« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

2011年4月20日 (水)

Welcome Fear! 恐れを受け入れる!Yoga的感情ソリューション①


最近わたしは、すこぶる調子がいい。
こんなことは、とてもめずらしい。
人生始まって以来といっても、大袈裟ではないかもしれない。

相変わらずの不便なインド暮らしで、カレーやインド食全般が全く消化できず、体は低空飛行をつづけているのだが、心は小春日和のようにホコホコと落ち着いている。


日常関わりあわざるをえないインド人の、無遠慮なモノ言いや不遜な態度に細かくキレたりもしているが、これはまあ、挨拶みたいなものであるので、別として。


それでも大きく見れば、感情面での問題が非常に少なくなっている。

その理由は、やっと最近になって
『受け入れる』
ということの意味と大事さがわかるようになってきたからだ。


Yogaを初めて早10年。
気がつくのか遅すぎる?

そう、遅すぎた。


今思えば最初からYogaの先生は言っていたような気がする。

「受け入れることが、大事です」
とか何とか。

多分優秀なYoga人はこの辺のことは、軽く乗り越えていっていたのだろう。

でも私はだめだった。

なんとなく、スピリチュアルな世界やYoga的な世界に蔓延している、

「許しましょう、受け入れましょう、そして1つになりましょう。」


とかいうフレーズや考えが大嫌いだった。
アレルギーがあるといっても、いい。


「な~にを、偽善的なことを。
大げさな言葉は気恥かしいでありますなぁ~」

そんなバカげた態度でもであった。

許す?
許すって何を? 

自分が何を許せるっていうのだろう?
随分上から目線の態度と言い方だけど、私の方こそ、いつも周りに許されてきたのではないか?

そう思っていた。

「受け入れる」も、
「1つになろう」も、
なんか部活や運命共同体の宗教みたいで、ピンとこなかった。


でも、最近になって急激に「受け入れる」ということの意味が実感的できてきている。

「許そう、ひとつになろう」に関しては、まだまだ不明な点もあるのだが。。
これは今後の成長への課題ということで、楽しみにとっておくとしよう。

さて。

本題の
「受け入れる」
ということ。

これには、2つの局面があるようにみえる。

自分を受け入れること、
そして外の世界を受け入れること。


どちらにしても、世界に囲まれながら存続している自分の感情や状態に、
抵抗しない、ということだ。


自分を受け入れるということは、自分の考えや思い、体、性格、その生き方や在り方について納得がいっている、ということ。


少なくとも逆らったり、何か自分以外の別の者になろうしたり、あがいたりしないということ。
これはわかる。

世界の方はどうだろう?
世界を受け入れる、受け入れていないとは?


これもやっぱり、抵抗しないということだろう。


毎日私たちはいろいろな物や人に接しているけれど、すべての外の世界の情報が最終的に行きつく先は常に自分の中。

自分の中だけで、情報は加工される。

世界の情報が、様々な記憶や元来の性質、性格といった要素と絡み合い、物事に対する判断となり、結論となる。

“好き・嫌い”からはじまって、“良い・悪い”、“アウト・セーフ”、
敬いから侮蔑まで、私たちは外の世界を内なる世界からジャッジする。


もしかしたら、私たちは、あるがままの世界をみていないかもしれない。


いつも自分の中でだけ、自分の中にある基準だけで外の世界をみている。
その基準と結論が、自分にとっての世界になっている。

だから、ただ単に近くにいる人達が、
“大嫌いな人、憎むべき人、大変愛おしい人”と色づけされてしまったりもする。


自分というフィルターを通ったら、
世界のただの出来事が、“大問題”となってしまうこともある。

一見全く違う2つの次元の物事を受け入れているか・受け入れていないか?
そんな風にみえているけれど、
問題の発端は同じ所を基軸にしている。


その問題の起こる場所、物の見方が決まる所を私たちは“心”といっている。

ちなみに、心はYogaの言葉サンスクリット語では、『アンタッカラナअन्त:करनम(内なる道具、心)』という。
自分に一番近い場所で、情報を集め、判断し、結論付ける、まさに内なる道具だ。


だから、こうもいえる。

“問題”は、自分の物の見方にある。
“心の在り方”にある。
と。


*日本の地震と津波被害のために、
ここ南インドの方々が集まり祈りのイベントをしてくれました。

早く復興しますように。

傷ついた方々の傷が早く癒えるように。


と、願いを込めて1人1つずつ蝋燭に火を灯して祈ってくれていました。


Img_0179

ありがとう。

| 向井田みお |

Welcome Fear! 恐れを受け入れる!Yoga的感情ソリューション②<実践編>

我ながら、受け入れ難いネガティブな思いや感情。
それに対して、過剰にリアクションしたり、抗うことをしない。


これが『受け入れている』
ということ。

しかし、

どうやったら、自分で見放したくなるような、思いや感情を受け入れられるのか?


これに関しては随分長いこと悩んでいた。


“受け入れられない”、
ということは、変えることのできない物事について必死で対抗して、もがくこと。


もがいたり、あがくのは大変苦しい。
自分でもどうにかしたい。
でも、できない。
解決がわからない、出口がみつからない。
だから、ひたすらモガクしかない。

問題はすべて自分の中だけで起こっている。 
それは、解った。


自分についても、外の世界についても、結局、自分というこの“内なる世界”に情報を取り込んで、考え、判断して、結論をだしている。

その場所にだけ、自分特有の問題が起こっている。


それも、理解できる。


他人にとっては問題じゃないことも、自分を通過すると、
単なる“出来事”が、“問題”に転換されたりする。


自分の見方と結論だけが、“問題”を作りだして、それに自らハマっている。
なるほど。


だから、他の人や外の何かが、この問題を解決することはできない。
それも知っていると思っていた。


理屈はわかるけど、どうしたらいいかわからない。

心に傷を秘めたまま、無駄な抵抗を続けて、ただ傷が無残に膿んでいくのをみていることしかできなかった。

無力な自分を腹立たしく思うことで、悩みや問題はさらに悪化する。
負のスパイラルにはいっていくことも多かった。


そんな自分を蔑み、
世界と自分を恨んでいた。

「なぜ私だけこんなめにあうのか?」
「なぜ世界は私に、こんなにも冷たく立ちはだかるのか?」
と嘆く。


この問題から自由になりたい。


他ならぬ自分以外、誰も解決できない自分の物事の見方。
この悪あがきの大元から脱する、ブレイクスルーをいつも探していた。


そんな私のような人間に、Yogaは実に軽やかでシンプルな解決法を提示している。

しかし、あまりにシンプルすぎて、理屈は解っても今まで実行はしてこなかった。

ようやく最近になって、
抵抗することももう限界だな。。
とアキラメがつき、素直にその通りにやってみたのだ。


すると、
驚くほど効果があることがわかったのだった。


大変遅ればせながら、
今になってやっと、Yogaのメソッドが解り始めてきたようだ。


<感情を受け入れる、Welcome Fear!実践法>

実践方法は、ありのままの感情や自分の非力な状態に対して、
「Welcome!」
といってしまうこと。

実にシンプル。


とにかく“受け入れる“


たとえその時点で受け入れていようといまいが、「Welcome!」と、いいきってしまう。


受け入れる姿勢が自分にあることを、心のスペースがあることを、
言葉に出して提示する。


その時、実はめちゃくちゃ怯えていたとしても、
Welcome Fear! と、心の中でいっても、実際声にだしてもいい。

とにかくいってみる。


「恐れよ、どんどんくるがいい!
思いっきり、受け止めてやるー」


ちなみに、できるだけ、強く言いきる方が、効果あります。。


本当に自分に受け止められるか?
そんなことは、解らない。

もっというなら、できるかどうかなんて、もう関係ない。

たとえ解らなかったとしても


「どんな感情も、どんな問題もWelcome,Welcome!
さあ、どんどんくるがいい。」

と、思いきって、そういいきってしまう、この姿勢が肝心なのだ。


するとどうだろう?

