「アキラメ」からのYoga的再出発!⑤
自分が本当に求めていることと、
今自分が実際にしていること。
この2つが一致していないと、私たちは自分の中に焦りや不安や葛藤をみてしまう。
これが悲しみと苦しみの原因になっている、とYogaの経典はいいます。
探求が、今している何かと一致していること。
それでも、
「自分は何が欲しいかわからない。
だけど、外の物をいくら手に入れても空しい気持ちが続いている。
だから本当に求めているのは、物や関係や状況じゃないことは確かだ。」
こんな風に見極めはまだにしても、まずはアキラメを知るだけでも、Yoga的には人間として大きな飛躍だと、経典はいいます。
あれも、これも物を無暗に欲しがることから卒業している。
もしかしたら、自分の欲しい物が判らないうちは、
苦しみや悲しみからの自由=『悟り』ですら、自分がいろいろ欲しがる物の1つぐらいにしか思っていないのかもしれません。
「家も、資格も、仕事も、洋服も、彼氏(彼女)も手に入れた。
つぎに欲しいのは、、、う~ん、“悟り”かなっ!?」
こんな優先順位のなさでは、実は“悟り”には至れない、と経典はいいます。
本当に求める「自由」に至るには、その人にとって機が熟さなければならない、と。
物に対する自然のアキラメが無いうちは、まだまだ心が準備できていないかもしれない。
でもだからといって、それは悪いことでもなんでもない、ということも同時に経典はいうのです。
納得いくまで「安心」と思うものを、「幸せ」になれると思うものを手に入れたらいい。
ちゃんと人の道に外れないやり方だったら、何を求めたとしてもいい。
そして、そうやって手に入れてきたものでは、もう自分を本当に満たすことができないと知ってしまったら、その時Yogaに来ればいい。
そういってくれている。
よくあるYoga的勘違いが、
「物には自由はない、悟りはない。だから物を持つことや、物への執着を手放したまえ。」
という教え。
こういった教えを真に受けて、
「執着を生じる物を失くさねば、物を手に入れないように生きねば!」
といって、ムダに我慢したり、欲のないふりをしたり、清貧を装ったり、ある日一切の所有物を処分したり。
そんなことをする必要は、本当のYogaの道にはない。
物を敵に回したり、否定したりはしないのです。
物へのアキラメとは、
“自分の幸せや安心の基盤を、物に委ねない。頼らない。”
その態度と姿勢のことをいっているのです。
便利な物は便利。どんどん使えばいい。
心地よい物、美しい物、体を維持するために必要な物を楽しんでもいいし、持つことを喜んでもいい。
手に入れるために、人の守るべきラインを踏み越えないように気をつけていれば。
物があることを素直に喜ぶ。
でも、アキラメのある人は
それが無かったとしても、悲しむことがない。
物に引きずられない。
物から得られる一時の満足や幸せや、安心がすべてではない、ことを知っている。
本来の自分の幸せとは、自分自身のことであるのだろう。
それは、求めることからも自由であることだろう。
そういうことを判っている。
それが物に頼っていない、ということ。
執着がないということ。
このYoga寺、アシュラムに生息するなぞの犬。
あまりにも、無防備。 この後ろ姿はまるでおっさん。
犬には悩みないみたいです
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- ヨガ哲学の旅(2010.03.19)