迷い,走る「心」を追い越せ!迷走から瞑想へ Yoga的瞑想法⑦
前回(Yoga的瞑想法⑥)で紹介した10のステップを踏んで、瞑想をします。
全行程を踏んで、時間は30分程。
それで十分です。何でもそうだと思いますが、瞑想も長くやればいい、というものでもないのです。少なくともYogaでは、ぼーっと座っていることや、夢見ごこちに心を遊ばせることは瞑想とはいいません。
瞑想でYoga的な効果をだしたいなら、自ら積極的に心に働きかけをする。
客観性と集中力を使い、自分の心を自分で扱えるようにする。
その「心の行い」こそが「瞑想」なのです。
だから、はじめにYogaの経典は瞑想を『心の行い(मनस व्यापार:)マーナサ・ヴャーパーラ』といい、しっかり定義づけているのです。
短い時間でも、ちゃんと集中して目的を明確にして、毎日座り続ける。練習をする。
毎朝、毎晩、少しの時間でも毎日続けること。
毎日自分の心と向き合うようにする。
心を、この人生における自分の最高の友・道具にするために。
毎日の生活で歯磨きやお風呂にはいるのを忘れる人はいませんね?
「忙しいから、うっかり忘れてたよ。」
なんていう方はほとんどいないと思われます。
Yogaでは、体は今回の人生をある目的に向かって走らせるための大事な乗り物、と考えます。その乗り物を整えるため、みんな毎日ちゃんとお手入れをします。
心も同じように、大事な道具です。
心は自分がどこへ進んでいくべきかを決める大事な道具。沢山の情報を集め、判断し、決断し、体を動かしているのが心。
私たちは心も毎日休むことなく使っているのに、深く掘り下げたり、整えたりすることがあまりないのです。
だから本来は“自分”が使う道具のはずの心が、自分を揺らし、迷わせ、弄んでいるようにみえてしまう。自分が心に使われ、心の奴隷になってふりまわされているようにみえてしまう。
いろいろなスピリチュアルな修行も宗教的な練習も、「心をいかに扱うか?」が最重要テーマです。
様々な教えの中には、
“心をなくせ。心の動きを止めよ。問題は心にあるのだから、心の動きを封印して、止めてしまえばいい!” というような乱暴な内容もたくさんあるのも事実です。
でも、それは問題に蓋をしているだけ。
根本的な解決は、動きを失くすことではない。
止めようとすると、心はいつまでも自分の敵になってしまいます。
自分の一番近くにあるものを敵にしていたら、いつまでたっても平和や安心はありません。
心と自分との違和感が、自分を厳しく評価することに繋がり、自分自身を限界ある者として結論づけてしまう。
その結論づけがあるところから、世界をみれば、他人を常に評価したり、許せなかったり、ダメだしすることばかりしてしまう。
世界と自分が調和できない。
世界を許していない自分、自分を許していない自分。
調和と平和がないから世界を敵にまわして、見えない敵といつも戦っている自分。
そこには寛ぎもゆとりもありません。
そのゆとりのないところに、「悟り」などまず生まれることはありません。
なぜなら、「悟り」とは、自分と世界の真実をみることで、真の調和を見出すことだから。
世界のどこにも、何にも問題をみたり、苦痛を覚えたりしないことを意味しているから。
自分自身であることに納得し、どんな世界にあったとしても、自分を乱し、揺るがす問題に脅かされたりしないこと。
その限りない自由をどんな人も手に入れたいし、それが「悟り」に至る意味と結果だからです。
だからYogaではまず、自分自身の中に調和と平和を見出し、そこに寛いでいくことを目指します。
何も、だれも敵にしたり、評価したりしません。
自分が自分自身にゆったりとして、本当に『シャンティ(平和、穏やか)』なら、外の世界といくら関わっても違和感や葛藤という悩みや苦痛を自分の内側に生まないのです。
まず、自分に一番近い心とどれだけ調和し、仲良くやっていけるか?をYogaでは目的とするのです。
「心を上手に、いかに自分の友として、道具として使っていけるか?」
これがYogaのテーマです。
自分と心の関係性をはっきりさせ、
“道具を使う主=自分”と“使われている道具=心”との線引きをしっかりさせる意味でも、私たちは心と向き合う必要があるのです。
それには、短い時間でも、毎日続けることが大事。
毎日、毎日、歯を磨くように、心を磨くことも習慣にしたいですね~
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