なぜか、本当に問題がどうでもよくなっていくのだ。


問題に、自分がしがみついているのか?
問題が、自分にしがみついていたのか?


こちらが先に手放す姿勢を示してしまえば、問題はもう自分にしがみついてこない。

どっちにしろ、問題が力を失う。


私の師匠スワミ・ダヤナンダ先生はよくこんな話をする。


「問題を抱えている人は、まるでアツアツの焼きたてポテトを手にもって、
熱い熱いよぅ~ と泣いてる人みたいだよ。

熱いことが問題なら、
まずポテトを手放しなさいよ。

そうすれば、問題はキミの手から離れるから。

笑ってしまうくらい、あたりまえのことだろう?

でも、

ポテトを手放したら、ポテトは床に落ちて食べられなくなる、
どうしよう、どうしよう

そんなことを心配している人は、
今抱えている問題をなかなか手放せないんだよ。


まず今の問題を手放してから、
問題から自由になってから、

考えるべきことを、考えていけばいいんだ。」


確かに笑ってしまうくらい、当たり前の話だ。

私たちも、自分の手の中の、
いや、それよりもっと奥の、心の中のアツアツポテトを、まずは手放そう。


心配するのは、その後でも十分だ。

そして、問題を手放して、無駄な抵抗しをやめてしまう。

起きてもないことを、心配するなんてバカみたいだ。
空想に怯えていては、前に進めない。

しかし、
心の中に居座っている問題は、単に

「問題を手放そう、忘れよう。」
と無理やりそう考えたり、思うことだけでは忘れることはできない。
手放せない。


問題に対して効果があるのは、抵抗するのをやめて、受け入れて、受け流す、
その姿勢を示してしまうこと。

「問題?
OK、OK。 いくらでもくればいいさ。
よしっ、ここ一番最高の困り方、驚くほどの困り顔を発揮してみよう。
誰もが驚くくらいの、困り方をして、この悩みを、大歓迎してやろう~。」

くらいの気概ある受け入れ態勢で待ち構える。

すると、問題はその力を失い、
恐れが恐れでなくなってしまう。


自分が恐れや怒りや悲しみの、その“意味”であることをやめてしまうのだ。


これが手放すということ。

*日本の地震と津波の被害からの復活を祈るイベントにて、
3年ぶりに素敵なインドのお母様にお会いしました。

このお方は南インドに約40年程住んでおられるのです。

40年前の、とても美しい日本語をお話になられます。


Img_0139_2

日本人としてのたおやかさ、芯の強さ、そして優しさと繊細さの中に、
カレーの隠し味あり、


そんな
見事な日印融合の魂にいつも奇跡を感じずにはおれません。

| 向井田みお |

Welcome Fear! 恐れを受け入れる!Yoga的感情ソリューション③

「Welcome、ウェルカム!

 さあ、怒りも悲しみも、嫉妬も恐れも、バンバンくるがいい。
全部まとめて受け入れてやる~」

こんなふうに、強気にいってしまおう。
すると、それらの感情が力を失くすのだ。


感情は起こっても、自分が抵抗しないから、感情は“問題”として変質して、自分を縛らない。
自分にしがみついてくる力も失くしてしまう。

恐れに対して、問題に対して

あがかない。
抵抗しない。
思いっきり受け入れようと覚悟する。


それが実質、“問題を手放す”、ことになる。


恐れも
怒りも、
悲しみも、
変わることへの不安も、
嫉妬も、
憎しみも。


ふとした時に、自分の中で芽生えてしまう良からぬ感情たち。
あまり歓迎できない思いたち。


「こんなことに、いちいち嫉妬して憎んで、私はホントにバカじゃなかろか?」
という思い。

「こんな小さなことに、腹をたててるなんて、なんていう了見の狭さだろう?
なんという人間の小ささだろう?」

自分で自分を評価して、ダメだと決断をくだすこと。
厳しく自分をみて、ジャッジし、蔑むこと。


自分でいることに、落ち着いていられないこと。


そんなことも、みんな受け入れてしまう。


思いも感情も、すべては“心理の法則”という“自然の理”に基づいて起こっている。
自然を司る、法則と秩序の中だけに、私たちの思いや感情や考えはある。

自分はまさにその中にいる。
その法と秩序に満ちていて、それ以外の事は何もない。


Yogaの経典は、はじめからいっている。

「この法と秩序こそが、世界そのもの、『イーシュヴァラ(全体世界)』である。

『イーシュヴァラ(全体世界)』がすべてに現れ、すべてを機能させている。

世界が法則として、自分に満ちている。
世界が秩序として、自分に広がっている。
世界でない自分なんて、どこにもいない。

「自分、自分」
というこの考えさえ、自然の理が在るから、可能なのだ。

人の本質は、世界そのものである。

その世界が、人の本質であり、それは他ならぬ、この自分の本質である。


この自分と『イーシュヴァラ(全体世界)』はただ一つ。

同じ真実から現れた、秩序であり法則であり、世界のすべて、そのものである」

*南インドのお寺の入り口には、
イベントの朝、奇麗な絵が描かれる。

こんな風に地面に直接書かれているのです。

そして、これは不思議なことに、いくつかの点をベースにして、後は自由に線をつけたしていくという書き方。

点で絵の枠をきめているのですね

Cimg1179

となりのインドのオッカサン。

この人も今日は朝、お家の玄関にいい絵を描いてきたんだろうな~

絵を描くのは、家庭を守る奥さまの仕事なのです。

| 向井田みお |

Welcome Fear! 恐れを受け入れる!Yoga的感情ソリューション④


自分の物の見方、
世界と自分へ対峙する姿勢

それがかわるだけで、
問題が“問題”でなくなる。

具体的にいえば、
出来事や人々という単なる現実が、自分の中で“問題化”して、発酵し、自分を悩ませることをやめてしまうのだ。


何かの拍子で湧きあがってくる負の感情も思いも、

「Welcome!」

といいきってしまうことで、
流れてゆく。

ちなみに、

これは私の勝手な方法ですが、
せっかく受け入れるからには
少々オーバーに、
大袈裟なくらいに受け入れようとすると、効果が高いようです。


例えば、心に嫉妬が生まれたとする。
それに気づいたら、

「おお、嫉妬きたね、よしよし。
では、これが“The 嫉妬”という、他の人がまねできない程の、嫉妬をしてやろう!

