大嫌いな「あの人」へのYoga的対処法② Yogaの感情コントロール「憎しみ」編
あの人が嫌い。
苦手。
などという思いは、自分を苦しめているかもしれないけど、原因は「あの人」にあるのではなく、
実は自分の物事の捉え方、見方の方にある。
よくいわれていることかもしれない。
これはYoga哲学の観点に基づいてもどうやら事実であるらしい。
客観的にみてみれば、なんの問題もないことに、
自分の主観や感情や過去の記憶を織り交ぜて、
「嫌だ、嫌いだ、憎たらしい。」
などという結論をだしている。
そして、こんな風に身勝手な見方で出した結論に、自分の心は絡め取られている。
自分で自分に苦しんでいる。
まさに自業自得、自作自演。
Yoga哲学の世界観からみれば、この世界にはいい人も悪い人も、いってみればすべてにおいて「いい、悪い」な
んていう結論はなく、悩める要素は何もない。
ただ物があり、生き物がいて、人がいる。そして物事が展開している。
ただそれだけ。
主観的な人だけが、悩める。
勝手な自分の思いで、物事を判断し、結論づけられる人だけが問題にハマれる、のです。
こうして書いてみると、悩むことはつくづく、バカバカしくも悲しい能力にみえるよなぁ。。。
『物事を客観的にみる』
これはYogaにおいて非常に大事なことです。これができれば物事の9割は問題なし。
Yoga的悟りも8割方成功といっても過言ではない。
なぜなら、
「この世界にはいいも、悪いもなく、ただあるべきものが在る。
起こるべきことが起こっている。
世界を司る大きな秩序と法則の中で。
その法則の中で、自分の体も生まれ、維持され、考えや感情も秩序において展開している。
それは私だけじゃなく、すべての人の生き物の体と心にも法則が広がり、一緒になって今も動いている。」
山は山であり、海は海であり、空は空、人は人である。
私の苦手な「あの人」も、「あの人」のままに、ただあるだけ。
本当はいいも、悪いも、憎いもない。
これをわかっていたら、世界においてどれだけ自由だろう?
どこにいても、何をみても、だれといても、悩めることがない。
悩みから、苦しみから自由。
反対からいえば、
常に幸せで『シャンティ(平和、静寂)』である。
それがYoga的な「悟り」の意味であり、結果です。
私たちがそれぞれの主観をのせてみている“わたし流”の世界の見方は、思いが勝手に『好き・嫌い』というラベ
ルをあるがままの物事にくっつけてしまう。
そのラベルが張りついた世界をみて、あれこれと結論をだし、その結論に縛られる。
それが悩み・問題となる。
『バガヴァッドギーター』の中でも、こんな風にYoga師匠クリシュナさんはいっています。
「物事を自分の思いだけで、主観的にとらえず、あるがままに客観的に見ることができる人。
自分も含めたこの世界を動かしている秩序と法則をはっきりと、ありのままに見ることのできる人。
彼は世界を恐れない。
そして世界も彼を恐れることがない。」
どうしても私たちは主観的な思いに縛られてしまう。
そして思う。
好きな物は、どうしたって手に入れたい。
手に入れられないと、「なぜなのだー?!」と、悩む。
嫌いな物は、なんとしても避けたい。
避けられないと、「もう嫌だー!」 と、怒り、問題を抱え込む。
同じようにして、今も “私の中だけで” 大嫌いな人、憎い人、苦手な人が生まれている。
大嫌いな人、苦手な人が世界に生まれてきているわけではない。
問題は、“私の中”だけに住んでいるあの人やこの人なのです。
それを理解して、心を揺らがされず、平和に保つことができることが、『YogaSutra(ヨーガスートラ)』で定義されているYogaの目的でもあり、ゴールでもあります。
ふむ。 ごもっとも。
さすが経典様。
では、客観的に物事をみるためにはどうしたらいいのか?
私たちに何ができるのか?
まず、客観的になるには、今の主観的なヴィジョンをできるだけ少なくしていく必要があります。
私流の見方で、ダウンロードした世界の物事と、
それをもとに、私の中だけでインストールされて起きている問題を
アンインストール必要がある。
それには、ただ「なぜだ、なぜだ」と考えたり、
「原因はこれに違いない」と思索するだけでは間に合わないのです。
心の広い、スケールのでかい人間になりたいもんですよ。
道に佇んでは徒然に思う日々
| 向井田みお | 固定リンク
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