私たちは本当は何が欲しいのだろう? Yoga的探求④
何かを求める生き方の根本には、
“他でもない自分が、自分自身を小さく、無意味で、不安な存在と思っている”
この結論と考え方がある。
不安だから、安心が欲しい。
安心を得るための何かを手に入れ、自分を守りたい。
それは、お金や地位や、安定した役割や、肩書きという形で表われていたりする。
小さくて無意味だから、ビッグに、有名になって、誰かに認められたい。
そのままでは幸せじゃない様な気がするから、何か楽しいこと、束の間でも喜びを与えてくれそうなモノを手に入れたい。
この自分に対する“小さくて、無意味で、ダメな奴”的な考えをベースにして、表われている問題たち。
それに対する問題解決法。
それは間違っていない。
むしろ当たり前のように思える。
でも、
この問題と解決法には裏面がある。
それは、この考えがある限り、この結論に自分が縛られている限り、
何を求めても、手に入れても、心から満足し、安心だと思える日は永遠にこない、ということだ。
本当の問題解決に至るには、もう一歩深める必要がある。
“自分が自分自身にだしている結論、
「小さくて、無意味で、たいしたことない奴」”
この結論は真実なのだろうか?
私は、本当に自分が思っている通りに、「たいしたことない奴」なのだろうか?
「いや違う!そんなことはない!」
そう叫びたい。
自分の真実が、本当に「小さく、無意味、不安で、不幸。。」だとしたらなんて、考えたくもない。
けれど、私たちは心のどこかでそれを認めてしまっている。
だから、そんな自分を少しマシにしてくれそうなモノや安全や、幸せになれそうな状況の追求に明け暮れている。
しかし、同じ心がこうも叫んでいる。
「違う、違う。本当は、私は小さくなんかない。」
だって、あの時、心を掴まれるような美しい朝日や夕日をみたとき、
大きく広がる、澄みきった青い空をみあげたとき、
透明な風に頬をなでられたとき、
そびえたつ雄大な山に目を奪われ、「おぉ~」と思わず声をあげた時、
あの瞬間、私は確かに大きく、広がっていた。
何の制限もなく、大きい小さいなんていうことすら関係ないくらいの、無限に満ちていた。
私はその自分を知っている。
私の何かが大きな世界と打ち解けて、1つになって、心が震えるような光景にひたっていた。
なぜかは解らないけど、あの時の自分の方が、仕事や勉強など小さなことで悩んでる自分より、
ずっと真実であったような気がした。
「自分は、無意味なんかじゃない。」
だったら、初めから“私”なんていなかっただろう。なくってよかっただろう。
でも、私はいる。
そしてこの自分がなければ、世界はどうやって経験されるというのだ?
私がいるから、世界は知られているはずだ。
「私は、本当は不安で不幸なんかじゃない!」
知らなかったあの人と初めて打ち解けたときの、あの嬉しさ。
解らないことを、理解した時に感じたあの喜び。
心から笑えたときの、あの満ち足りた感覚。
今でもはっきり覚えている。
それこそが、私の真実じゃないだろうか?
根拠はないけど、色鮮やかなあの経験達が語っている。
そして、私はいつもあの嬉しさや、喜びをどこかで求めている。
どんな物より、強く。
なぜなら、それが自分の真実だからじゃないか?
だから、あの自分で、あの時の自分でいつもいれたらと、そう思っている。
些細な出来事で心と頭を悩ませ、不幸に感じている自分は本当の自分の姿ではない。
もし、悩める自分が真実だとしたら、そういう自分を気持ちよく受け入れられたはず。
そういう自分と一体になっていたはずだろう。
でも不幸を感じている自分とは一体になれなかった。違和感があった。
まるで靴の中に入った小石のように、自分の中にありながら、違和感がある不幸な感覚。
それを取り除かない限り、私は歩くこともできない。
同じように、満ち足りていないという思いや悩みを、私はすぐにでも取り除きたいと思っている。
なぜなら、不幸や心配や悩みは、私に違和感を与える。
だから悩める自分は、本当の自分の真実ではないといえる。
そんな風に私たちは、心のどこかで自分の真の姿を知っている。
魂をうちふるわせるような経験のいくつかは、その真実を思い出させてくれて、いつまでも“感動”となって、私の中に刻まれている。
そして、私はいつもあの時の自分を求めている。
もし、あの時のあの感動が、自分自身の真の姿であったなら、私たちはいつも自分自身の真実で在り続けたい。
何にも邪魔されることなく。
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お祭りの日は、こんな風に生の花を髪の毛に飾り、自分も大事な行事の一部として大切にします。
この白い花は「ジャスミン」(の種類)
とてもいい香りがいたします。
自分、自分といいますが、
息してるのも、食べるのも、寝るのも、動くのもみんな
自然の力が働きかけているんだよなぁ。
というように、この肉体、動いているこの心も体も、自然の大事な一部として
お祭りのときには、生の花の捧げものをするのです。
美しい習慣ですね~
| 向井田みお | 固定リンク
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