半端ない嫉妬っぷりを、
この世界でこれ以上の嫉妬なんかできないくらいの、

最高の嫉妬をみせてやるぅ~」

くらい、もうヤケクソになって心で叫ぶ。

すると、熱い嫉妬は妙におちついて、数秒後冷めてしまう。
思わず自分でも笑ってしまう。

そこまで心にゆとり、スペースが生まれる。


恐れや怒りについても同じこと。

「皆がヒクくらい、世界一の怒りを発揮してやる!

今までこんなに怒った奴なんていない、ってほどの怒りをなっ。
さあ来い、怒り!」


ここまで言うと、もう怒りを通り越して、気分がいい。
そして、頭をもたげていた怒りが、自分の中で力を失ってしまうのだ。


悲しみも寂しさも、同じように、調子よく受け入れてみる。


「奈落の底に届くくらい、落ち込んでやる。
這いあがれないくらい、深く深く悲しんでやろう。

涙なんかもいっぱいながして、周りはみんな貰い泣き。

それくらい、悲しもう。

最高の悲劇の主人公になるチャンス。

 ありがとう、悲しみ。
Come on!、悲しみ、ここにくればいい。」

恥ずかしさも、後悔も、憎しみも、孤独も、
今まで抵抗して避けようとしていた感情に、心を開いて正々堂々と向き合い、受け入れてしまう。


すると、

う~ん、不思議なことだ。


すべて、どうでもよくなっていくのだ。

本当に。

*ここ南インドでは、イベントの日には神聖な気が出入りする入口に

「ランゴーリ」という絵を書きます。

ちなみにこれはアスファルトに直接、細かく砕いたお米の粉を水に溶かして書いています。

Cimg1180


うぅーむ、芸術。

消すのがもったいないけど、ランゴーリの寿命は短い。 

儚く消えゆくものに妙な美しさを感じる大和魂より。。

| 向井田みお |

Welcome Fear! 恐れを受け入れる!Yoga的感情ソリューション⑤LAST

なんだ、『受け入れる』って、
こんな簡単なことだったのですか。


だったら最初からいってくれればよかったじゃないですかっ?!
と,
先生やYogaを教える経典に詰めよりたくなる。

けれど、彼らは最初からいってくれていたのだった。

自分が、聞いていなかったのだ。


「我々は最初から同じことをいっていたよ。

キミの問題なんて、本当は何の問題でもない、ということも。

怒りも、恐れも、悲しみも、抵抗なく、反応なく受け入れてしまえばいいということも。

なぜなら、それらすべての感情の起こりも、プロセスも、1つの秩序と法則の元に全く当たり前、自然の摂理としておこっているから。

抵抗して、問題にする必要なんかない。


そして、その法則と秩序にいつもキミ自身がいる。
キミ自身の中に秩序と法が溢れている。
キミこそが、この世界の秩序と法に他ならないということを。

さらに、真実の視点からみれば、その法則と秩序そのすべての根源には、いつもキミがいるということも。」

きっとYogaの最終的な経典『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』を理解する、というプロセスも同じなのだろう。


大事なこと、本当の事は自分にある。


『タットヴァマシ तत् त्वम् असि(you are that、キミこそが真実)』

この言葉が経典の最終的なメッセージなのだが、

経典はこれを何度も言う。

聞いている人が解るまで、何度でも。

でも、私たちは聞こえていても、聞いていない。

聞いているのに、解っていない。


それだけなのだ。

問題は自分の中にある。

そして解決も自分の中だけにある。


解決する方法も、その教えも、いつも自分の周りに在る。

それに気がつきさえすればいい。

聞く気になって、耳をかたむけ、理解しようとすればいい。

大事なことは、素直に心を開いていくこと。

ありのままをありのままに映しだせる、
曇りのない鏡のような、心の在りかの大事さにある日気がついて、
そのために努力していればいい。

そしていつの日か、この経典の教えが、私たちに聞こえる時がくる。

私たちを根本から自由にするという教えが、
きっと聞こえる時がくる。


それがまさに、自分の事、自分という者の意味として、実感する時がくるだろう。


その時、私たちは完全に自由だ。


Yogaの練習、Asanaも呼吸も瞑想も、すべてがこの自由へ向かっている。

だから大丈夫。

安心して歩いていけばいい。

途中いろいろな問題に囚われそうになっても、1つづつ受け止めて、そして受け流し、
前へ前へ進んでいこう。

もう恐れに、恐れることがないように。


Cimg1183

*先日南インドのお正月がありました。ここは月のカレンダーをつかっているので、
新年の意味も日付もグレゴリオ暦とはだいぶ違うのです。

というわけで、いつものとおりお寺で『プージャ(儀式)』

『ヴェーダ(聖典)』の儀式がとりおこなわれました。

それにしても、儀式をする人はみんなガタイがいいのぅ~

いい食べ物を食していらっしゃることでしょう。

| 向井田みお |

2011年4月12日 (火)

思いを形にして結果をだす!Yoga的誓い『サンカルパ संकल्प(誓い)』①

さあ、新しく始めよう!


と、意欲満々でスタートする気持ちのいい日がある。

特に桜が咲くような、美しく爽やかな季節には。

しばらくは、この高いテンションのまま意欲を保っている。
けれど、明快な決意と熱い闘志とともに始めたはずなのに、
思い通りにいかないことや、数々の邪魔がはいり、挫折することがある。

最後までやり通したい、
あんなに強く望んでいたはずなのに、途中の困難にくじけて、完遂ならずに至ることもある。

そんなことはよくあることだ。。
いや、

そんなことばかりかもしれない。

例えば。

小さなことから

「よし、明日から朝4時起き! めちゃくちゃ勉強してやる~」

と思っても、いざ次の日の朝4時には、目覚ましを放り投げている。
あげくに、魅惑の二度寝に惑わされ、後になって激しく後悔したり。


「もう体に悪いあんなことや、こんなことはしない。
金輪際あんなものも、こんなものも手をだしまっせん!」

そんな風に決意しても、いざ破壊的に魅力あるものが目の前にやってくれば、あっという間に転んでしまう。

「瞑想しよう。」
と思っても、いつの間にか迷走に走っていたりもする。。

「これからは毎日Yogaだー。」
と決意しても、体は楽な方、楽なほ~うへ惹きつけられていく。

いつも何かを思い通りに達成できていないような気がする。

決意しては後悔し、後悔してはまた次の決意を繰り返しているだけ。

そんな思いに打ちのめられそうな時がある。

「結局キミは、何かを掴めたのか?」 と己に問うてみれば、
「いいや、まだ、なんにも、」と答える自分がいる。
どこにも到達していない、敗北感に満ちた空しい自分が。

「ミジメだな。。」
そんなため息をついては、じっと小さい手を見る。

。。そんなわたくしでした。

これは何が原因なのだろう?

生き方をよりよくしよう、というかなり前向きな願望があって、それを実行しようとすると、なんだか上手くいかずに挫折してしまう。

意志が弱すぎるからなのか、根性が足りないからなのか、周りの障害がありすぎるのか?

