天を味方につけ、運を掴み取る!Yoga的祈り⑩ ラスト * 運命のシナリオは変えられる。そして幸せとは?
<運命のシナリオは変えられる。>
一個人の想定されている、『プンニャपुण्य्(徳)』と『パーパपाप(不徳)』の組み合わせでできている、“運命のシナリオ”を私たちは変えることができる。
人の運命は、ぬり絵みたいなものだ。
大枠が決まっているし、大体の絵は決まっている。
だが、
私たちは自由に色をぬれる。
線を描き足し、最初にあった“絵”とは、違うものが書ける。
たとえば、“猫”の枠が書かれた絵を、
豹のようにも、ライオンのようにも、虎のようにもぬることができる。
猫を、いくら頑張っても“象”や“魚”に変えることは無理だ。
でも、あらかじめ決まった人生のシナリオに対して、これ位は自由に変えていけるのだ。
<Yoga的な『幸せと成功』、そして祈り>
ところで、
何をもって私たちは、“幸せ”だとか、“成功”だというのだろうか?
億万長者になったら成功なのか?
会社をつくって独立したら成功なのか?
結婚したら?
子供を4人もったら?
何不自由ない生活を手に入れたら?
就職したら?
学校に合格したら?
それらも、まちがいなく、細かい成功だろう。
でも、
本当の意味での成功は、数値やある1つの条件では決められない。
少なくとも私にとっての成功は、
“生きていて良かったと思えること”
“今生きていることにも満足し、今ある自分と環境とすべてに、何の不満もない。
求めることなく落ち着いていること。
満足と感謝で心が平和であること。“
その満足が、いつでも、自分から離れずにあるということ。
悲しみも、苦しみも入り込む余地が無いくらい、自分が満ちていること。
たとえどんな生活をしていたとしても、
何処にいても、
どんな時も、
胸をはって堂々と、心の底から
“うぅ~む、自分は実に満ち満ちている! 幸せだ”
と清々しく、なんの恥ずかしげもなく言える。
そんな心でいつもいられることが、
自分にとって成功だと思う。
経典はいう。
「すでに過去に在り、今も在り、未来にもある。
壊れたり、変わることのなく、自ら輝き、すべてに満ちる存在。
何に囚われることも、限定されることもない。
それが自分の真実であるということを知る人。
その人の心の平和と静寂は、
物質的な何かを持っていても、持っていなくても変わらない。
揺れることがない。
石をみても、金をみても、犬をみても、犬を食べる人をみても、
その人の世界に対する理解と態度は変わらない。
大きく広い心ですべてを受け止めている。」
自分の“安全や幸せ”を他人やモノに委ねることのない、確固たる理解と姿勢。
自分自身を自ら認められる確かさ。
何がきても受け止められる広さと深さ。
他人の目に映る自分しかしらず、ビクビクしたりしない。
自分自身に堂々と定まっていられる。
その人は何かを探しまわったり、取り過ぎたりすることがない。
物事に対して冷静で、客観的な態度を持っている。
何もなくても、その人はその人であるだけで、十分幸せなのだ。
しかし、同時に、
Yogaの経典は、財産や家族や、贅沢な生活など、物質的な成功を否定したりしない。
もしそれらに、自分が振り回されていないのなら。
そういうモノたちに、自分の幸せや成功の基準を頼ってないのなら。
モノや他人の奴隷になってなければ、何を持っても構わない。
モノや状況より、ずっと大事で、変わることのない“自分自身”に、幸せや成功のベースを置いているなら、物質をもつのは何も悪いことじゃない。
どこかの誰かが考えた“幸せの基準”など、自分に当てはめない。
“幸せの条件”などという、チープな条件やアイディアなんか、買わない。
自分が幸せかどうか?
成功かどうか?
そんなことは、本人にしか実は解らないのだと思う。
本人以外の人は、
その人がいかに幸せと感じているか?成功と思っているか?
その人の持っているモノや条件をみて、推測することしかできない。
でも、本当の事は本人以外には解らないはずだ。
成功や幸福かどうかは、すべて自分を中心にした、
“思い方”、
“考え方”
“物事のとらえ方”
がベースだから。
少なくとも、
自分を信用して、
必要なことは全部与えてくれている世界の秩序と法に寛いでいられるなら、
私はそれで、十分成功だと思う。
他人やモノに操られたりしない自分は、
それだけで強く、誇り高く、自由だ。
そういうことを成功だと、Yogaの経典もいっている。
自分の方がモノより、ずっと大きく、ずっと広い。
自分の本質とは、本当はどれほど大きく、どれほど重要なのかが解っている。
真実の自分を理解している人は、モノや条件で自分を評価しない。
それらに惑わされない。
だから、モノはあってもいいし、なくても構わない。
限りない自由と、何にも頼らずに在り、満ちている自分を確信している。
Yoga的な成功”は
だれもが本当に目指し、心の底から願っていることなのだろう。
それは、
“誰が何と言おうと、
何処にいても、
何をもっていても、持っていなくても、
どんな時も、
「幸せ」だ、といいきれる自分でいること。
自分のことを、自分で厳しく評価したり、蔑んだりしない。
他人や世界を同じ様に厳しくみて、嫌わない。
憎まない。
自分であることを誇り、
納得し、
完全に受け入れていること。“
これがYoga的な成功だという。
そこを目指して、私たちはYogaの道を歩く。
道の途中で、お金や宝石を拾うかもしれないし、
それらを盗まれたり、失うこともあるだろう。
知り合った旅人と、一時共に過ごし、家族となることもあるだろう。
子供を育てたり、仕事をしたり、別れたり。
新しいモノに出会い、
いろんな景色から、きっと様々なことを学ぶ。
笑ったり、泣いたり、転んだり、駈け出したり、休んだりするのだろう。
何を手に入れてもいい。
何を失っても怖くない。
それでも、この道は1つの確実な成功に続いている。
元々ここに来た時から、道を歩みだしたときから、私たちは何も持っていなかった。
そしてある日、何も持たずにここから去るだろう。
恐れなんかない。
ただひたすら、明るい方へ歩み続ける。
空を見上げ、吹く風を感じ、周りの人と関わり合いながら、
歩き続ける道。
必要なことは、今までそうだったように、すべて与えられる。
必要ないことは、いつも自分から自然に去っていく。
これからもそうだ。
それでも、
向かい風に煽られそうなとき、
ここ一番!追い風を吹かせたい時、
私たちは“祈ること”
“人や生物を助けること、優しくあること”
そういう『カルマकर्म(行い)』をして、幸運を作ることができる。
天を味方につけて、運を手に入れることができる。
運命は変えられる。
嘆くことはない。
Yogaの道が導く自由の扉を開くキーは、私たちの毎日の行いの中にある。
物事に対する態度の中にある。
幸運と、成功の重要なファクターは私たちが握っている。
それを使うか使わないか、その意志も私たちの中にある。
このことを理解することができる。
それだけでも、相当な『プンニャपुण्य्(徳)』だといわれる。
理解の上に、意志を適切に使えるようになるためにも、“祈り”はある。
淡々と自分に課せられたことをやる。
困っている人がいたら、助ける。
『プンニャपुण्य्(徳)』をつくるような、社会貢献をする。
心から尊敬できるものに、素直に手を合わせる心と謙虚な姿勢がある。
祈ることができる。
結果なんか、気にしない。
自然の理、世界を展開させている秩序と法にダイナミックに関わりながら、
諦めず、
投げやりにならず、
意志をもって、力いっぱい生きればいい。
それが結果、幸運をつくることになっているのだから。
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これが、『アシュラム(Yoga寺)』のレセプション。
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