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2011年6月15日 (水)

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り①*幸運はつくるもの

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り①

<幸運は自分でつくる!>


運がいい人、悪い人。
ラッキーが続く人、なぜか不幸ばかり続く人。


自分の毎日をみても、妙にツイテル日、逆に何をやってもだめだな、という日がある。

この違いはなんだろう?

スピリチュアル系の本によく書かれているように、もしこの世界が1つで、平等だったら、
この個人の中の運・不運の差はあまりに歴然として、不公平だ。


なんでこんなに違うのか?


自分をみても、人をみても、
自分の中だけ見ても、
私たちの成功や幸せは“運”というよくわからないファクターに、
どうも左右されているように見える。


これに関して、私たちはだまっているしかないのだろうか?


運のいい時は、有頂天になって、
運の悪い日は、ジミジミと落ち込む。。


ツキのある他人をみて、自分と比較しうらやましいと思ったり、
ツキのない自分を憎んでみたり。

そんなことでいいのか??

いやいやいや・・・


こんな事からは、是非ぬけだしたい。
もし、ぬけだせるものなら。
その方法があるのなら。


世界の不公平と理不尽に振り回されているばかりじゃ、
どうも心が晴れやかにならない。

そして、
できれば、いつも運がいい奴になりたいと思う。

面舵いっぱい、いつも追い風を受けるような幸運に恵まれて、
やりたいことを思いっきりやり遂げたい。
望んだことを達成したい。


少なくとも、
“不運”といわれる、苦しいことや受け入れ難いことが起こっても、
恨みごとをいったり、他人やモノに八つ当たりしたり、
自分を責たり、
そんなことはやめにしたいものだ。

何かが自分に起こっている。

その理由を知り、なぜそうなっているのか?
原因と結果のカラクリがわかったら、少しは納得できるはずだ、と思っていた。

不運や不幸は、どうして私にだけ起こるのか??

この、なぜ?
がわかったら、きっと物事をもう少し客観的に受け止められるだろう。


そんな風に、自分を取り巻く“幸・不幸”の理由を探していたところに、
Yogaの経典の教えが、先生と一緒に、私の元にやってきた。

そこには、長い間思っていたこの謎に対する答えがあった。

Yoga経典では、“ラッキー&アンラッキー”は、他でもない自分が作り出しているのだという。


“運・不運”を決定するファクターは、
過去に自分のしたこと、もしくは、今まさに“している”『行い』にあるのだという。


Yogaの考えのベースにもなっている、『ヴェーダ(聖典)』はいう。


“この世界・自然界には、完全に平等な「理・掟・法」といえる、
1つのルール敷かれている。

すべての生き物は、この公式ルールに則って生きている。


そのルールを『ダルマधर्म(秩序、法)』という。“

自然界を動かし、秩序を維持する法則は、“私たちの行い”という視点から見れば、

『カルマकर्म(行い)』の法則

とも呼ばれている。

“法則”は、1つだが、見る人の視点によって解釈が違ってくる。


私たちは今回、
“運・不運の理由とはなにか?
をみながら、
どうしたら、天を味方につけ、運をつかめるのか?”

これを理解するために、
“行いと結果”
という視点からこのルールをみてみよう。


<『カルマकर्म(行い)』の法則とは? イントロ>

『カルマकर्म(行い)』の法則は、
いいかえれば、
『行いと結果の法則』。


これが、世界の生物のいわゆる“宿命と運命”を決めている。


法則は、公式ルールである以上、全生物に共通で、平等。
例外はない。

誰に言われなくても、私たちは皆心のどこか、深いレベルでこのルールを知っている。
だから、良くないこと、人の道にはずれそうな事をしたら、心がざわつく。
落ち着いていられない。

反対に人の役に立つような、助ける行いをしたら、嬉しいような、満たされたような気持ちになる。

私たちは、この法則を“なんとなく”知っている。
しかし、はっきりとはわからない。

『ヴェーダ(聖典)』は、私たちの根幹にしっかりと流れているこの1つのルール『カルマの法則』について、
人々に教える。

そして、Yogaはこの法則を徹底的に利用する。

“自分の成熟と、高い人間性と、究極の生きる目的成就の為に、
どうやってルールに則って生き、法を有利に働かせられるか?“

“自然界のルールを知り、仕組みをいかし、
人間的成熟と成長と、生きる最終的な目的達成がスムーズにできるように
いかに「運」をつくることができるか?”

この重要性をYogaはいう。


『ヨーガスートラ』のベースにも、この意図が含まれている。

“どうやったら人間として生まれた事を活用できるのか?
自分が求めることを達成していけるか?“

「Yogaの道を歩む」ということは、この思いとルールの理解が基盤となっている。

経典は世界を動かしているルールの中で、人の思いや願いを具現化するための効率的な方法を、
多くのヨーギーたちに教え、導いているのだ。

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今日はお寺で特別の『プージャ(儀式)』をしました。

儀式を仕切ってくれた
司祭さんと、スワミニ(女性の出家者)たちと、記念撮影。


朝4時から、準備や『ヴェーダ(聖典)』の斉唱をしてくれて、
大変よい儀式となりました。

もちろん、ご利益はいうまでもなく、確実です!

捧げた供物の御下がりをいただき、すっきりした心持でございます。

皆さまもここ一番何かキメたいとき、ぜひ『プージャ(儀式)』を。

思っている以上の効果が、あります。ホント。


| 向井田みお |

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り②*Yogaの目的



<Yogaの目的とは?>

経典の意図を含めて「Yogaの目的」をいうとすれば、次の3つになる。

第一番の目的は、

“自分と向き合うことで、本当に求めていることを知ること。”


人生において探求すべきことを、サンスクリット語では、
『プルシャアルタपुरुषार्थ(人が本当に求めるべきこと、生き方の優先順位)』という。


Yogaでは、まず
揺らがない『プルシャアルタपुरुषार्थ(人が本当に求めるべきこと、生き方の優先順位)』を持つことが
Yogaを極める上で非常に大事な基盤だ、と強調する。


そのためには、自分と向き合って、心の深層を掘り下げていかなければならない。


まずは、『アーサナआसन(姿勢、Yogaのポーズ)』で肉体と向き合い、

『プラーナーヤーマप्राणायाम(呼吸法)』で呼吸、生理機能全般の動きを見ていく。

自分というものを、客観的にとらえられるように、順をおって練習をつむ。

体の準備ができたところで、集中・瞑想を通して、自分の内面をみる。

そして、自分の心の深層にある、“真に求めているもの”を汲み上げ、
“生きる目的”を確固たるものにする。


これらの目的達成のためのメソッドは、Yoga経典『ヨーガスートラ』の中で、
提示されている。


Yogaの2番目の目的は、
“求めていること
『プルシャアルタपुरुषार्थ(人が本当に求めるべきこと、生き方の優先順位)』がはっきり定まったら、
それを手に入れるための方法を知り、実行すること。”

その方法もYogaの経典に書かれている。

自分が今、していること。
自分が本当に求めていること。

この間にきちんとした繋がりがあるのか?
よく分析し、見ること。

もし繋がりがないようなら、より深く考えること。
もし違うのなら、軌道修正をすること。

目的と方法がはっきりしていれば、生きる道において迷うことはない。


そうYogaの経典はいう。

そして最終的には、

“この世界を動かすルールを知って生きながら、ルールに囚われずに生きること。

完全な自由を達成すること”

Yogaの終着点は、“自由になること”である。


問題や
苦悩、悲しみや葛藤。

私たちが、望んでいないことからの自由。

あらゆる束縛からの自由を目指す。


正確に経典のヴィジョンをいえば、

“すでに私たちの真実は自由。何の束縛もない。だから何の問題もない。”

という。

しかし、現に今、私には沢山の問題があるようにみえて、苦しんでいる。

そうだとしたら、その“私”とは何なのか?