こんなことを繰り返して、何も持たずに惨めに人生は終わってしまうかもしれない、

そんなふうにすら思っておりました。


でも、しかし。

すべてを諦めるにはまだ早かった。

Yogaにはこの思いを形にする際に、様々な障害に負けないで突き進めるようにしてくれる、有効な手立てがあるのです。


初めに聞いたときは、インド特有の、いやYoga界やスピリチュアル界に特有の大言壮語か?と思っておりました

が、これが大変有効かつ実践的に現在の私に機能しているので、

そのことを今回はお伝えいたします。

Cimg1175

清々しい朝日を浴びて、春の日に、よいスタートを切りたいですね!
今度こそ、挫折なき人生を~


| 向井田みお |

思いを形にして結果をだす!Yoga的誓い『サンカルパ संकल्प(誓い)』②<実践編>


その方法は 『サンカルパ संकल्प(誓い)』 というYoga的な誓い。



思いを形にするときに、固めた意志を、自分に対して言葉と行いを通して表明すること。

そして世界に対しても正々堂々と決意表明し、誓いを立てること。

これが『サンカルパ संकल्प(誓い)』


瞑想をする前、
Yogaをする前、
何かを実行しようと決心した時、


やり遂げたい、という思いが高まり、いよいよ実行に移す前に、
“誓い”を立てる。


どんな小さなことでも、何事かを為すときには、まず自分の意図を明確にする必要がある。

何をどうしたいのか?
そのために必要なものは何か?
行いの最終的な目的は何か?


曖昧な態度で自分が迷わないように。


そして外からの障害がないように、自分を取り囲んでいる世界に対しても、この意図をしっかりつたえる。
“言葉と行い”を通して。

<< 『サンカルパ संकल्प(誓い)』のやり方 >>

*この方法は、インドの聖典『ヴェーダ(聖典)』に基づいた伝統的かつ、有効的なメソッド。

有効か否かは長いインドの歴史が証明しているようです。歴史上現れた数々のYogaの達人や賢者たち、並みい

る人々を驚かしてきたインド発のスピリチュアルの大御所たちが証しとなっています。

それは、よい結果がでている! ということです。
ですので、どうぞご安心を。

<方法>

・背中、頭、首のラインをまっすぐに、瞑想の姿勢で座ります。

・左手の手のひらを上向きにして右腿の付け根におきます。
その上に右手を、握手するように重ねます。

・目を閉じ、集中します。
達成したいこと、これから行うことの目的を明確にして、心の中でヴィジュアライズ(視覚化)します。


・そして決意表明。

サンスクリット語でも、日本語でも、もう何語でもいいのです。
自分が一番しっくりくる言葉で、思いを言語化します。

しっかり、思いを自分と世界にいい聞かせるように、心の中で宣言します。


例えば

「明日の朝は絶対4時に起きて瞑想します。」
という毎日の些細なルーティンについてでもいい。


「これからは発言において、行いにおいて、思いにおいて、暴力的な内容を慎みます。」
という、大きなヴィジョンに基づいた生き方についてでも。


「OOOプロジェクトを始めます。」
という実社会で為すべきことについても、もちろんOK。


どんなことでも、自分の意志で、これをやろう!と決めたら、できるだけその目的とゴールを明確にするのです。

そして自分に対して、世界に対して願いをこめて心でしっかり、次のような内容を唱えます。


「私はこんな決意をして、今からこれを行うつもりです。
どうか自分に最大限の祝福がありますように。

これまで積んできた自分の『カルマ(行いの結果、業)』がどうか邪魔をしないように。

もし障害になるファクターが自分の中にあるとしたら、どうかそれらが解消していくように。

自分の決めたことを完遂することができるように。」

最後に思いを込めて自分自身に誓います。

これで完了。

大変、短く、簡単。
しかし、簡潔ながらも、効果は満点。

ポイントは、
思っていることを、言語化し、視覚化すること。
それを自分自身と、姿はみえないけれど世界という第三者に伝えようとすること。

こうすると目的への具体性が増し、実現化へ向けて真剣度が上がるようなのです。

『サンカルパ संकल्प(誓い)』では

自分の意志と思いを、世界にも宣言するというのが、非常に大事なポイントです。


Yoga発祥の地インドでは、この世界のことを『イーシュヴァラ(全体世界)』といいます。

この全体世界は、自分の体の外にある世界、友人や知り合いや敵や見方、いろいろな関係を結んでいる人たち、

それと数えきれない程の物事を含んでいるのは然ることながら、

私たちの体、体の機能、精神も含んでいます。

そのすべてを“世界”といっているのです。

Yogaの経典にいわせれば、

自分の体や心もこの『イーシュヴァラ(全体世界)』である。


今ここに現れているのも世界であり、

それを秩序の元に機能させ、維持しているのも『イーシュヴァラ(全体世界)』である、と。


*私、ただ今『サンカルパ संकल्प(誓い)』を行っております。の図

Cimg1124


| 向井田みお |

思いを形にして結果をだす!Yoga的誓い『サンカルパ संकल्प(誓い)』③

この世界で生きている。
Yoga聖典では、世界はすべてが1つの大きな法則と秩序の上に成り立っているという。

例えば、地球や太陽や月を含めた様々な惑星や恒星は、ある一定の距離を保って、一定の運行を続けている。
この動きは、ある1つの秩序の元にある。

それぞれ別々の法則にしたがって、めちゃくちゃに動いているわけではないから、全体として調和がとれている。
1つの法則を土台にした調和の中で、それぞれが生きて活動している。


スケールの大きな部分もそうであるが、
私たちの体を構成している約60兆の細胞の1つ1つも、バラバラに動いているわけではない。


それぞれが1つの法則、1つの秩序のもとに、活動し、体という全体を動かし、機能させている。


自分の体だけではなく、その法則は他の人、他の生き物の体にも共通している。

“お医者さん”とは、体という観点から、この1つの法則をみているから、
いろいろな人々の別々な体を“秩序と調和に戻すこと=治療”、ができるのだ。


ということは、すべての生き物には共通の法則が行渡っている。

どの生き物も、自分の意志に関係なく、体は自然の調和にあった一定のリズムで心臓を動かし、呼吸を繰り返している。
海の波のように、風の流れのようにリズムを保つ。


どんな生き物の体も季節が巡るように、一方向の時間の中で自然と変化していくようになっている。
私たちの思いとは無関係に。でも確実に。

さらにYogaの経典が強調するのは、この法則は、物理的な体を機能させ、維持しているだけではなく、私たちの精神、心、思いや感情の法則としても広く満ちているという点。

