「アキラメ」からのYoga的再出発!②
自分の中にいる、この闇から自由になりたい。
不安や恐れから、そして「変化」が私たちに置いてゆく悲しみから自由になりたい。
いつだってそう思う。
それが私たちの今の生き方の基準になっているのかもしれない。
だから
私たちは、「安心」と「幸せ」を、どこにいても、どんな時も求めている。
救いになるか、本当の助けになるかはわからない。
だけど、何かを探求せずにはおれない。
求めないわけにはいかない。
本当に自分を「安心」に、「幸せ」にしてくれるものを。
心の奥の不安と恐れがある限り、私たちはそれが本当かどうかも知らずに、
とにかく何かをいつも求めている。
自分を「安心」にしてくれそうなもの。
お金、土地、保険、家、家族、物、地位、権力、、、
自分を「幸せ」にしてくれそうなもの。
美味しい食べ物、奇麗な飾り、洋服、音楽、素敵な生活用品、、、
気がつけば、巨大な防波堤のように、私たちは沢山の物と、多くの人と利害を含んだ関係を築いている。
そして、安心、幸せになったような気になってみる。
たしかに、一時的な安心感、幸福感はこれらの物や関係が満たしてくれるだろう。
でも、自分だけは知っている。
手に入れたそれらも、いつか形を変え、壊れ、失う宿命にあるということを。
防波堤の中には、世界の流れとウネリにささやかに抵抗しながら、いつも弱くて小さい自分が、たった一人で世界に立ち尽くしている、ということを。
消すことのできない不安を抱えながら。
そして
集めた物と築いた関係に囚われて、身動きがとれなくなっている。
必死に守ろうという思いから、自由を失っていたりする。
新しい物を手に入れても、いつでも中心に不安な自分がいる限り、
すぐに次の物を手に入れようとしてしまう。
求め続けることからも、自由になれずに。
何かを求める続けることは、裏返せば、不安であり続けている、ということ。
どんなに「安心」に「幸せ」に見えたとしても、探求すること自体から自由になっていないのだとすれば、人と物で築いた防波堤だけがどんどん大きくなり、中心の自分はいつまでも小さく無力なまま。
世界のどんな物も、この非力で小さなひとりぼっちの自分を変えてくれることはない。
外の物は、この求め続ける生き方を、変えることはない。
私たちが本当に欲しいのは、
この不安と恐れと悲しみからの自由。
それは同時に、何かを求め続けなければならないことからの自由を意味する。
外の物は、心が根本的に要求することを、叶えてくれることがない。
どんな物を手に入れても、どんな人と関わり合っても、
いつまでも心が満たされることがない、という事実がそれを証明している。
その時、私たちは物や状況への限界を見てしまう。
根本的な要求を満たすことのできない物を求め続けることに、ある種の「アキラメ」を覚える。
前回の記事でご紹介した『जप ジャパ(マントラ瞑想)』でつかうマーラー(数珠)用の『ルッドラクシャ』の実をつける木を発見。
遠くの空にむかって実をつけています。
本物の『ルッドラクシャ』の数珠は1000年もつそうです。
| 向井田みお | 固定リンク
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- ヨガ哲学の旅(2010.03.19)