それは、本当に“自分”なのか?
経典のいう“自分”と、今自分が“自分だ”と考えている自分は違うのか?

“では、自分とは?己とは何なのだ?”

今まで自分と思っていた存在は、何か思い違いや間違いがあったのか?


そこまで分析を深める。

自分の“在り方”を理解し、納得し、受け入れられるまで、“本当”を見極める。

見極めた本当の自分とは、今まで思いもつかなかった程、大きく広く、限りがない。
経典ははっきりという。


“あなたこそが、幸せと満ちていること、全体であるという「意味」である。”

壮大なヴィジョンから“自分”を意識する。
その大きな視点から“世界”をみる。

すると、小さな自分にしがみついていた、“問題や苦しみや悲しみ”が力を失う。
自分の真実を知った者を、外の物は脅かすことができなくなる。

ただ、ありのままを、知る。

真実を知ても、自分の体や世界は、そのままの姿で、自然の流れの中で営みを続ける。
だから、一見何も変わっていないように見える。

しかし、
“自分”を真実のヴィジョンで把握している人には、問題が問題でなくなる。
その人を掴んで、捕えていた苦悩が、無力になってしまう。

その人は、ただ自分自身で在る、
それだけで、幸せで満ちているのだ。


経典のいう苦悩からの“自由”。
それが、Yogaをして求めることである。

“自分を捕える事は何もない。
すでに、自分は自由である、と知ること。”


だからYogaでいう“自由”の意味とは、
物理の法則やエネルギーの法則から自由になって、宙に浮いたり、水の上をあるいたりすることではない。

超能力を身につける事は、本来のYogaの目的とは全く関係ないのである。


そこまで見極めるために、私たちは“自分”と“世界”について考えを深める必要がある。

私たちを縛るルールや勘違いからの“自由”を目指すには、まずその原因を知らなければならない。


高い実践力をもつヨーギーこそ、この世界、自然界に流れる秩序とルールを知っている。
そして、世界を動かしているルールと共に在りながら、うまく利用する方法を知っている。

天を味方につけ、“自由”という目的を達成する方法を、ヨーギーは身につけている。

方法を熟知して、生きる目的のために、法則を最大限活用する。

自分が本当に望むことを、間違いなく達成しているのだ。


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お寺での『プージャ(儀式)』の後には、捧げた供物の御下がりをいただきます。

これが、『プラサーダ(供物)』

供物は自分で食べる必要もあるのですが、

儀式の参加者にも一部配ります。

それがさらなる『プンニャपुण्य्(徳)』を積むというのです。

さっそく、わたくしも供物をお配りしに参ります。

| 向井田みお |

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り③*「カルマの法則1」


<『カルマकर्म(行い)』の法則  1>


Yogaの教えのベースになっているインドの聖典は、『ヴェーダ(聖典)』という。
そこには、自然の摂理とも“理(ことわり)”ともいえる、
自然界・世界を維持し、動かし、展開させている秩序と法について記されている。


『ヴェーダ(聖典)』の中で、“世界”という一言は、小さな虫から、
地球から何万光年もはなれた巨大な恒星、惑星、銀河を含めたすべてを含む。


もちろん、私たち1人1人もこの世界の内にある。
自然の理は、肉体・生理機能・感情・思考、私たちのすべてのレベルに浸透している。


『ヴェーダ(聖典)』が“世界”という時、
それは、『イーシュヴァラ(全体世界)』という言葉でも表されている。

時に、『イーシュヴァラ(全体世界)』は“神”とも訳されることがあるが、
聖典でいう“神”は、長い髭をはやした“隣のおじさん”ではない。
何かの形をもって、天界に住まう“一個人”ではない。


この世界全体のことを、『イーシュヴァラईश्वर(全体世界)』という言葉で言い表わすのだ。


『ヴェーダ(聖典)』のヴィジョンからみると、
『イーシュヴァラ(全体世界)』という言葉は、
あらゆる個人、生物も含めた、この自然界、世界全体を指し示している。


さらに、『イーシュヴァラ(全体世界)』という言葉には、生きているもの、生きていないものも含まれている。

私たちの肉体も、『イーシュヴァラ(全体世界)』に含まれている以上、
この中の1つのルールに則って動き、変化する。


肉体は、自然の秩序と法のもとに、生まれ、成長し、変化し、退化し、やがて時が来ればまた自然界に戻る。
それも法則だ。

体だけではない。
体を動かす力、呼吸や消化、血液の巡り、排泄も、この法の元に営まれ、
目には見えない考える機能、心、知性、感情も、この自然の法に則っている。


“生理学””医学“”心理学“などは、この”1つの法則“を知り、利用している。
だから生物全般におこる
“法則からの逸脱=病の症状”
に対して、共通に適用できる治療法が成り立っている。

この世界のルールは、どこかに記述された法ではない。


生きた法として、留まることなく、ダイナミックにまさに今も、躍動している。
“ビッグバン”として、世界を現したときから、今この瞬間まで、一時も休まず、世界を動かし、
秩序を守り続けている。


生物を生かし、星を生み、惑星を廻し、風をめぐらせ、時を推し進める。


そして、法の中に生きる私たちは、毎瞬、法に影響され、法に影響を与えている。

数ある生物の中でも、私たち人間は、“行い”を通して、世界全体とコミュニケーションをとっている。

意志をもって“行い”を決める時、私たちはこの世界にただ生かされている、
というよりも、
この世界に“参加している”のだ。


世界に肉体をもって、考えをもって、私たちは法則と世界の営みに“参加している。”

法は生きている。

世界は巡り、動き続けている。

だから、もし、
法に対して私たちが何かをしたら、必ずそれと相応の影響が法則からやってくる。
そんな風に、私たちは世界と繋がり、相互にコミュニケーションをとっているのだ。


世界を秩序の元に維持するこの1つのルールを、
私たちの『カルマकर्म(行い)』 の視点から見た法則を

『カルマकर्म(行い)』の法則

というが、それは

何らかの行いをしたら、それと相応の結果が、行いをした者にもたらされる。

と解釈できる。

法則は、どの人、どんな生物にも共通する。
全体世界を動かし、巡らすルールである以上、誰も避けることができない。

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『ヴェーダ(聖典)』に基づいて生きている人達『ヴァイディカ(聖典に沿って生きる人)』が村からやってきてくれました。

いろんな意味で、だいぶ気合いのはいったイデタチです。

強面ですが、きっと生物に優しい方々なんでしょうな。

なんといっても、
『ヴェーダ(聖典)』をしっかり守る人達、『ブランマナ』ですからね。

横で、ダヤナンダスワミジも耳をすまして聞いておられました。


| 向井田みお |

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り④ *カルマとは?

【『カルマकर्म(行い)』とは?】


私たちは生きている以上、“行い”をする。

この行いのことを、サンスクリット語では、『カルマकर्म(行い)』という。

経典は、

意志を伴った行い=『カルマकर्म(行い)』

と定義する。

これをしよう!
あれをしよう。
あの件については、やめておこう。。

やるか、やらないか、やるとしたらどうするのか?

こんな風に、意志の元に、自由に選択して決めている“行い”を『カルマकर्म(行い)』という。


しかし、生物には、呼吸や新陳代謝、心臓の鼓動など、意志を伴わない活動があるが、
それは“行い”とはいわないのか?

