私たちは本当は何が欲しいのだろう? Yoga的探求③
きっと私たちのだれもが、多かれ少なかれこんな考えを持っている。
“自分は、この広い世界において、あまりにも小さい。
そして、常に世界の脅威に晒されている無力な存在。
そんな自分が、この世界でたいした意味をもっているとも思えない・ “
無力で、小さく、意味がないかもしれない自分という生き物。
気候がかわっただけで、ダメージをうける小さな体。
ハッブル望遠鏡が映す宇宙をみたら、地球ですらとるに足らないほど小さい。
まして、自分なんて、どれだけ小さいものか・・思い知る。
いろいろな条件に恵まれないと、息を吸い、食べて、生きることすらままならない。
そんな自分が、この世界でどんな意味をもつというのか?
歴史に名を刻むような偉業の1つも残すことが無いかもしれない。
たとえ歴史に名を残しても、それがどれほどの意味をもっている?
外の世界の些細な物に、体も心も傷つけられる。
目に見えないバクテリアの動き1つで体は変わる。
誰かの批判めいた一言や冷たい態度で、心は沈む。
だから人は、この小さな自分を守るために、“安全” “安心”が欲しい。
あまりにも小さいからこそ、いつもBigになりたいと思っている。
だれかに認められたい。
できれば、できるだけ多くの人に大事にされ、尊敬されたりもしたい。
有名になりたい、
お金持ちになりたい
そのために地位を手に入れたい、etc
そんな欲求はみんな、1つの思いから湧いている。
それは、自分が自分の事を心のどこかで、
“とるに足らない奴”
と決めつけている、その考えだ。
その考えがある限り、私たちの“安全と快楽”の追求は終わることが無い。
外へ何かを求めて走り回る。
追求を繰り返す。
その根本には、
“自分が自分を認めていない。”
“自分は小さく、無意味で、完ぺきからは程遠い存在“
“心から納得がいっていない”
こんな風な自分に対する考えと結論がある。
そしてその結論は、私たち自身を振り回し続けている。
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8世紀に『ヴェーダーンタ哲学』を解説してくれたシャンカラ先生の誕生日。
脈々と流れ、教え継がれてきた哲学の継承者となるべく、
我々真剣に勉強してまいります!
と、思わず襟元を正したくなる儀式が執り行われました。
| 向井田みお | 固定リンク
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- ヨガ哲学の旅(2010.03.19)