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2011年3月 7日 (月)

迷い,走る「心」を追い越せ!迷走から瞑想へ。  Yoga的瞑想法① 

迷い,走る「心」を追い越せ!迷走から瞑想へ。  Yoga的瞑想法① 

Yogaといえば、『アーサナ(体を動かすYoga)』の次に、極めてみたいのが『瞑想』らしい。

でも皆知っている。

この『瞑想』がなかなか手強く、難しいことを。


「瞑想しよう、」
そう決意して座ったとたんに、「あっ」とかいって、急用を思い出し立ち上がる。

瞑想といわれても、何をすればいいかわからず、目をつぶって座るものの、心に自分は流されっぱなし。
なんともいえない、むなしい敗北感。。。

落ち着いて座ったとたんに、過去の記憶や罪悪感にさいなまされ、心は大荒れ。

もしくは、急に未来への不安に襲われ、心は揺れに揺れる。

逆に、思い落ち着きすぎて眠ってる。。。 

など


瞑想については、その正体があまり明らかになっていいだけに、悩めることも多い。

一体何が瞑想なのか?

どう行うべきなのか?

何が達成されるのか?

Yogaの「瞑想」に関しては、この辺りが曖昧にボケていることが多いのです。

なので、「瞑想」を“感情の開放”といって10分笑い続けたり、泣き続けたり、踊り狂ったり、というセラピーまがい

なものまでが「瞑想」と称され、我々をさらなる“迷走(・・)”に走らせている。。

一体Yoga的な『瞑想』とは何か?
そろそろ明かされてもよい頃なのでは。

今日は経典に基づいて、この辺りをツマビラカにしてみましょう。

まず、「瞑想」についての経典での定義をみてみましょう。

『सगुणब्रह्म विशय मानस व्यापार:।
サグナブランマ ヴィシャヤ マーナサ ヴャーパーラハ』
by वेदान्तसार  कथोपनिषद्


このように規定されます。

意味は

瞑想とは、心を1つの対象(具体的には、全体世界の秩序と法則の姿)に繋ぐ、
心でする行いのこと。」


この、「心の行い」こそが「瞑想」である、とYogaの経典は定義します。

ここではっきりしてくることがあります。

心以外の行い、例えば体や言葉を使ってする行いは、「瞑想」とはYogaではいわないのです。

これで我々を迷わせる「瞑想」への選択肢がぐっと減ります。


そして、よくいわれていることですが、

「心の動きを止める、滅する」

これもYoga的には瞑想とは言えません。

なぜならあくまでも「瞑想」は「心の行い(マナサ・ヴャーパーラ)」だから。

「心」の活動を滅すること、止めることではないのです。


ポピュラーなYogaの経典のひとつ『ヨーガスートラ』にはこう書いてあります。

『योग: चित्त व्रृद्धि निरोध:। 
ヨーガ(ス)チッタ ヴルッディ ニローダ(ハ)』

『ニローダ』という言葉が、『止滅』とか『滅すること』などという、大変手厳しい言葉になって我々の前に現れていま

すが、本当は違います。

あくまでも、

「心をむやみに放っておかないこと。客観的に物事をとらえ、衝動に尽き動かれないように定めること

というようなところが『ニローダ』という単語の意味に近いのです。


「心の動きを止める」
そんなことが一体可能なのか?

Yogaを始めたばかりの頃、私はそんなことを疑問に持っていました。
だからこそ、オリジナルの経典が本当は何を意味し、何を伝えているのか?を探求したいと思っていました。
その旅路の末に、こうして遥々インドまできている訳なのです。。

いやいや、どうして。探求してみたら、やっぱり違っていたのです。経典の意味することは。

瞑想は「心の動きを止める」ことなんかじゃない。


そんなことはそもそもムリなのです。

なぜなら「心」の本性は動き回り、走り回るものだから。

動く、流れることこそが、「心」が持つ特性なのです。

だからムリなことを達成しようという試みは、無意味、 なのだろう。


ではYogaでいう瞑想とは何か?

それは、経典の定義どおり、

「心の動きを1つの対象に繋げ、1つの方向に流れ続けてゆくようにすること」。

動きを止める、考えを止めることではないのです。
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正しい瞑想で、常に穏やかな心と、自分に対する明快な理解をめざす心の旅人より。。

| 向井田みお |

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