それに関しては、『カルマकर्म(行い)』ではなく、
『クリヤーक्रिया(動き)』であるという。


・意志を伴わない“動き”=『クリヤーक्रिया(動き)』
・意志によってする“行い”=『カルマकर्म(行い)』

“動き”は100%、自然界の法則に則って、流れるままに動いている。

だから、秩序や法則への逸脱がない。

100%『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』の行い。

例えば、
心臓が自らの意志で暴動をおこす、ことなどはない。
胃袋や消化機能が、今日から“ベジタリアンになってやる!”、と決意することもない。
体中の脂肪細胞たちが、“明日から貯めない体になろう!”、と決断することも、
まず絶対にない。。


動物も同じように、自然界の生物。
100%自然の法則とプログラムに基づいて動いている。
だから動物には“罪”がない。


しかし、人間は違う。

自由に決断できる意志を備えている。
法を逸脱し、“罪”をつくることもある。


『カルマकर्म(行い)』とは、意志のある者だけが、自由に決められる行いである。

人間には、『カルマकर्म(行い)』ができる特権がある。

そして、“行い”には、必ずそれ相応の、1つ1つ異なった“結果”が伴う。


自由意志で決めている以上、自然の法則に忠実であることと、そうでないことがあるが、
結果も同じように、相応に変化して、行い手に戻ってくる。


『カルマकर्म(行い)』が生みだす結果のことを、
『カルマパランकर्मफ्लन्(行いの結果、行いの実)』という。

“パラン”とは、果実、もしくは実りを意味する。

果実は必ず、
種=原因からもたらされる。

『カルマकर्म(行い)』も同じ。
行いの種をまけば、必ず結果という実を結ぶ。


果実は、絶えず変化し、消化され、脆く、形を失くすものである。
行いの結果も同じだ。
変化し、消費され、失われる。
だから“結果”は、“果実”だ、といわれている。

何かしよう!
そう決めて行いをするこということは、
『カルマकर्म(行い)』という種を、この世界に撒いている、ということだ。


その種からは、必ずいろいろな影響が現れる。


撒かれた種は様々な影響を世界に与え、同時に影響を受けながら、
やがて種を撒いた本人に“結果”という実りをもたらす。


“不作、実りがない”というように見える結果でも、それはそういう“実り”なのだ。


この世界という土壌は、
自分の期待とは違って、甘い実が実らなかったりもする。

撒いた種から現れるはず、と思った結果が手に入らない、それもよくあることだ。
まるで失敗、枯れてしまったようにみえることもある。

しかし、予想されることが手に入らない、期待通りにならない、
そういったこともすべて、“自分が生んだ行いの結果”でしかない。


思い通りの実が実ることもある。
予想に反した果実が実ることもある。
どちらにしても、必ず結果が現れる。


“結果”は、純粋にその人がした行いの質による。


“行いの質”の違いが、結果を変える。
運・不運の明暗を分けている。


成功、幸運、祝福といわれるような結果をもたらす行い、というものがある。
そして、
失敗、不運、といわれる結果をもたらす行い、というものもある。


私たちが今体験していること、直面していることは、間違いなく
過去にしてきた『カルマकर्म(行い)』の質による結果でしかない。


Yogaでは、できるだけ幸運を生みだす行いの種を撒き、不運を招く行いを避けるように、
生き方をより繊細に、注意深くすることを強調する。


“運を自らの意志でつくりだす”


これを毎日の生き方の中で心に留め、実践するように示唆しているのだ。

キーは、世界を維持する法則に沿った行いを常に心がけること。

Yogaでは、私たちが『カルマकर्म(行い)』を通じて
天=『イーシュヴァラ(全体世界)』の法則を、味方につけることを勧め、私たちを導く。


思い通りになるような結果、自分にとって都合のいい結果、
望んでいること、幸運といわれていることは、
徳の高い、良い行いをした結果である。


この種の結果をもたらす『カルマकर्म(行い)』を
『プンニャपुण्य्(徳)』
という。

反対に、都合の良くないこと、不運、痛み苦しみを伴いながら結果を現す『カルマकर्म(行い)』の結果のことを
『パーパपाप(不徳)』
という。

Yogaでは、『パーパपाप(不徳)』を生む行いは避けるように、それが身の為ですよ~、
と私たちに教えているのだ。

では、経典『ヨーガスートラ』の中の例をみてみよう。


***   Yogaの経典『ヨーガスートラ』に記される
   幸運『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる行い  *****************

『ニヤマनियम(するべきこと)』

① 『シャウチャशौच(身辺・環境を清潔にして、心も穏やかにしていること)』

② 『サントーシャसन्तोष(満足、を知ること。ガツガツしないこと)』

③ 『タパス तपस्(規律ある生活をすること)』

④ 『ソヴァディヤーヤ स्वाधाय(自分に向き合い、学ぶべきことを学ぶこと)』

⑤ 『イーシュヴァラ・プラニダーナइश्वरप्रणिधाना(自然のルールを知り、敬意を示すこと)』


これら5つの行いは、すべて良い結果を生む行いとされている。


その逆の行いもある。
『ヤマयम(避けるべき行い)』として説明される5つの避けるべき行いは
私たちが自ら不運の境地に陥らないように、日々の生き方、心がけを提示してくれるのだ。


***  Yogaの経典『パーパपाप(不徳)』を生む行いと結果避け、身を守ること ***
『ヤマयम(不運、不幸の原因『パーパपाप(不徳)』を避ける行い)』

① 『アヒンサ अहिंस(生物・植物・他人を傷つけない、迷惑をかけない)』

② 『サッティヤ सत्य(嘘をつかない、自分にも他人にも正直であること)』

③ 『アステヤ अस्तेय(他人・他の生物や植物から盗まない)』

④ 『ブラフマチャルヤ ब्रह्मचर्य (規律ある生活をする、学ぶべきことを学ぶ)』

⑤ 『アパリグラハअपरिग्रह(“自分の所有物”にこだわることや、貪欲な欲望に流されないこと)』


*『プンニャपुण्य्(徳)』と『パーパपाप(不徳)』

これが私たちの成功・幸運と失敗・不運の明暗を分けるファクターだ。


今現れている結果は、100%自分が過去にした行いが原因である。
そして、今私たちがしている行いは、私たちの未来をつくっている。

私たちは、毎日自分で未来の幸運と不運をつくりだしている!

ということになる。

100%自分の意志と努力によって。


Yogaの経典に基づくと、
“幸運・ラッキー”は、意志と努力によって作りだすもの、である。

「ラッキー!」は偶然のようにみえるが、純粋に、意志と努力の結果。
逆に、それ以外の要素はないと、経典はいうのだ。


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『ヴェーダ(聖典)』の中でも、最も難しいとされる「サーマヴェーダ」を斉唱するおじさんたち。

すごい迫力です。

内容は、

「苦しみの河を渡り、悲しみの海を越えよ。

その橋は、”与える”ことである。

人に”与えて”大きくなれ。

”与える”で、この橋を渡れるのだ”

というような意味。


わたくしも、惜しみなく”与えられるよう”
頑張ります。

| 向井田みお |

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り⑤ 「カルマの法則」運を作る行い

<『カルマकर्म(行い)』の法則』とは?>

“幸運・ラッキー”は、意志と努力で作り出せる。


そして、
確実にラッキーを作りだせる行い、というのも経典にしっかり規定されている。


Yogaの経典『ヨーガスートラ』に記される、5つずつの行いはみていった。

さらに、大きくこの法則を掴むために、『ヨーガスートラ』のベースにもなっている、『ヴェーダ(聖典)』をみてみよう。


『ヴェーダ(聖典)』に記される強運・ラッキーの元、『プンニャपुण्य्(徳)』を蓄積できる行い、以下2つ。


① 人・生き物を助けること、与えること。
良心・『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』に従った行い。