自分が怒ったり、悲しんで涙を流したり、喜んだりできるのも、この法則があるから。


自分が誇れる思いも、
蔑みたくなるような感情も、
すべてこの法則の元に動いている。


だから、自分でも認められない、認めたくないある思いや感情に対しても、

「ああ、自分はこんなふうに考えて、反応してしまっている。
なんてバカでダメで大馬鹿野郎なんだ!」

と自分を責める必要はない。

1つの法則と秩序の中で感情や心も機能している以上、

もしだれかが同じ立場、同じ状況にいるとしたら、だれもが皆同じことを考えるし、同じように反応するということだ

から。

自分の怒りや恐れという、受け入れ難い感情でさえも、すべてが『イーシュヴァラ(全体世界)』の法則にある、という。

こう世界をとらえると、
自分のすべてを肯定できるような気がする。


体も心も、感情も含んだすべても、

自分だけが勝手に1人で決めている訳じゃない。

たった1人で、生きているわけじゃない。

自分に全責任があるわけじゃなく、法則と秩序の繋がりに、自分がいるのだ。


しかし、これが判ったからといって、いきなり

「自分全肯定!」は、ムリかもしれない。


だけど。

少なくとも、

“世界から離れている、という感覚から生じる孤立感”

“自分はダメな奴じゃないか、という劣等感”


は薄らいでいく。


『イーシュヴァラ(全体世界)』が自分の体にも、考えにも、感情にも満ちている。

今この瞬間も自分を生かし、機能させている。

我ながら認められない体や、受け入れたくない感情や行いも、すべてが世界であり、

自分がダメだしをしている、この小さな個の中にも世界が広がっている。


認めようが、認めまいが、Yogaを説くインドの経典では、疑い様のない事実としてこのことを私たちに告げている。

これは、信じることでも、鵜呑みにすることでもなく、
理解することだ、といって。

「その気になったら、全体世界以外のものが一体この世界にあるかどうか?
よく検討してみたまえ。
自分の頭で、この世に『イーシュヴァラ(全体世界)』以外のものがあるかどうか?
考えてみたまえ。」


そんな風にいって悠然と自信たっぷりに、経典は何千年も在り続けている。

そして小さくて、不安で、孤独で、悲しみの海を越えられずにいる人間に教え続けている。

昔も、そして今も。


*本文とは無関係写真シリーズ

ある日、

友人が荷物をだそうとして、ベッドの下の引き出しをあけたら、こんなものが入っていた。↓
Cimg1193


猫だ。

すごい、インドという国はあらゆる意味で Beyondビヨンド(超越している)。。。


とりあえず、そのまま引き出しの中にしまっておくわけにもいかず、
バケツに移動。


以後「引き出し猫」から「バケツ猫」となったベイベーたち。


| 向井田みお |

思いを形にして結果をだす!Yoga的誓い『サンカルパ संकल्प(誓い)』④

思いを形にして結果をだす!Yoga的誓い『サンカルパ संकल्प(誓い)』④

さあ、自分自身と世界に、思いと意志をしっかり宣言しよう。

揺らがない誓いを立てて、飛び出していこう。

準備万端。
OK, All Right!

気持ちが整ったところで、あとは思い切って全力で事を成し遂げる努力をするのみ。

たとえ思い通りの結果にならなかったとしても、
自分と世界に誓って、真剣に立ち向かったことに対しては、
ひどい後悔はありません。


「あーやらなきゃよかった、やっぱりこっちにしとけばよかった。」

とか、

「なんでできないんだよぉ~」

などの嘆きが『サンカルパ संकल्प(誓い)』の後は非常に少ない。

それが今まで実践をしてみて、私が感じていることです。

行いはすでにこの『サンカルパ संकल्प(誓い)』から始まっていた。

心の準備をし、真剣に取り組んできたことが、自分の思い通りにならなかったとしても、

それを後悔していない。

いい加減な気持ちで、雑に始めたわけじゃない。

頑張った。できる努力は全部した。

全力投球だった。


それだけ初めから真剣に世界に対して行いを放ったので、

予想外の結果として世界から何を返されても、あまり気にならなくなっている。


結果を素直に認められている。そして受け入れている。

「真剣にやって、全力で立ち向かってこの結果がきた。
もう、それでOK。」


なぜか素直にそう思えるのです。

“行い”のことをYogaでは、『カルマकर्म(行い)』といいます。


その“行いから生まれた結果”は、『カルマパランकर्मफ्लन्(行いの結果、行いの実)』

結果は、行いという種が生んだ『果実(パラン)』なのです。

真剣に種をまいたのだから、その果実は何が実ろうと、構わない。

理屈はよくわからないけど、自分がそう納得している。


すべての行いは、結果を生む。


行いは自分で決めた。

でも、その結果は、自分ではどうにもできないところにある。

だから結果に対して、自分には責任もなければ、非もない。


行いを世界に放つ、ということは、世界という大きな大地に種を埋めること、ともいえる。

後は、世界の法則を通して、実るべきものが、ただ実る。

私たちに返される行いの結果は、すべて『イーシュヴァラ(全体世界)』に委ねられている。


自分はそれを受けとめればいい。

結果について自分ができることは、何もないから。

失敗も成功もない。

ただ世界に委ねるだけだ。


行いのすべての結果が、いつも自分の期待通りとは限らないけれど。

期待以上のときもある。「ラッキー!」と叫んでしまうような結果がやってくることがある。

期待どおりのこともある。「よしよし、まずまずだな、」といって受け入れる。

期待以下の時もある。「なぜだー!?」と言いたくなる。でも受け入れる。

期待を超えて、正反対の時。 もう世界に楯突く気にもならないほど、凹んでしまうだろう。それでも、受け入れる。

これらの結果はすべて、世界からもたらされたもの。


そう納得して、何が自分の元にやってきても受け入れる態度を、
Yogaでは、『プラサーダブッディ(結果を大きく受け止める)態度』といいます。


この態度でいることが、実はかの有名な
『カルマヨガ(行いのYoga)』の本当の意味なのです。

『プラサーダブッディ(結果を大きく受け止めること)』で

自分にやってきたものの、すべてを受け止めてしまう。


それだけ、大きく、客観的でいられれば、

世界には何の問題もない、と経典はいう。

こんな風に世界と自分は、いつも繋がっている。

離れることなど、できない。


離れている、と思う孤独感から不安になり、世界を恐れる。

大きな世界の中で自分は何者でもない小さい奴、という思いから

いつも誰かに認められようとする生き方になる。

でもその思いは、単なる独りよがりの思い、なだけ。

事実を知らなければ、ただの勘違いかもしれない。

Yogaの経典は、そんな切ない人に向かっていう。


キミが恐れる問題は、全てキミの勘違さ。」

 

