来をつくる。
そして、
どんな人にも『プンニャपुण्य्(徳)』と『パーパपाप(不徳)』はある。
『プンニャपुण्य्(徳)』だけを持つ人はこの世に存在しない。
たとえ聖者と呼ばれる人でさえ、そうである。
聖者だろうが、賢者だろうが、飢える苦しみもあれば、頭痛も腰痛もあるだろう。
これは、小さな『パーパपाप(不徳)』の結果を“痛み”として、消化していることになる。
『パーパपाप(不徳)』だけをもつ人、そんな人もこの世にはいない。
極悪人といわれる人ですら、『プンニャपुण्य्(徳)』があるからこそ、人間の体を持っている。
どんな人も、良心に従った行いをすれば気分がいいはずだろう。
人間は、この2つの『カルマकर्म(行い)』の要素が混ざり合っている。
さらに、いつの、どの行いが、今の結果になっているのか?
『カルマकर्म(行い)』と『カルマパラकर्मफ्लन्(行いの結果、行いの実)』についての繋がり
因果関係は私たちには見えない。
結果から行いを、辿ることはできないし、
行いから結果を想定するのも、単なる期待と予測だけで、確かなことはまるでわからないという。
なぜなら、『カルマकर्म(行い)』は1人で行っているが、世界に種を撒いている以上、他の人の『カルマकर्म(行い)』と関わり合わざるを得ないからだ。
それは、とても複雑なもので、解き明かそうとすると幾つもの人生がかかるほどだ、といわれる。
『バガヴァッドギーター』でも、こういう。
“『カルマकर्म(行い)』の性質を知ること、行いと結果の「カルマの法則」を完全に理解することは、
とても複雑である。
(だから、人生という限られた貴重な時間を、この探求へ使って、無駄にしないように。。)”
(4‐17)
ただ、確かなことは
『カルマकर्म(行い)』の法則は、行いに対して、必ずそれ相応の結果が返ってくるということ。
そして、この法則からは、だれも逃げることはできない、ということだ。
個人の体や顔の違いや、条件の違いや、それぞれの問題も、
「カルマの法則」という、絶対的に平等な法の元にある。
だから、私たちが個人個人で直面していること、自分の課題に対して逃げることもできなければ、
誰かのせいにしたり、咎めたり、怒ったりすることはできない。
世界を責める理由はない。
自ら撒いた種を刈り取ることで、他人や他の生き物を犠牲にしたり、巻き込んだりしてはいけない。
そんな事をしたら、さらなる『パーパपाप(不徳)』を積んでしまうだろう。
都合の悪いこと、ついてないことは誰にでもある。
その度に世界を恨んだりするのは、理不尽なことだ。
今起こっていることの原因は、自分の行いにあるのだ。
私たちが今ある状況や与えられた環境、体、問題の数々は、すべて自分の意志と行いが作りだした。
それしか原因はない。
それでも、過去に罪悪感を感じたり、痛みを作りだした自分の過去を呪う必要もない。
私たちは、“今、している”行いで、過去の結果の実り方を変えていくこともできる。
そして未来の種をまくことができるのだから。
『ヴェーダ(聖典)』は、この絶対的な自然界の理ともいえるルールを、うまく使うことを提唱する。
いうなれば、ルールを利用し、生きるために有利に働くように使うテクニックを教えてくれているのだ。
様々な儀式や、瞑想法、Yogaの修行法などは、
ルールを利用して、いかに幸運を手にいれるかを見せてくれている。
すでにはじまっている私たちの人生は、このルールから逃れられない。
だとしたら、
これを逆手にとって、ルールを徹底的に利用することができる。
『ヴェーダ(聖典)』の叡智を知り、利用するのは、生きる上で実践的、且つ有効だとされる。
膨大な数の人間が『ヴェーダ(聖典)』を認め、今もその知恵を生かしているのは、
何百年もの間、結果を出し続けているからだろう。
その知恵を使わない手はない。
私たちも聖典の知恵を拝借し、運をつかみ、人生を明るく変えていこう。
それには、どうすればいいのか?
それを知るためにYogaという生き方の“ガイド”がある。
自分の成長と成熟と、幸せな人生のために、
天を味方につける。
幸運をどんどん招き入れる。
Yogaの経典はいう。
私たちは毎日、毎瞬、意志を使って何かを判断し、行いをしている。
もし、幸運をもたらし、望む結果を手に入れたければ、
「カルマの法則」と、そこからもたらされる結果を視野に入れて、
常に、行いを慎重に選ぶこと。
そんな風に、行いを思慮深く、秩序と法に則するよう選ぶことを、
“『カルマकर्म(行い)』のYoga” 通称『カルマヨガ』
という。
『カルマकर्म(行い)』を使うYoga。
それによって、運命を変えていける。
その方法を見ていこう。
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年明けにひどい風邪をひいてから早半年。
また少し疲れがたまって調子が悪くなってきたので、
病院に行きました。
そしたら、なんと注射をするという。
「隊長!こっ、こころの準備ができておりません。」
と、言う間もなく治療台の上に乗せられた”まな板の上の鯉。”な、わたくし。
看護婦さん、もうあなたにすべて委ねましょう。。
で、で、でも 痛くしないでね
| 向井田みお | 固定リンク
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