これらを総称して、
『プールタカルマपूर्तकर्म(人、生き物に貢献する行い)』 という。

 
生き物を大切にし、困った人に手を差し伸べ、優しい声をかける。

持っているものを、必要としている人に惜しみなく与え、寄付をすること。

生物として、守るべきことを果たす。

人間として、自分に課された“やるべきこと”を成し遂げる。

世界を展開させる1つのルールと秩序は、
『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』と呼ばれる。


私たちの心には“良心”として、『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』が浸透している。

“ダルマは、仏教でいうところの、「ダンマ」。

『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』に従う行いは、『プンニャपुण्य्(徳)』を生む。
“幸運”という結果を作りだす第一のファクターとなる。

ラッキーを作りだす2つ目の行いは。
② 『ヴェーダ(聖典)』に規定された儀式をする行いをすること。

これは、
『イシュターカルマइष्टकर्म(聖典の儀式をすること)』と呼ばれる。


『ヴェーダ(聖典)』の儀式『プージャ(儀式)』やマントラの斉唱には、
特別な『プンニャपुण्य्(徳)』を作りだす謎のテクノロジーが隠されている(らしい。。。)


その書かれたとおり、規定された通りに『カルマकर्म(行い)』をすることで、
幸運な出来事の原因となる“徳”が作り出せるという。


またそれは
『イーシュヴァラ(全体世界)』の象徴と直接に関わる行い(儀式や、祈祷など)であってもいいとされる。


必ずしもヒンドゥー教のご神体を拝むことだけが、儀式や祈祷ではない。
サンスクリット語のマントラを唱えることでなくてもいいという。

どんな国にも、どの地方にも伝わり、伝統とされる儀式や祈祷は、
特別な徳、『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる元となる。


この2種の行い、
“善行と祈り”
によって私たちは“運・ラッキー”を作れるのだ。

そして、“アンラッキー・不運”は、この2種と逆の行いによって、
他でもない私たち自身が作りだしている。


与えない、助けない、秩序を守らず迷惑をかける、

そんな行いの種をまけば、“不幸・不運”という実がなる。
その実は、どんなに苦くまずくても、種をまいた張本人に刈り取られなければならないし、
味わわれなければならない。

それが、世界のルールだ。


過去にした私たちの『カルマकर्म(行い)』が今をつくり、
今している私たちの『カルマकर्म(行い)』が未来をつくる。

そして、
どんな人にも『プンニャपुण्य्(徳)』と『パーパपाप(不徳)』はある。


『プンニャपुण्य्(徳)』だけを持つ人はこの世に存在しない。


たとえ聖者と呼ばれる人でさえ、そうである。
聖者だろうが、賢者だろうが、飢える苦しみもあれば、頭痛も腰痛もあるだろう。
これは、小さな『パーパपाप(不徳)』の結果を“痛み”として、消化していることになる。

『パーパपाप(不徳)』だけをもつ人、そんな人もこの世にはいない。

極悪人といわれる人ですら、『プンニャपुण्य्(徳)』があるからこそ、人間の体を持っている。
どんな人も、良心に従った行いをすれば気分がいいはずだろう。

人間は、この2つの『カルマकर्म(行い)』の要素が混ざり合っている。

さらに、いつの、どの行いが、今の結果になっているのか?

『カルマकर्म(行い)』と『カルマパラकर्मफ्लन्(行いの結果、行いの実)』についての繋がり
因果関係は私たちには見えない。


結果から行いを、辿ることはできないし、
行いから結果を想定するのも、単なる期待と予測だけで、確かなことはまるでわからないという。

なぜなら、『カルマकर्म(行い)』は1人で行っているが、世界に種を撒いている以上、他の人の『カルマकर्म(行い)』と関わり合わざるを得ないからだ。


それは、とても複雑なもので、解き明かそうとすると幾つもの人生がかかるほどだ、といわれる。


『バガヴァッドギーター』でも、こういう。

“『カルマकर्म(行い)』の性質を知ること、行いと結果の「カルマの法則」を完全に理解することは、
とても複雑である。
(だから、人生という限られた貴重な時間を、この探求へ使って、無駄にしないように。。)”
(4‐17)


ただ、確かなことは
『カルマकर्म(行い)』の法則は、行いに対して、必ずそれ相応の結果が返ってくるということ。

そして、この法則からは、だれも逃げることはできない、ということだ。


個人の体や顔の違いや、条件の違いや、それぞれの問題も、
「カルマの法則」という、絶対的に平等な法の元にある。


だから、私たちが個人個人で直面していること、自分の課題に対して逃げることもできなければ、
誰かのせいにしたり、咎めたり、怒ったりすることはできない。

世界を責める理由はない。


自ら撒いた種を刈り取ることで、他人や他の生き物を犠牲にしたり、巻き込んだりしてはいけない。
そんな事をしたら、さらなる『パーパपाप(不徳)』を積んでしまうだろう。

都合の悪いこと、ついてないことは誰にでもある。
その度に世界を恨んだりするのは、理不尽なことだ。

今起こっていることの原因は、自分の行いにあるのだ。


私たちが今ある状況や与えられた環境、体、問題の数々は、すべて自分の意志と行いが作りだした。

それしか原因はない。


それでも、過去に罪悪感を感じたり、痛みを作りだした自分の過去を呪う必要もない。


私たちは、“今、している”行いで、過去の結果の実り方を変えていくこともできる。
そして未来の種をまくことができるのだから。


『ヴェーダ(聖典)』は、この絶対的な自然界の理ともいえるルールを、うまく使うことを提唱する。
いうなれば、ルールを利用し、生きるために有利に働くように使うテクニックを教えてくれているのだ。


様々な儀式や、瞑想法、Yogaの修行法などは、
ルールを利用して、いかに幸運を手にいれるかを見せてくれている。

すでにはじまっている私たちの人生は、このルールから逃れられない。

だとしたら、
これを逆手にとって、ルールを徹底的に利用することができる。

『ヴェーダ(聖典)』の叡智を知り、利用するのは、生きる上で実践的、且つ有効だとされる。
膨大な数の人間が『ヴェーダ(聖典)』を認め、今もその知恵を生かしているのは、
何百年もの間、結果を出し続けているからだろう。


その知恵を使わない手はない。

私たちも聖典の知恵を拝借し、運をつかみ、人生を明るく変えていこう。

それには、どうすればいいのか?


それを知るためにYogaという生き方の“ガイド”がある。


自分の成長と成熟と、幸せな人生のために、

天を味方につける。

幸運をどんどん招き入れる。


Yogaの経典はいう。


私たちは毎日、毎瞬、意志を使って何かを判断し、行いをしている。
もし、幸運をもたらし、望む結果を手に入れたければ、
「カルマの法則」と、そこからもたらされる結果を視野に入れて、
常に、行いを慎重に選ぶこと。

そんな風に、行いを思慮深く、秩序と法に則するよう選ぶことを、

“『カルマकर्म(行い)』のYoga” 通称『カルマヨガ』

という。

『カルマकर्म(行い)』を使うYoga。
それによって、運命を変えていける。

その方法を見ていこう。

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年明けにひどい風邪をひいてから早半年。

また少し疲れがたまって調子が悪くなってきたので、
病院に行きました。

そしたら、なんと注射をするという。

「隊長!こっ、こころの準備ができておりません。」


と、言う間もなく治療台の上に乗せられた”まな板の上の鯉。”な、わたくし。

看護婦さん、もうあなたにすべて委ねましょう。。


で、で、でも 痛くしないでね


| 向井田みお |

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り⑥ *「カルマヨガ」とは?