そうだ。
本当にそうかもしれない。

私たちは、自分自身を解っていない。
世界のいろいろな物事には詳しくなれるけど、世界は何か?を知らなさすぎる。
自分と世界の繋がりがみえてない。

これを見せてくれるのが、そして解るまで教えてくれるのがYogaの経典の役目だ。
彼自身、そう自覚していて、経典にはこんな言葉もある。



「キミが納得いくまで、やむことのない雨のようにこの教えを浴びせ続けよう。
キミの悩みや不安が、晴れるまで。」


経典の言葉は、全体世界『イーシュヴァラ(全体世界)』の直接の言葉でもある。

このことを納得するために、

単なる“繋がり”以上の関係をもつ世界と自分自身の真実を知るために、

私たちは祈ったり、お寺にいったり、瞑想したり、Yogaをしたりする。


この繋がりを、よりはっきりと事実として実感するために、行いをする前に、世界にも思いを宣言する『サンカルパ संकल्प(誓い)』はある。


意識的な世界はこの小さな私の誓いを受け止めている。

私の元に返ってきた結果が語っている。


*本文とは全く無関係な写真シリーズ
Cimg1195
例の「バケツ猫」たち。

あんまり寛いでいるから、ちょっと突っ突いてみましたよ。

も~う、むにゅむにゅ。

かわいいのぅ~


| 向井田みお |

思いを形にして結果をだす!Yoga的誓い『サンカルパ संकल्प(誓い)』⑤ LAST

今まで自分で決めて、やろうとしてきたことがうまくいかなかったのは、もしかしたら、
この“誓い”が足りなかったのかもしれないな、と今では思う。

そんなに真剣じゃなかったのかもしれない。

自分を信じていなかったからなのかもしれない。

世界を信頼せずにいたからかもしれない。


でも今は、ここ一番の時こそ、世界全体に宣言し、誓う。
そして、世界を味方につける。

誓いを立てて、
自分の真剣度を表明する。

自分自身も、世界も、いい加減にしたり、ダマしたり、誤魔化したりしない。
本当の思いを、言葉にして、行いにして外につれだすのだ。

『サンカルパ संकल्प(誓い)』自体は、インドでは、儀式の前に使われるメソッドでもある。

儀式には『ヴェーダ(聖典)』によって、数々の形式が決められている。
それらは、長い歴史を経て、有効であったからこそ今でも残っていて、沢山の人々に今も毎日の生活の中で実践されている。


私たちの本当の思い、強い願い、魂の叫び、そんなスピリットSpiritは形式に宿るのだ。
そして、スピリットSpiritは、形式を通してのみ、世界に現れることができる。

スピリットが形式にのって、外に連れ出されるとき、
その思いは、必ず誰かに伝わる。


それを受け止める存在は、私たちの目に見えていようが、いるまいが。

だから、ただ単に願ったり、思っているだけだと効果が薄い。

思いは、言葉や行いという形式にのせて、世界に放たれ、形となって現れるものだから。

『サンカルパ संकल्प(誓い)』は私たちの思いを、聖典で有効とされている方法で世界に連れ出し、伝えることができる。


だから、結果がでるのだろう。

さあ、世界に心を開いて、正々堂々とやるべきことをやろう!


節電日本の皆さま。被災地の皆さま。

大変なご苦労があるかと思います。電気にあまりにも慣れすぎた、私たちの生活から電気がなくなるということは。
インドにきてそれは、痛感しております。

でもつらいときは思い出してほしい。
こんな生活をインドで送っている日本人がいるということを。

Cimg1198


これは私のバスルーム。
バケツ4つで生きてます。

左から、洗濯機(バケツ)、お風呂(バケツ、

冷蔵庫(冷たい水で果物を冷やす、でもバケツ)

右はじは、手動水洗トイレ用(バケツ)

冷蔵庫用バケツだって、贅沢で冷やしているわけではないのです。こうしてないと、激暑インドでは果物や野菜が傷んでしまうから、やむにやまれず保存用に。

といわけで、
人間の暮しってここまでプリミティブになれるものなんですね。

ちなみに、インドの人の平均バケツ使用率(そんな率あるのか?)は1-2個。
どうやって日々を凌いでいるのか、未だに謎です。。

| 向井田みお |

2011年4月 4日 (月)

「アキラメ」からのYoga的再出発!①


物は、
出来事は、
移り変わる。
留まることなく、変わりゆく。


手に入れられる物はいつか形を変え、なくなってしまう。
どんなに守ろうとしても、失う時はいつだってやってくる。
逆に、どんなに拒んでも、来るべきものは向こうからやってくる。


やっとのことで辿りついた場所や境地は、いずれそこから去らねばならない時がくる。
楽しい喜びも、苦しさや悲しみも、時間とともに移り変わってゆく。


でも、そんな変化の中で、自分の中の「何か」が、確かに、変わることなく、
移り変わる物の流れをいつもみている。
それは「何か?」
この自分とは「何か?」


そんなことは言葉にはできないかもしれない。

けれど、
確かに変わりゆく物や状況の中で、変わっていない「存在」が確かにある。

そのことは、みんな知っている。
わからないのは、それが「何か?」ということだ。


自分は、変わることのないその「存在」をどこかで知りながらも、
水のように絶えず、光のように早く変わっていく物事の中にいて、
時に空しい気持ちでそれをみている気がする。

ずっと一緒にいられると思っていた人たち。
長い時間、共にすごそうとしていた場所。
自分を守ってくれるはずだった物。
安心を与えてくれるはずだった状況。


そんなものが、自分の方にやってきては、遠ざかっていく。
それが毎日、毎瞬、繰り返される。


「その『空しさ』こそが、生きていることだよ。」
そんな風にいう人は昔も今も、たくさんいる。

けれど、
失うことはあまりにも、悲しい。
せっかく得たものが、いつの間にかハラハラと姿を変え、なくなってゆく空しさ。
自分の力ではどうにもならない変化の中にいることは、とても恐ろしい。


だから
「生きていることは、空しいことの連続、空の中で生き、空に戻る。
所詮、世界は諸行無常なのさ。」

そうやって決めつけて、予防線をはったような気になることもあるかもしれない。


どうしようもない恐れや悲しみを封印するように、
「人生が無意味なんてこと、もうとっくに知っているよ。」
と強がったり。

また何かに気をとられることで、時に見ないふりをして、
なんとか日々をやり過ごしている。

でも心の奥にいつも潜んでいる、

「変わりゆく世界の中でたった一人、佇んでいる自分。」

流れる世界の中にいる、とても小さくて無力な自分。
この無意味さ。
その事実への恐れ。

たとえ何かに夢中になるフリをしていても、絶対に忘れることなんてできない。

うわべをどんな浮ついた事柄で覆ったようにみせても、心の内側には、黒く深い闇が大きく口をあけ、
その中では恐怖と不安というプレッシャーがフツフツ湧いている。

そして何かの拍子で、この黒く深い闇がひょいっと顔を現したとき、私たちは生き方の基本姿勢ごと大きく揺さぶられる。
Cimg1126

私の探すべきものは何処へ~

| 向井田みお |

「アキラメ」からのYoga的再出発!②


自分の中にいる、この闇から自由になりたい。

不安や恐れから、そして「変化」が私たちに置いてゆく悲しみから自由になりたい。

いつだってそう思う。


それが私たちの今の生き方の基準になっているのかもしれない。
だから
私たちは、「安心」と「幸せ」を、どこにいても、どんな時も求めている。


救いになるか、本当の助けになるかはわからない。

だけど、何かを探求せずにはおれない。
求めないわけにはいかない。

本当に自分を「安心」に、「幸せ」にしてくれるものを。


心の奥の不安と恐れがある限り、私たちはそれが本当かどうかも知らずに、
とにかく何かをいつも求めている。

自分を「安心」にしてくれそうなもの。
お金、土地、保険、家、家族、物、地位、権力、、、

自分を「幸せ」にしてくれそうなもの。
美味しい食べ物、奇麗な飾り、洋服、音楽、素敵な生活用品、、、

気がつけば、巨大な防波堤のように、私たちは沢山の物と、多くの人と利害を含んだ関係を築いている。
そして、安心、幸せになったような気になってみる。

たしかに、一時的な安心感、幸福感はこれらの物や関係が満たしてくれるだろう。

でも、自分だけは知っている。

手に入れたそれらも、いつか形を変え、壊れ、失う宿命にあるということを。
防波堤の中には、世界の流れとウネリにささやかに抵抗しながら、いつも弱くて小さい自分が、たった一人で世界に立ち尽くしている、ということを。
消すことのできない不安を抱えながら。

