迷い,走る「心」を追い越せ!迷走から瞑想へ。 Yoga的瞑想法①
迷い,走る「心」を追い越せ!迷走から瞑想へ。 Yoga的瞑想法①
Yogaといえば、『アーサナ(体を動かすYoga)』の次に、極めてみたいのが『瞑想』らしい。
でも皆知っている。
この『瞑想』がなかなか手強く、難しいことを。
「瞑想しよう、」
そう決意して座ったとたんに、「あっ」とかいって、急用を思い出し立ち上がる。
瞑想といわれても、何をすればいいかわからず、目をつぶって座るものの、心に自分は流されっぱなし。
なんともいえない、むなしい敗北感。。。
落ち着いて座ったとたんに、過去の記憶や罪悪感にさいなまされ、心は大荒れ。
もしくは、急に未来への不安に襲われ、心は揺れに揺れる。
逆に、思い落ち着きすぎて眠ってる。。。
など
瞑想については、その正体があまり明らかになっていいだけに、悩めることも多い。
一体何が瞑想なのか?
どう行うべきなのか?
何が達成されるのか?
Yogaの「瞑想」に関しては、この辺りが曖昧にボケていることが多いのです。
なので、「瞑想」を“感情の開放”といって10分笑い続けたり、泣き続けたり、踊り狂ったり、というセラピーまがい
なものまでが「瞑想」と称され、我々をさらなる“迷走(・・)”に走らせている。。
一体Yoga的な『瞑想』とは何か?
そろそろ明かされてもよい頃なのでは。
今日は経典に基づいて、この辺りをツマビラカにしてみましょう。
まず、「瞑想」についての経典での定義をみてみましょう。
『सगुणब्रह्म विशय मानस व्यापार:।
サグナブランマ ヴィシャヤ マーナサ ヴャーパーラハ』
by वेदान्तसार कथोपनिषद्
このように規定されます。
意味は
「瞑想とは、心を1つの対象(具体的には、全体世界の秩序と法則の姿)に繋ぐ、
心でする行いのこと。」
この、「心の行い」こそが「瞑想」である、とYogaの経典は定義します。
ここではっきりしてくることがあります。
心以外の行い、例えば体や言葉を使ってする行いは、「瞑想」とはYogaではいわないのです。
これで我々を迷わせる「瞑想」への選択肢がぐっと減ります。
そして、よくいわれていることですが、
「心の動きを止める、滅する」
これもYoga的には瞑想とは言えません。
なぜならあくまでも「瞑想」は「心の行い(マナサ・ヴャーパーラ)」だから。
「心」の活動を滅すること、止めることではないのです。
ポピュラーなYogaの経典のひとつ『ヨーガスートラ』にはこう書いてあります。
『योग: चित्त व्रृद्धि निरोध:।
ヨーガ(ス)チッタ ヴルッディ ニローダ(ハ)』
『ニローダ』という言葉が、『止滅』とか『滅すること』などという、大変手厳しい言葉になって我々の前に現れていま
すが、本当は違います。
あくまでも、
「心をむやみに放っておかないこと。客観的に物事をとらえ、衝動に尽き動かれないように定めること」
というようなところが『ニローダ』という単語の意味に近いのです。
「心の動きを止める」
そんなことが一体可能なのか?
Yogaを始めたばかりの頃、私はそんなことを疑問に持っていました。
だからこそ、オリジナルの経典が本当は何を意味し、何を伝えているのか?を探求したいと思っていました。
その旅路の末に、こうして遥々インドまできている訳なのです。。
いやいや、どうして。探求してみたら、やっぱり違っていたのです。経典の意味することは。
瞑想は「心の動きを止める」ことなんかじゃない。
そんなことはそもそもムリなのです。
なぜなら「心」の本性は動き回り、走り回るものだから。
動く、流れることこそが、「心」が持つ特性なのです。
だからムリなことを達成しようという試みは、無意味、 なのだろう。
ではYogaでいう瞑想とは何か?
それは、経典の定義どおり、
「心の動きを1つの対象に繋げ、1つの方向に流れ続けてゆくようにすること」。
動きを止める、考えを止めることではないのです。
正しい瞑想で、常に穏やかな心と、自分に対する明快な理解をめざす心の旅人より。。
| 向井田みお | 固定リンク
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