<生き方をYogaにする『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』とは?>

Yoga界ではすっかり有名な『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』

その本来の意味は、

自分の好き勝手に、やりたい放題行いをするのではなく、

結果を考慮して、慎み深く、注意深く行いを選択すること。

を意味する。


そして、『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』とは、“無償奉仕やボランティア活動”のことではないことも事実。

『バガヴァッドギーター』2章でも、『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』については、はっきり規定している。


【『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』 *行いをする“態度”を変える】


योग: कर्मशु कौशलम्

Yogaとは、行いを慎重に、思慮深くすること、『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』に一致させることである。
(2-50)


自分の行いに慎重になること。


心・考えでする行い
言葉での行い、
体を使う行い。


この3つのレベルでする『カルマकर्म(行い)』を、いつも結果を視野にいれて慎重に選ぶ。

具体的には、良心に従った行いをする。

自分に課されたことを、逃げずに行う。

人を助け、誰かの為になり、秩序を維持することへ貢献できる行いをする。
生物を大切にする。困っている人をみたら、助ける。
必要な人には、惜しみなく与える。

全体世界に貢献する思いと態度から、為される“行い”をすること。


そして、生物を傷つけたり、暴力的な言動を意志の力で、どんなことをしても避けること。

人生は些細なこと、小さな決断と行いの連続。
だから、毎日の1つ1つの行いを『ダルマधर्म(秩序、守るべきこと)』に沿うようにすることがとても大事なのだ。

これが『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』の正確な意味。

しかし、やっぱりカルマの法則は複雑で、過去の積み上げたカルマが“結果”へ影響してくる。
たとえ自分が行いを慎重にしても、他人との関わり合いの中から“結果”は生み出されるから、
自分の望みが必ずしも叶うとは限らない。

結果が期待通りになるかならないか、
それはまた別の話。

だから『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』に関しては、もう1つ重要な定義がある。

それは、結果の受け止め方について。



【『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』* 結果を納得して、受け止めること】
समत्वन् योग उच्यते


何が行いの結果としてもたらされても、それは全体世界の法と秩序の元に
自分に贈られてきたものとして受け止めること。
(2-48)


これが『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』のもう一つの側面。


『カルマकर्म(行い)』は、必ず全体世界、『イーシュヴァラ(全体世界)』の法を通って、どんな人にも、行いに対する相応の結果が、平等にもたらされる。

それは、世界から贈られたものだ。


撒かれた種は、世界という土壌が育み、実を熟させる。
それが撒いた人にもたらされる。


“行い”は私の意志の元にある。
どうやって、どういう態度で行うか?


しかし、“結果”はすでに、私の意志を離れている。
世界の法と秩序が決めている。


それに関して私ができることはない。


結果に対して唯一私たちができることは、理解を持って受け止めること。
拒絶したり、逃げたり、逆らったり、
結果が気に入らないからといって、過度なリアクションをとらないこと。


新たな不運を生みだす原因をつくらないこと。
次の“不運”の材料となる、『パーパपाप(不徳)』を慎むこと。

気分よく物事を受け止め、次のに役立てることを私たちは選べる。
ここに、Yogaの力が働くのである。

結果の背景には、必ず自分の行いがあり、それが世界を巡って自分の元に帰ってきている。
その理解がYoga的で注意深く、繊細な行いと、規律に基づいた生き方の核となる。

全体の法を理解するからこそ、心を揺らさず、乱すことなく客観的に物事を受け止められる。

逃げることなく、拒むことなく・・

それが『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』

“Yogaを生き方”にしているということ、

“Yogaに生きている”

ということである。


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ピャ~

おしりに注射さてちゃってますよ、わたくし。

しかも結構痛いじゃないですかっ!


痛くないっていったのにっ!
ひどい。

顔は笑ってますが、涙目です。。


しかし、
これでまた、わたくしの『パーパपाप(不徳)』が解消されたわけですね。

ありがとう、ありがとう。


| 向井田みお |

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り⑦ *3つのカルマ

<『カルマの法則』 運命は変えられる!   3つのカルマについて>

自分がした行いの結果として、実った果実を収穫し、味わうのは、他でもない行いをした張本人、自分だけだ。


だから、私たちにはそれぞれ別の課題があり、やらなければならないことがある。
顔や体が違うように、やってきた行いが違うからだ。


経典に言わせると、

私たちは皆、この体を手に入れるまで膨大な生き物として生を全うしている。
そして数えきれない死を迎えてきた。


時には人間として、時には空を飛ぶものとして、海に生きるものとして、地を這うモノとして生まれた。


地球に限らず、他の惑星の生命体として、時に物質より微かな世界の天界に生きるものとして、様々な体を手にして、相応の営みをし、行いをしてきたという。
その時々にしてきた行いは、個人の名の元に積み上げられている。


まるで銀行預金のように、“個人”のあるところ、“私”としている所に、今までの行いのすべてが、結果をもたらす前の状態で積まれているという。


行い手に刈り取られる前の状態で、過去にした『カルマकर्म(行い)』の蓄積を


『サンチタカルマसञ्चितकर्म (過去にした行いの蓄積)』

という。


その量は膨大であり、尽きることがないといわれる。


スピリチュアル界で有名な、あの“アカシック・レコード”とはこの『サンチタカルマसञ्चितकर्म (過去にした行いの蓄積)』のことだ。

ちなみに、“アカシック”は、
サンスクリット語の空間を現す『アーカーシャआकाश(空、スぺース)』を英語風の形容詞にするため
接尾語“シック”をつけられた造語と思われる。

私たちの過去にしたすべての『カルマकर्म(行い)』は、この空間に“個人”としている者の名義ですべて記録され、積み上げられ、保存されている。


そして貯金のような、『サンチタカルマसञ्चितकर्म (過去にした行いの蓄積)』から、
ある一部、刈り取られんばかりに熟れ、旬を迎えた『プンニャपुण्य्(徳)』と『パーパपाप(不徳)』の組み合わせが、
今の私たちの体や状況として実っている。


まさに今、私たちは、一瞬一瞬、実った果実を、過去に積んだ行い結果として刈り取っている。


現在私たちがこの人生で、刈り取っている『カルマकर्म(行い)』の結果を


『プラーラブダ・カルマप्रारब्धकर्म(現在消化中の結果、今生で刈り取られる行いの結果)』

という。

この『プラーラブダ・カルマप्रारब्धकर्म(今生で消化される行いの結果)』によって、
私たちは現在、体を持って、様々な状況や経験を味わっている。

摘み取られ、消化されるために、『カルマकर्म(行い)』の結果が、さまざまな形をとって私たちの前に現れている。


痛みや苦しみは、『パーパपाप(不徳)』を消化していること。
喜びやラッキーは、『プンニャपुण्य्(徳)』の実りを味わっていること。


どの人も、この2種類の経験を味わっている。


だから、悲しいことや困難がおこっても、

「おお、また今一つ『パーパपाप(不徳)』が消化されたな! ハハハッ」

といって、受け止めてしまう。

そんな風に明るく受け止め、起こったことから出来事から学ぶことができれば、
私たちは次の幸運をつくることができる。

『パーパपाप(不徳)』は次の『プンニャपुण्य्(徳)』、次の幸運のきっかけとなる。


そして、いつでも私たちは法則と共にあることを知ることが、
試練や不測の出来事への“緩衝材、ショックアブソーバー”となる。

さらに、私たちは現在、幸運なことに人間としての体をもっている。


なぜ幸運かというと、この地球では人間の体にのみ“自由意志”がセットされているからだ。

“自由に選択できる意志がある”
ということは、新しい『カルマकर्म(行い)』をし、結果を作りだせるということ。


残念ながら、動物や昆虫や魚、人間以外の生物には“自由意志”がセットされていない。
彼らは自然界のものとして、自然の法と秩序のプログラムの中で生きている。

だから、洋服を選んだり、突然旅に出たり、しっぽやツノの形を自己流にアレンジしたりすることもなければ、生き方を変えたりもすることがない。


当然、Yogaの道を歩む可能性もない。


意志がないから、彼らは選べない。
『クリヤーक्रिया(動き)』はあるけれど、意志で選択する『カルマकर्म(行い)』がないのだ。

しかし、
その特権として、

動物には悩みがない。
動物はけして“悩まない。”