そして
集めた物と築いた関係に囚われて、身動きがとれなくなっている。
必死に守ろうという思いから、自由を失っていたりする。

新しい物を手に入れても、いつでも中心に不安な自分がいる限り、
すぐに次の物を手に入れようとしてしまう。

求め続けることからも、自由になれずに。

何かを求める続けることは、裏返せば、不安であり続けている、ということ。
どんなに「安心」に「幸せ」に見えたとしても、探求すること自体から自由になっていないのだとすれば、人と物で築いた防波堤だけがどんどん大きくなり、中心の自分はいつまでも小さく無力なまま。


世界のどんな物も、この非力で小さなひとりぼっちの自分を変えてくれることはない。
外の物は、この求め続ける生き方を、変えることはない。


私たちが本当に欲しいのは、
この不安と恐れと悲しみからの自由。

それは同時に、何かを求め続けなければならないことからの自由を意味する。

外の物は、心が根本的に要求することを、叶えてくれることがない。
どんな物を手に入れても、どんな人と関わり合っても、
いつまでも心が満たされることがない、という事実がそれを証明している。

その時、私たちは物や状況への限界を見てしまう。
根本的な要求を満たすことのできない物を求め続けることに、ある種の「アキラメ」を覚える。
Cimg1188

前回の記事でご紹介した『जप ジャパ(マントラ瞑想)』でつかうマーラー(数珠)用の『ルッドラクシャ』の実をつける木を発見。
遠くの空にむかって実をつけています。

本物の『ルッドラクシャ』の数珠は1000年もつそうです。


| 向井田みお |

「アキラメ」からのYoga的再出発!③

外の物は自分を満たすことができない、求める生き方を変えることができない。

この「アキラメ」をYogaでは、
『ヴァイラーギャンवैराग्यम्(冷静さ、諦観)』といいます。

その人の人生において、とても大事なターニングポイントにきていると、
そう言って歓迎してくれるのです。

みせかけの「安心」と「幸せ」っぽさ。
そういう物を追いかけまわし、それを守ることで消耗することへの無意味さを知ること。

「外へ、外へ。次から次へ。」
際限なく何かを求め続ける生き方では、自分の本当に求めていることは達成できないことを知ること。


物に頼ることを諦めることは、本当の意味で自分の心の奥に潜む欲求と向き合う準備ができた証拠である、と。

そんな風にいって、私たちの空虚感をYogaでは、
“とても人間的な成熟の証”といって、奨励してくれる。


物や状況に、自分の「安心」と「幸せ」は頼れない。頼らない。

“何かにすがり、頼ろうとする生き方”に対して「アキラメ」を持ち、本当に自分が求めていることのために生き方を変えようとする。
自分の心ときちんと向き合い、生きていく方向性をしっかり見極める。


その見極めを
『ヴィヴェーカविवेक(見極め、識別)』といい、

『ヴァイラーギャンवैराग्यम्(冷静さ、諦観)』とともに、自分の本質的な問題と取り組む準備ができた証し、としてYogaを志す人の、持つべき大事な資質であるといいます。


でももし、ある日、こんなアキラメと見極めが芽生えてしまったら、
持っている物やお金や権力が「幸せ」の物差しになっているような社会で生きていくのは難しいかもしれない。

アキラメが芽生えてから、どこへ向かえばいいか指し示されるべき方向性が見えず、
教えも方法論もない場所では、余計に難しい。

虚無的になって、いじけるか、開き直るか、ドロップアウトするか?
それしか選択がないようにみえる。

でもYoga的には、この心の準備ができない限り、本当の意味でYogaに生きることはできない、という。
どんなスピリチュアルな探求もきっと同じことなのだろう。

Yogaでは特に、
この境地に至ることは、人間にとって大変な成長だ、といって大歓迎してくれる。

「キミ、そのアキラメが芽生えたら、人間としてやっと本質的に為すべきことへのスタートポイントに立つことができたのだ。
おめでとう!いよいよこれから、キミの本格的な探求がはじまるぞ~。」

そんなことをいって、背中をバンバン叩いてくれそうな勢いで、Yogaの経典はこの空しい気持ちを抱えた私たちを迎えてくれるのです。

勢いと同時に、Yogaではこの境地に至った人が辿るべき道、
成熟が達成された人にのみ開かれた道を示してもいる。

アキラメを知り、探求の方向性を見極めた人が
次に何をするべきか?何を知るべきか?

「こうなる日を私は長い間、待っていたのだぞ!」
とばかりに、経典はその人に指し示すのです。

明るく開けた道に続く自由を、もうその人が迷うことがないように。

『バガヴァッドギーター』という経典でも、この人間の成熟の過程が表現されています。


主人公アルジュナにある日「アキラメ」が芽生え、
何が大事か?という見極めができました。でもそのことで、彼は激動の世界で生きる意欲を失ってしまったのです。
その時、進むことも、退くこともできず、彼は彼の師クリシュナに助けを求めました。

「どうか、クリシュナよ、私に教えてほしい。
この心の内にある、どうしようもない空しさとすべてを焼き尽くすような悲しみを越える方法があるのなら。
その教えをどうか教えてくれないだろうか?」

道を求める真摯なアルジュナの言葉を聞いた師クリシュナは、

「ずいぶん長いこと、待たせたじゃないか!」
ともいいたげに、実に嬉しそうに笑いながら、主人公にYogaの教えを説いていったのです。
Cimg1177
季節はもう夏。
おいしそうな、ジャックフルーツが毎日ムクムク大きくなっている!
味は、昔なつかし
「バブリシャス」というガムの味。
お若い方はご存じないかもしれませんな。。

| 向井田みお |

「アキラメ」からのYoga的再出発!④


Yoga哲学の基盤になっている『ヴェーダ(聖典)』のラストの章には、

いったい膨大な経典は何をいい、何を伝えたかったのか?

