「アキラメ」からのYoga的再出発!③
外の物は自分を満たすことができない、求める生き方を変えることができない。
この「アキラメ」をYogaでは、
『ヴァイラーギャンवैराग्यम्(冷静さ、諦観)』といいます。
その人の人生において、とても大事なターニングポイントにきていると、
そう言って歓迎してくれるのです。
みせかけの「安心」と「幸せ」っぽさ。
そういう物を追いかけまわし、それを守ることで消耗することへの無意味さを知ること。
「外へ、外へ。次から次へ。」
際限なく何かを求め続ける生き方では、自分の本当に求めていることは達成できないことを知ること。
物に頼ることを諦めることは、本当の意味で自分の心の奥に潜む欲求と向き合う準備ができた証拠である、と。
そんな風にいって、私たちの空虚感をYogaでは、
“とても人間的な成熟の証”といって、奨励してくれる。
物や状況に、自分の「安心」と「幸せ」は頼れない。頼らない。
“何かにすがり、頼ろうとする生き方”に対して「アキラメ」を持ち、本当に自分が求めていることのために生き方を変えようとする。
自分の心ときちんと向き合い、生きていく方向性をしっかり見極める。
その見極めを
『ヴィヴェーカविवेक(見極め、識別)』といい、
『ヴァイラーギャンवैराग्यम्(冷静さ、諦観)』とともに、自分の本質的な問題と取り組む準備ができた証し、としてYogaを志す人の、持つべき大事な資質であるといいます。
でももし、ある日、こんなアキラメと見極めが芽生えてしまったら、
持っている物やお金や権力が「幸せ」の物差しになっているような社会で生きていくのは難しいかもしれない。
アキラメが芽生えてから、どこへ向かえばいいか指し示されるべき方向性が見えず、
教えも方法論もない場所では、余計に難しい。
虚無的になって、いじけるか、開き直るか、ドロップアウトするか?
それしか選択がないようにみえる。
でもYoga的には、この心の準備ができない限り、本当の意味でYogaに生きることはできない、という。
どんなスピリチュアルな探求もきっと同じことなのだろう。
Yogaでは特に、
この境地に至ることは、人間にとって大変な成長だ、といって大歓迎してくれる。
「キミ、そのアキラメが芽生えたら、人間としてやっと本質的に為すべきことへのスタートポイントに立つことができたのだ。
おめでとう!いよいよこれから、キミの本格的な探求がはじまるぞ~。」
そんなことをいって、背中をバンバン叩いてくれそうな勢いで、Yogaの経典はこの空しい気持ちを抱えた私たちを迎えてくれるのです。
勢いと同時に、Yogaではこの境地に至った人が辿るべき道、
成熟が達成された人にのみ開かれた道を示してもいる。
アキラメを知り、探求の方向性を見極めた人が
次に何をするべきか?何を知るべきか?
「こうなる日を私は長い間、待っていたのだぞ!」
とばかりに、経典はその人に指し示すのです。
明るく開けた道に続く自由を、もうその人が迷うことがないように。
『バガヴァッドギーター』という経典でも、この人間の成熟の過程が表現されています。
主人公アルジュナにある日「アキラメ」が芽生え、
何が大事か?という見極めができました。でもそのことで、彼は激動の世界で生きる意欲を失ってしまったのです。
その時、進むことも、退くこともできず、彼は彼の師クリシュナに助けを求めました。
「どうか、クリシュナよ、私に教えてほしい。
この心の内にある、どうしようもない空しさとすべてを焼き尽くすような悲しみを越える方法があるのなら。
その教えをどうか教えてくれないだろうか?」
道を求める真摯なアルジュナの言葉を聞いた師クリシュナは、
「ずいぶん長いこと、待たせたじゃないか!」
ともいいたげに、実に嬉しそうに笑いながら、主人公にYogaの教えを説いていったのです。
季節はもう夏。
おいしそうな、ジャックフルーツが毎日ムクムク大きくなっている!
味は、昔なつかし
「バブリシャス」というガムの味。
お若い方はご存じないかもしれませんな。。
| 向井田みお | 固定リンク
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- ヨガ哲学の旅(2010.03.19)