正確にいえば
“悩むことができない”。

自由意志がないから、選択がない。
選べないということは、迷いがない。


“意志”をもつキャパシティーがないため、人間のように高い自己意識もなく、葛藤もない。

他人の目に映る自分を気にしたり、
肉体以外に、感性や考えを成長させたいとも望まないし、
世界の出来事を“成功・失敗”と判断することもないから、
落ち込むこともなければ、
有頂天になることもない。


多少の感情と、生きるための仲間と敵の区別、繁殖のための他の種と区別できる程度の自己意識しかセットされていないのだ。
自然界のモノとして、自然の理としてベースにある秩序と法のままに生きている。

だから動物の生は、過去に積んだ『カルマकर्म(行い)』の結果を消化するだけで、
新しく『カルマकर्म(行い)』の結果を生みだすことがない。


しかし、私たち人間は違う。


自由意志をもって、新しい『カルマकर्म(行い)』をする。
その結果を現在進行形で生み出している。


結果を消化しながら、新しい結果を作り続けている。

一部の結果は、今回の生で消化され、一部は保存され『サンチタカルマसञ्चितकर्म (過去にした行いの蓄積)』に積まれる。

次の“人生(か、なにか別の生物)”の材料として、持ち越される現在作りつつあるカルマのことを、


『アーガーミ・カルマआगामि (現在生みだされ、未来に使われる行いの結果)』
という。

“自由意志”をもち、未来への『カルマकर्म(行い)』の結果をつくりだせるから、人間は特別だといわれる。

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注射をうってくれた、看護婦さんから注射器をとりあげての記念撮影。

インドでも、注射は使い捨てです(あたりまえですね。。)

こちらの病院の看護婦さんは皆白のサリーで、かわいらしい。

それなのに、あんな痛い注射を打つとは!けしからんのです。

でも、ありがとう~

また近々お世話になることでしょう

| 向井田みお |

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り⑧*「悩める」のは人間の特権



<自由がある、意志があるといことは、「悩める」特権をもっていること>

人間として生まれ、生きるのは、本当に得がたい、貴重なことだとYogaの経典はいっている。


なぜなら、Yogaに生きることができる。


そして、人の生きる目的である、“悟り”、
究極の自由、
Yogaの言葉では、『モクシャ(悟り・自由)』をゴールとして、生き方を選ぶことができる。

経典がいうには、この世で実に得難いものには、3つあるという。

そのうちの、一番目が、


“自由意志をセットされた、人間の体をもつこと”
である。


2番目は、自分が何を探し、何を目指すかはっきりした考えを持てる、ということ。

3番目は、生き方の姿勢を固めたら、きちんと目的に導いてくれる教えと、師を得ること


今私たちがYogaをしているということは、これらの得難いことを得ているということだ。
人間の体をもって、Yogaをしている。
ただそれだけでも、相当の『プンニャपुण्य्(徳)』だ。

ということは、それ以上の『プンニャपुण्य्(徳)』も、もちろん我々のアカウントにはあるはずである。
そして今後Yogaをすることで、さらなる徳をつくることができるのだ。

とにかく、人間の体は『プンニャपुण्य्(徳)』の集大成である。

私たちは、あまり有難がらないが、本当はものすごく特別なことなのだ。
今こうして人間の体を持てている、ということは。

だから、この幸運と生物として大きく飛躍できる可能性を秘めたビッグチャンスを逃してはいけない。


人間の体をもち、意志があるから、やるべきことができる。

肉体の時間は、思考できる時間は限られている。

無駄な時間はないのだ。


私たちには“自由意志”がある。
行いを選べる。

今、行いの結果を消化しながらも、新しい『カルマकर्म(行い)』も生んでいる。

『カルマकर्म(行い)』によって、
私たちは未来の人生のシナリオ、“運命”といわれるものを変え、
生き方を変えることもできる。

迫りくる結果を消化するだけでなく、積極的に『プンニャपुण्य्(徳)』をつくり、
不運を運に変えることができる。

試練があっても、そこから学ぶことができる。

意志と努力次第で、次の結果をより良いものに変られる、という可能性を手にしている。

Yogaの道を歩むこともできる。

それは、生物が本質的に望む“自由”を目指すことができるということである。


しかし一方で、“自由意志”があるという特権は、
私たちに選択をもたらし、悩みを与える。

考え、判断し選択するキャパシティーがあるために、高い自己意識も備わっている。

それゆえ、私たちは他人の目に映る自分を気にする。
厳しく自己評価する。
自分自身を拒絶したりもできてしまう。

自ら死を選んでしまえるほどの、大きな悩みを持つこともできる。

意志のない動物なら、何の悩みもなかったのに。。

しかし、それさえ特権だと経典はいう。


悩みがなければ、問題がなければ、そこから自由になりたいと思えない。

苦しさや悲しみがなければ、
「なぜ私は苦しいのか?どうしたらいいのか?」
と解決を考えない。


考えなければ、成熟も成長もない。

だから、悩めるということは、成長の為の大切な“きっかけ”であり、
それこそが特権だという。


なぜならそこから、私たちは“自由”目指せる。
そのために、生き方を変えることができる。


求めることや、不安や恐れ、をつくる“無知”から自由になる大きな可能性を私たちは、
秘めている。


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いやはや。。。

病院で注射を打たれた後、バスで帰る事にしました。

病院からアシュラムまでは、バスで10分。

大変にのどかなバス停ですなぁ~

| 向井田みお |

2011年6月14日 (火)

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り⑨ *過去のカルマも清算できる。

天を味方につけ、運を掴み取る! Yoga的祈り⑨

<過去の悪行も『カルマकर्म(行い)』で清算できる。>


『カルマकर्म(行い)』の法則のカラクリはだいたいわかった。

だけど、ここで不安要素がのこる。


それは、もし過去にしてきた行いの結果、
『プンニャपुण्य्(徳)』と『パーパपाप(不徳)』の組み合わせだけで、
すべてが決まるのなら、
もうすでに運命は定められて、変えられないのではないか?


そして、多分私は、恐ろしい程の悪行を積んでいる可能性がある・・


今までの自分の行いを振り返って、覚えているだけでもたくさんある。

言うに言われぬ、“あんなことや、こんなこと・・”


それらが、いつか結果の実を結び、私によって消化されなければならないのだという。
そして、過去にはきっともっとたくさんのことをしているはずだ。
だとしたら、フルフル震える程、怯えてしまう。

こんな人間の心理に『ヴェーダ(聖典)』は救済措置も提示してくれている。

“過去の悪行の数々、もう取り返しのつかない『パーパपाप(不徳)』も、
今している『カルマकर्म(行い)』によって清算できる。“

心配するなかれ。

おおぉ!

よかった、よかった、


『カルマकर्म(行い)』は、『カルマकर्म(行い)』によって清算できる、というのだ。

今している、そしてこれから先行う『カルマकर्म(行い)』を、『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる徳の高いものにしていけば、この善行の結果が“抗体”となる。


過去に積んでしまった行いに対する贖い。
新たな“不運”を生みだす原因に抵抗するには、『パーパपाप(不徳)』を上回る『プンニャपुण्य्(徳)』をつむこと。


原因は、『カルマकर्म(行い)』である。
これに抵抗して、結果の叶い方を変える方法も同じ『カルマकर्म(行い)』で対処できる。

その特別の『カルマकर्म(行い)』のことを

『プラヤスチッタ・カルマप्रायश्चित्तकर्म(過去のカルマに対する償い、清算する行い)』
という。

例えると、すでに病の原因は体に巣食っているのだが、特殊な抗体”をつくることで、この病に抵抗できる。
原因を根こそぎ取るわけにはいかないが、発病してもごく軽く済むように、私たちは特殊抗体をつくることができるのだ。

それは、今から新たな『カルマकर्म(行い)』をするときに、『プンニャपुण्य्(徳)』を生みだすものにすること。

『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる行いは、前述のとおり2つある。


【悪行への対処法 *『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる2つの行い】

1つは、助けを必要としている人々や、生き物に手を差し伸べる行い。

実際的に体を使った手助けでももちろんよいが、間接的な助けになる“寄付”や“公共事業”への参加や、“ボランティア”も非常によいとされる。

自分の時間やエネルギーを、他の人、生物の為に使うこと。

これが『プンニャपुण्य्(徳)』を生みだす。


2つ目は、“祈り”
『カルマकर्म(行い)』の法則も含めた、この世界を維持している秩序と自然の摂理に敬意を示すこと。

例えば、
圧倒的に美しい朝日や夕日を見た時、私たちは思わず手を合わせてしまう。
大きく広がる空を見上げた時、何かとてつもない深さで包まれているような思いから、
胸がすぅ~っとして、なんだか、すべてに感謝したくなるような謙虚な気持ちになる。
ご飯を食べる前にも、手を合わせる。

日常の中で、私たちは謙虚な気持ちで自然の理に素直に敬意を示している。

これを、意志の力でより積極的に行うこと。

それが、『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる“祈り”だという。

インドでは、『ヴェーダ(聖典)』に記述されている儀式をすることが、確実に『プンニャपुण्य्(徳)』を生みだすとされるが、日本に住んでいる私たちができることは何か?

1つは、もしその土地で伝わる儀式があるのなら、それを形式通りにすることがよいとされる。必ずしも『ヴェーダ(聖典)』の規定に則らなくても、昔から伝統的にされている儀式や祈りの形式には、意味がある。

何か結果を確実に生んでいる、という実績に裏打ちされているからこその伝統なのかもしれない。

だから、神事や伝統的な祈りや儀式に参加することは、Yoga風にいうと『プンニャपुण्य्(徳)』をつくることになる。


そして、どんな形式でも言葉でもいいから、“心をこめて、祈ること”
できれば、具体的に積極的に。


忙しい日常の中、あえて祈りの時間をつくる。
それは意志と努力が必要とされる。

具体的な思いを、言葉にだす祈りがよいとされる。

自分が本当に探求したいことのために“祈る”
他人の平和や幸せのために“祈る”

その“祈り”の行いが『プンニャपुण्य्(徳)』を生みだす。

同時に、この“祈り”は、自分の内なる要求を汲みだす行いにもなる。

「本当に自分の欲しいもの、求めるべきものはなにか?
そのためにはどうすればいいのか?」

それを意志ある行いによって汲みあげるのだ。

自分の本当にしたいことのために、人生をつかうこと。

そのために、私たちは体を与えられ、この世界という舞台に参加している。

だから、目的が明確で、しっかりと役を演じることができるようになること、
それはこの世界が望んでいることでもある。

ゆえに、こんな風に自分の思いを意志によって汲みあげる行い“祈り”は、
ささやかながら自然の摂理に働きかける。

その真摯な気持ちの現れである行いは、『プンニャपुण्य्(徳)』をつくり、必ず結果を生む。

結果を生むため、『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる『祈り』は、具体的に意志で行わなければなければならない。

大自然の前で、もしくは、特定のご神体の前で
ただなんとなく手をあわせて“ぽぉ~っと”していたら効果が薄い。

意志を伴わない『カルマकर्म(行い)』は、結果を生まないからだ。

思いを掘り起こす、謙虚な気持ちを汲み上げ、何がしたいのが、しっかり考えて祈ること。

「私は、自分で本当に欲しいモノがなんだかよくわからないけど、
神様は、きっとすべてご存じのはず。
だから、ただすべて委ねて、祈りましょう~♪」

こういう覚悟のない、意志薄弱な行いは、『カルマकर्म(行い)』になりえないのだ。

だから、どうか祈りは積極的に。

意志が明確な祈りは、『カルマकर्म(行い)』として必ず次なる結果を生む。

Yogaでは、自然界のこの摂理を理解できる繊細さと賢さがある人こそが、
“祈れる人”だという。

物質的な物が幸せの基準とされる国では考えにくいことだが、
プラクティカルで、現実的な人こそ“祈り”の力を知っているという。

“ある日手ぶらでやってきた自分が、この世界で必要なものをすべてもって持って生きていられる。”

この背景に、ただ事ではない力と真理とルールが働いている事を知る人。
そのルールを“祈り”のよって、自分に引きつけることができると知る人。
自分が生きているということを大きな視野でとらえられる人。

本当の意味で、実践的である人が祈れる人なのだ。

祈りと善行。

この意志ある2つの『カルマकर्म(行い)』によって、私たちは過去にした事を、ちゃんと購える。

積まれてしまった『パーパपाप(不徳)』に対抗できる。

今回の生で、消化しなければならない結果は、運命のシナリオに刻まれてはいるのは確かだ。

しかし、

その結果がどう現れるか?

ここまでは、定められていない。結果の現れを、私たちは意志で変えることができるのだ。

たぶん、自分の『カルマकर्म(行い)』の口座には、過去の未熟な私がしてしまった『カルマकर्म(行い)』が、次の“不運”の原因として、多分たっぷりたまっているだろう。

それと逆の行い、祈りや善行という『プンニャपुण्य्(徳)』をつくる行いである
『プラヤスチッタカルマप्रायश्चित्तकर्म(過去のカルマに対する償い、清算する行い)』によって上手く変えることができる。


運命を変えて、何事も自分の歩む道を妨げないように、変えることができる。

だから、諦めてはいけない。

過去を振り返って悔むことも不安に思うことも、罪悪感を感じることもない。

私たち全員に、自由に物事を決められる意志と実行できる努力をして生きる“特権”がある。

前向きに、はっきりした考えをもって、この特権を使いつくすことが、私たちの運命を変える。

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アシュラムでは、ランドリーサービス(有料ですが、激安です)

もあります。

今日は大変良い天気だったので、わたくしも洗濯しました。

木にロープをはって干しているとは、

なんとなく牧歌的でございます。

| 向井田みお |

天を味方につけ、運を掴み取る!Yoga的祈り⑩ ラスト * 運命のシナリオは変えられる。そして幸せとは?

<運命のシナリオは変えられる。>


一個人の想定されている、『プンニャपुण्य्(徳)』と『パーパपाप(不徳)』の組み合わせでできている、“運命のシナリオ”を私たちは変えることができる。


人の運命は、ぬり絵みたいなものだ。
大枠が決まっているし、大体の絵は決まっている。

だが、
私たちは自由に色をぬれる。


線を描き足し、最初にあった“絵”とは、違うものが書ける。
たとえば、“猫”の枠が書かれた絵を、

豹のようにも、ライオンのようにも、虎のようにもぬることができる。

猫を、いくら頑張っても“象”や“魚”に変えることは無理だ。

でも、あらかじめ決まった人生のシナリオに対して、これ位は自由に変えていけるのだ。



<Yoga的な『幸せと成功』、そして祈り>

ところで、

何をもって私たちは、“幸せ”だとか、“成功”だというのだろうか?


億万長者になったら成功なのか?
会社をつくって独立したら成功なのか?
結婚したら?
子供を4人もったら?
何不自由ない生活を手に入れたら?
就職したら?
学校に合格したら?


それらも、まちがいなく、細かい成功だろう。


でも、
本当の意味での成功は、数値やある1つの条件では決められない。

少なくとも私にとっての成功は、

“生きていて良かったと思えること”

“今生きていることにも満足し、今ある自分と環境とすべてに、何の不満もない。
求めることなく落ち着いていること。

満足と感謝で心が平和であること。“

その満足が、いつでも、自分から離れずにあるということ。

悲しみも、苦しみも入り込む余地が無いくらい、自分が満ちていること。


たとえどんな生活をしていたとしても、
何処にいても、
どんな時も、
胸をはって堂々と、心の底から

“うぅ~む、自分は実に満ち満ちている! 幸せだ”

と清々しく、なんの恥ずかしげもなく言える。


そんな心でいつもいられることが、
自分にとって成功だと思う。


経典はいう。


すでに過去に在り、今も在り、未来にもある。
壊れたり、変わることのなく、自ら輝き、すべてに満ちる存在。
何に囚われることも、限定されることもない。

それが自分の真実であるということを知る人。

その人の心の平和と静寂は、
物質的な何かを持っていても、持っていなくても変わらない。
揺れることがない。

石をみても、金をみても、犬をみても、犬を食べる人をみても、
その人の世界に対する理解と態度は変わらない。

大きく広い心ですべてを受け止めている。」

自分の“安全や幸せ”を他人やモノに委ねることのない、確固たる理解と姿勢。
自分自身を自ら認められる確かさ。

何がきても受け止められる広さと深さ。
他人の目に映る自分しかしらず、ビクビクしたりしない。
自分自身に堂々と定まっていられる。


その人は何かを探しまわったり、取り過ぎたりすることがない。


物事に対して冷静で、客観的な態度を持っている。
何もなくても、その人はその人であるだけで、十分幸せなのだ。


しかし、同時に、
Yogaの経典は、財産や家族や、贅沢な生活など、物質的な成功を否定したりしない。

もしそれらに、自分が振り回されていないのなら。

そういうモノたちに、自分の幸せや成功の基準を頼ってないのなら。

モノや他人の奴隷になってなければ、何を持っても構わない。


モノや状況より、ずっと大事で、変わることのない“自分自身”に、幸せや成功のベースを置いているなら、物質をもつのは何も悪いことじゃない。


どこかの誰かが考えた“幸せの基準”など、自分に当てはめない。
“幸せの条件”などという、チープな条件やアイディアなんか、買わない。

自分が幸せかどうか?
成功かどうか?

そんなことは、本人にしか実は解らないのだと思う。

本人以外の人は、
その人がいかに幸せと感じているか?成功と思っているか?

その人の持っているモノや条件をみて、推測することしかできない。

でも、本当の事は本人以外には解らないはずだ。

成功や幸福かどうかは、すべて自分を中心にした、

“思い方”、
“考え方”
“物事のとらえ方”
がベースだから。


少なくとも、
自分を信用して、
必要なことは全部与えてくれている世界の秩序と法に寛いでいられるなら、
私はそれで、十分成功だと思う。


他人やモノに操られたりしない自分は、
それだけで強く、誇り高く、自由だ。

そういうことを成功だと、Yogaの経典もいっている。

自分の方がモノより、ずっと大きく、ずっと広い。
自分の本質とは、本当はどれほど大きく、どれほど重要なのかが解っている。

真実の自分を理解している人は、モノや条件で自分を評価しない。
それらに惑わされない。

だから、モノはあってもいいし、なくても構わない。

限りない自由と、何にも頼らずに在り、満ちている自分を確信している。

Yoga的な成功”は
だれもが本当に目指し、心の底から願っていることなのだろう。

それは、

“誰が何と言おうと、
何処にいても、
何をもっていても、持っていなくても、
どんな時も、
「幸せ」だ、といいきれる自分でいること。

自分のことを、自分で厳しく評価したり、蔑んだりしない。
他人や世界を同じ様に厳しくみて、嫌わない。
憎まない。

自分であることを誇り、
納得し、
完全に受け入れていること。“

これがYoga的な成功だという。


そこを目指して、私たちはYogaの道を歩く。

道の途中で、お金や宝石を拾うかもしれないし、
それらを盗まれたり、失うこともあるだろう。

知り合った旅人と、一時共に過ごし、家族となることもあるだろう。
子供を育てたり、仕事をしたり、別れたり。

新しいモノに出会い、
いろんな景色から、きっと様々なことを学ぶ。

笑ったり、泣いたり、転んだり、駈け出したり、休んだりするのだろう。

何を手に入れてもいい。
何を失っても怖くない。

それでも、この道は1つの確実な成功に続いている。

元々ここに来た時から、道を歩みだしたときから、私たちは何も持っていなかった。
そしてある日、何も持たずにここから去るだろう。


恐れなんかない。

ただひたすら、明るい方へ歩み続ける。

空を見上げ、吹く風を感じ、周りの人と関わり合いながら、
歩き続ける道。

必要なことは、今までそうだったように、すべて与えられる。
必要ないことは、いつも自分から自然に去っていく。

これからもそうだ。


それでも、
向かい風に煽られそうなとき、
ここ一番!追い風を吹かせたい時、

私たちは“祈ること”
“人や生物を助けること、優しくあること”
そういう『カルマकर्म(行い)』をして、幸運を作ることができる。


天を味方につけて、運を手に入れることができる。

運命は変えられる。

嘆くことはない。

Yogaの道が導く自由の扉を開くキーは、私たちの毎日の行いの中にある。
物事に対する態度の中にある。

幸運と、成功の重要なファクターは私たちが握っている。
それを使うか使わないか、その意志も私たちの中にある。

このことを理解することができる。

それだけでも、相当な『プンニャपुण्य्(徳)』だといわれる。

理解の上に、意志を適切に使えるようになるためにも、“祈り”はある。


淡々と自分に課せられたことをやる。
困っている人がいたら、助ける。
『プンニャपुण्य्(徳)』をつくるような、社会貢献をする。
心から尊敬できるものに、素直に手を合わせる心と謙虚な姿勢がある。

祈ることができる。


結果なんか、気にしない。


自然の理、世界を展開させている秩序と法にダイナミックに関わりながら、
諦めず、
投げやりにならず、
意志をもって、力いっぱい生きればいい。


それが結果、幸運をつくることになっているのだから。

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これが、『アシュラム(Yoga寺)』のレセプション。

もし南インドにくることがあったら、

まず一番初めに立ち寄ってくださいね。

宿泊施設の案内やインターネット、電車の予約などもすべてできます。

お寺での儀式もこのレセプションで。

インドにしては、現代的な建物とサービスです。

| 向井田みお |

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