という教えのエッセンスが書かれた
『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』が待ち構えています。
この章のまたの名を
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』といいます。

その教えはこんな風に語ります。


この世界にもあの世にも、体や五感や心が経験できる出来事や物、そして行いを通して達成できることには限界がある。そのことを見極め、アキラメを覚えた人。

『ヴァイラーギャンवैराग्यम्(冷静さ、諦観)』と、
『ヴィヴェーカविवेक(見極め、識別)』を持った人。

得られる物、行ける場所、達成できる状況をいくら手に入れたとしても、それでは自分の本当に求める自由は得ることはできないと知った人。

その人は、どうすれば自由に辿りつけるのか?を知るために、
答えを知る師の元へ行く。
経典を学び、自由の意味を知り、求める者を導くことができる方法論を持った者のところへ。

彼は教えを求める証として、木の枝を手にし、
“どうか、自分が本当に求める自由に至る道を、教えてください。“
そう師に願うのだ。」
『ムンダカウパニシャッド 1..2.12』

本当の自由と何か?を教える師は、経典に従ってきっとこう教えるだろう。

キミの本当の姿こそが、キミが求め続けてきた「安心」であり「幸せ」だ。

自分とは何か?
その真実を知れば、「安心」や「幸せ」とは自分以外のことではありえない、ということがわかるだろう。

世界とは何か?
その事実を知れば、世界とキミはただ1つの真実であるということが解るだろう。
キミが不安を覚えていた世界の真実は、実はキミ自身の真実と同じ。
けして変わることのない「存在」であることを。

この自分と世界の原理、プリンシプルを知ることが、人を心の奥底の不安と恐れから解放する。なぜなら、世界にはもう自分以外の「存在」はないから。
自分以外のものは真実の視点にたってみれば、何もない。

変わることが無い、第2のものもない。
対立も葛藤も、変動もない「真実」のどこに不安が起こるだろうか?

このことを知る人は、必ず悲しみの海を越えていける。
そして自由へと至る。


本当は、何が欲しいのか?何を求めているのか?

このことがはっきりわかった人。

アキラメと見極めを知る人こそ、教えを教える者の資質を見抜くことができる。
そして彼が説く、するべきことも理解できる。


Cimg1184
文章とは全く関係ないのですが、
インドは本格的な夏をむかえております。

もう暑いの暑くないのって、いったら大変に暑い!

しかも節電東京よりも、もっとプリミティブ(原始的)な定期停電が。
たぶん、電気が通っている時間の方が短い。

でも暑さのおかげで、こんなおいしそうなジャックフルーツが実っておりますよ。
早く食べたいのぅ

| 向井田みお |

「アキラメ」からのYoga的再出発!⑤


自分が本当に求めていることと、
今自分が実際にしていること。

この2つが一致していないと、私たちは自分の中に焦りや不安や葛藤をみてしまう。

これが悲しみと苦しみの原因になっている、とYogaの経典はいいます。

探求が、今している何かと一致していること。


それでも、

「自分は何が欲しいかわからない。
だけど、外の物をいくら手に入れても空しい気持ちが続いている。
だから本当に求めているのは、物や関係や状況じゃないことは確かだ。」

こんな風に見極めはまだにしても、まずはアキラメを知るだけでも、Yoga的には人間として大きな飛躍だと、経典はいいます。

あれも、これも物を無暗に欲しがることから卒業している。


もしかしたら、自分の欲しい物が判らないうちは、
苦しみや悲しみからの自由=『悟り』ですら、自分がいろいろ欲しがる物の1つぐらいにしか思っていないのかもしれません。

「家も、資格も、仕事も、洋服も、彼氏(彼女)も手に入れた。
つぎに欲しいのは、、、う~ん、“悟り”かなっ!?」

こんな優先順位のなさでは、実は“悟り”には至れない、と経典はいいます。
本当に求める「自由」に至るには、その人にとって機が熟さなければならない、と。

物に対する自然のアキラメが無いうちは、まだまだ心が準備できていないかもしれない。

でもだからといって、それは悪いことでもなんでもない、ということも同時に経典はいうのです。


納得いくまで「安心」と思うものを、「幸せ」になれると思うものを手に入れたらいい。
ちゃんと人の道に外れないやり方だったら、何を求めたとしてもいい。
そして、そうやって手に入れてきたものでは、もう自分を本当に満たすことができないと知ってしまったら、その時Yogaに来ればいい。


そういってくれている。


よくあるYoga的勘違いが、
「物には自由はない、悟りはない。だから物を持つことや、物への執着を手放したまえ。」
という教え。


こういった教えを真に受けて、
「執着を生じる物を失くさねば、物を手に入れないように生きねば!」


といって、ムダに我慢したり、欲のないふりをしたり、清貧を装ったり、ある日一切の所有物を処分したり。
そんなことをする必要は、本当のYogaの道にはない。


物を敵に回したり、否定したりはしないのです。


物へのアキラメとは、
“自分の幸せや安心の基盤を、物に委ねない。頼らない。”

その態度と姿勢のことをいっているのです。

便利な物は便利。どんどん使えばいい。
心地よい物、美しい物、体を維持するために必要な物を楽しんでもいいし、持つことを喜んでもいい。
手に入れるために、人の守るべきラインを踏み越えないように気をつけていれば。

物があることを素直に喜ぶ。
でも、アキラメのある人は
それが無かったとしても、悲しむことがない。

物に引きずられない。

物から得られる一時の満足や幸せや、安心がすべてではない、ことを知っている。

本来の自分の幸せとは、自分自身のことであるのだろう。
それは、求めることからも自由であることだろう。

そういうことを判っている。

それが物に頼っていない、ということ。
執着がないということ。
Cimg1190
このYoga寺、アシュラムに生息するなぞの犬。

あまりにも、無防備。 この後ろ姿はまるでおっさん。

犬には悩みないみたいです

| 向井田みお |

「アキラメ」からのYoga的再出発!⑥LAST

物は持っていないと不安。
足りないんじゃないか? 安全を守れないんじゃないか?

物は持っていても不安。
失うんじゃないか、盗まれるんじゃないか、壊れてしまうんじゃないか?

ということは、外の物は根本的な私の不安を、心の奥深くに潜む満たされることのない私を埋め合わせてはくれない。

これが物へのアキラメ。
爽やかな『ヴァイラーギャンवैराग्यम्(冷静さ、諦観)』。


そのアキラメから、開ける道があるという。
そのアキラメと、じゃあ何が欲しいのかを考え、見極めてから始まる道がある。
それがYogaの道。
真の自由へと続く道。

そのアキラメは、物を持っている時には、芽生えなかったかもしれない。

なぜなら、
失って初めてわかることがあるから。
手放すことでは、初めてみえてくることがあるから。

それがどんなに大事なターニングポイントになるか、Yogaの生き方を示す経典は教えてくれている。


自分自身を理解すること。
変わりゆく物の中で、唯一変わらない存在である自分。
それが真の己の姿。

真の自分には、移ろいゆく世界が入り込み、悲しみを置き去りにするすきがない。

たとえ体や心は傷ついたり、不便な体験をしても、
単なる経験は真の自分に不安や恐れを掻き立てることはできない。

自分自身であることに納得している。

そこには違和感も葛藤もない。
静かで穏やかに、満たされている自分自身の真実に足をつけていれば、私たちはそう簡単に外の物に揺らがされたりしない。

どこにいても。
何をしていても。

これが「アキラメ」からその先へと続いていく、
明るいYogaの道なのです。
Cimg1127_2

yogaの道はひたすら明るい。
この道を歩いていてよかった! と思うことは数多い。


これからもこの笑顔っぷりで、明るい道をひた走ります。


| 向井田みお |

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »