私たちは本当は何が欲しいのだろう? Yoga的探求②
「Yoga」という言葉は、その発祥の地インドでは、単に体を動かし、呼吸を整える健康運動や、なにやら霊力がつくなどという怪しげな偽宗教とは全く違う意味を持つ。
インドの地では、Yogaは
『人生において、しっかりと向かうべき方向に向かって生きること。』
その生き方そのものを指している。
だから、“体操、運動”というよりは、 “道”であるといった方がしっくりくる。
Yogaという生き方、その道のベースとなっている経典の1つに『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』という経典がある。
経典はこう語る。
「すべての人には、その人の意志によって選べる開かれた2つの生き方がある。
1つは『シュレヤスश्रेयस्(悟り、自由を目指す生き方)』
もう1つが『プレヤスप्रेयस्(快楽と安全の獲得を目指す生き方)』。
だれもが、この2つの生き方を選んでいる。
『シュレヤスश्रेयस्(悟り、自由を目指す生き方)』とは、
自分が本当に求めていることへと、まっすぐに続いている生き方。
自分は何を求め、何が必要なのかを見極め、そのための方法を実践する。
その生き方を、Yogaという。
『プレヤスप्रेयस्(快楽と安全の獲得を目指す生き方)』は、
目先の快楽や安全を目指す生き方。
多くの人々は、目先の喜びや楽しみ、そして不安や恐れから自分を守る安全の追求に惹きつけられている。
安全や楽しみのために、自分が持っていない物、獲得していな状況、たどりついていない場所を手に入れることに夢中になる。
自分以外の外の世界のモノを、いつまでも求める生き方。
『プレヤスप्रेयस्(快楽と安全の獲得を目指す生き方)』は、こうともいえる。
“なぜ自分は求めているのか?”を問わない生き方。
いつも求めているということは、自分の何かが満たされていないということ。
納得がいっていないということ。
もしそれが、人を次から次に外のモノへ、飽くことなく走らせているとしたら、
“その根にある問題は何か?”
“満たされていない自分とはなにか?”
それを考えない生き方。
何が欲しいか?何が必要か?
手に入れられることの追求は、なぜ限りがあるのか?
何かを追いかけ続ける生き方から自由になるには、どうすればいいのか?
その答えを問う力を失った人、
問題の根本を見極める力を失くした人、
何も考えずにただ物事を受け止め、鵜呑みにしてしまう人。
世界を諦めて、厭世的になっている人。
そんな人は、走り回る生き方から自由になることはない。
たとえ何を手にいれたとしても、中心にある渇いた欲求と、安全でないという不安と恐れが、いつもその人を外の世界へ駆り立てるだろう。
この体で手に入れられるすべてを手にいれても、その中心の欲求は終わらない。
だから、その人はこの肉体を手放しても、欲求・願望という力によって、また次の体を手に入れる。
そうして、『生と死』が繰り返される。輪廻に囚われ、廻り続ける。
そんな風に経典はいうのだ。
一方、
本当に自分は何が欲しいのか?
何のために生きているのか?
もし、探し続けることから自由になることが本当の望みだとしたら、
なぜそうなのか?
その問題を根本から見極めようとする人。
その人は『シュレヤスश्रेयस्(悟り、自由を目指す生き方)』を選ぶ。
これを見極め、Yogaに生きる人は、“苦しみと喜び”、“生と死”という廻り続ける生き方から自由になる、という。
何が自分を求めることへ駆り立てているのか?
これを見ない限り、人はけして自由にはならない。
どんなことにおいても。
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アシュラムの宿泊施設。
小さなバンガロー風の小屋ですが、静かで快適です。
最近はお湯がでるようになって、快適。
そのお湯といっても、五右衛門風呂のようなドラム缶で薪から湯をわかす方式。
そのドラム缶にクダがついて、そこから各部屋に流れていきます。
う~ん、非常にトラディショナル。
ちなみにお湯のタイミングは、ドラム缶に薪をくべる人の起きた時間から1時間後、そして一日1時間だけ、湯が出ます。
インドって所は、まったく
人を鍛えてくれます。。。
| 向井田みお | 固定リンク
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