私たちは本当は何が欲しいのだろう? Yoga的探求⑤
わたしたちは、感動した経験や心が震えるような出来事から、なんとなく自分の真実は
本当は小さくも、無意味でもない。
不幸でも不安でもないことを、
心のどこかで知っている。
だけど、本当の自分が何者なのかがわからない。
感動の中心に確かにいた自分。
それは一体なんだろう?
私とは誰だろう?
Yogaの経典には、この自分自身の真の姿を私たちにみせ、解らせてくれるという役割がある。
例えば、自分の目や顔は、そのままでは見ることができない。
自分自身をみる道具を私たちはもっていないから。
だから私たちは鏡という道具を使って、自分を見る。自分以外の道具が、自分を映しだし、みせてくれる。
見る、聞く、触れる、味わう、嗅ぐという人間が持つ5つの感覚は、あくまでも自分以外の外の世界を知るための道具だ。
でも、私たちは自分を見る道具をもっていない。
だから、自分の真実として何かがあることまでは解るけれど、それが何なのか、それがわからないのだ。
この自分自身をみせてくれる“鏡”のような役割をしているのが、経典の言葉だ。
その言葉によって、私たちは、自分自身の真の姿をはっきりと知ることができる。
経典の言葉は、私たちに言う。
「キミこそが真実。
キミが今、そこにいる。
そのことが、この世界の真実。
あの感動の経験からわかっているように、
幸せの意味とは、満ち足りているということの意味とは、大きく広がっているということの意味とは、キミ自身のこと
だ。
だから、あの感動は忘れられることのなく、キミの中で輝き、あの瞬間をキミは求める。
なぜなら、それがキミの真実だから。
何にも縛られず、大きく広く、満ちている限りのない自由の意味とは、
キミ自身の事に他ならない。」
こう言って経典の言葉は、私たちの事実を映しだし、私たちにそれを忘れないよう、理解するように何度もいう。
薄ぼんやりと仄暗く見えている自分の存在に、間違った結論をだして不幸に陥り続けないように。
不安と恐れに悩まされないように。
自分を無意味だと、たいしたことない奴と言って、他人の評価や外の世界に左右されたり翻弄されることがないように。
悲しみと苦しみの海を超えていけるように。
生と死の輪廻から解き放たれるように。
経典は続ける。
「どんなこともキミ自身である“真実”を縛ることはできない。
時間も場所も、条件も。
キミは初めから自由だ。
大きく広がり、限りなく満ちていることを自由というのなら、キミがその自由の意味なのだ。」
私たちは、勝手に自分自身のことを決めつけている。
痛みや苦痛や、老いや生と死の影響をうける肉体。
これが自分自身だと信じてきたのではないか?
この限りある知性。
習ったこともすぐ忘れ、知らないことばかりあると、物事を知るための道具にすぎない心や考えを自分自身だと思って、ダメだしをし続けてきたのではないか?
時間や場所に制限される小さな存在が自分自身だとしてきたのではないか?
変わりゆくモノに影響されるのが、自分自身と思っていたのではないか?
経典はきっぱりという。
「キミがもしそんな風に自分の真実を思っているとしたら、それは違う。
はっきりいって、その結論は間違っている。
それは自分自身の真実に上書きしただけの、間違った考えだ。
キミの本当は、キミの考えを超えている程に大きい。
その結論なんか、想像も及ばない程に広い。
時間も場所も制限できない程に、キミは自由だ。
なぜなら、変わりゆくモノの中で、キミだけが変わらずにあるだろう?
何がかわっても、キミは在り続けていただろう?
変わり続けている体も、心も、思いも考えも、感覚も世界のあらゆるモノも、みんな変わらないキミの真実をベース
にしている。そこに世界が映っているのだ。
写真の中で、幼い赤ちゃんとして笑っている自分。
その自分と今の自分。
体、風景、声、考え方、など、変わったモノの中で、変わっていない存在。
それがキミの真の姿だ。
キミは心のどこかでそれを知っている。
でも、はっきりとは解らない。
だから真実の上に、上書きをして間違った結論をだし、自分で自分を騙してしまう。
騙しながら、生きている。
それは、自分の真実をただ知らないことが原因だ。
だとしたら、その真実を私は語ろう。
キミ自身の真実を。
キミが本当に理解するその時まで。」
そう経典はいう。
そして、間違った結論に囚われて勝手に不幸をキメている、私たちを解放する。
限りない自由へと。
自分自身の真実へと。
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これがアシュラムにある講義室。
200人は集まれるホールです。
しかもエアコン完備。
すばらしい。。
ここで、日ごと夜毎 Yoga哲学の最終兵器『ヴェーダーンタ』が語られておるわけであります。
| 向井田みお | 固定リンク
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