大嫌いな「あの人」へのYoga的対処法 ③Yogaの感情コントロール「憎しみ」編
自分の中にダウンロードして取り込でしまった問題の数々。
その悩みや問題のアンインストールは、「行い」が伴わないと効力がない。
では、どうするか?
例えば、自分が“大嫌い”という結論をだしている人がいるとします。
その人がいたら逃げたり、なんだったら嫌味の1つもいってやりたい!
そういう思いを、
正反対の行動で乗り越える。
まるで、そこに“愛”があるかのように振舞ってしまう。
睨みつけるかわりに、微笑みを。
嫌味のかわりに、甘い物やお茶を。
侮蔑のことばじゃなく、優しい労りのことばを。
いじわるじゃなく、一輪の花を。
ふくれっ面のかわりに、笑顔を。
。。など
なんでもいいのです。
憎しみとコラボレートした行いでなく、
もし“愛”があったなら、こんな行動をとるだろう、
という方に思い切って動くのです。
思いと行いは正反対でいい。
偽善だとしてもOK!
そもそも人に見せつけるためでなく、自分の成長と心の浄化のためにしていることなので、“偽善”とはいえませんが。
。。。しかし、これが、
非常に難しいのです。
よくわかります。
だけど、難しいからこそやりがいがある。自分への挑戦になる。
そして、思い切って私の問題の「あの人」にお花を一輪わたしてみる。
最初は目も合わせられず、放って逃げたい気持ちにすら駆られる。
心の中は、恨みつらみ、憎しみ、いうに言われぬ感情で煮えたぎっているかもしれない。
でも渡し続ける。 笑顔がつくれるまで。
最低でも2週間は頑張る。
その内、「花をわたす」という行いが、まさに“行い”の方から、私たちの気持ちに変化をもたらしてくれるようにな
る。
泣き顔で、怒り顔で渡していたのが、ぎこちない笑顔に。
それが、自然の笑顔になってくる。
それができたときに、自分が「あの人」に上乗せしていた感情や私的な思いが、「行い」とともに昇華され、なんと
も思わなくなってくる。
ただ「あの人」がいつものように隣に座っている。
ただそれだけ。
そのとき、私たちは確実に問題よりも、自分がずっと大きくなっていることに気がつきます。
前に自分を掴んで、捕えていた悩みは、その問題より大きく成長した私の心を悩ませる力を失ってしまうのです。
こんな風に「行い」をもって、主観、思いを浄化していく。
口でいうより、簡単ではないことは私もよく知っています。
でも。
やるだけの価値がある。
それがYogaの目的であり、ゴールであり、
何より私たちが望んでいる常に穏やかで安定した心に繋がっているから。
それが、他の誰かや、世界が揺るがすことのできない誇り高い自分自身、究極の『シャンティ(平和、静寂)』であ
るからです。
自分の過去の記憶が絡み合って作られた主観を手放し、物事をありのままにうけとめられるようになったとき、私
たちは以前の小さな思いの世界観を越え、遥かに大きな自由な空へと飛び立つことができるのです。
経典のいう『自由へ・・・』とはそういう意味です。
これが
『プラティパクシャ・ヴァーバナ(思いと反対の態度をとること)』
(「YogaSutra」の2章)
「憎む、嫌う思いを乗り越えたければ、その思いと正反対の行動をとって、
小さな思いなんて吹き飛ばせ!」
“私だけの”「憎いあの人」は、今日も私を鍛えてくれます。
ホントは歯ぎしりするくらい、イライラムカムカするけれど、
実は大きなヴィジョンをめざす、きっかけを与えてくれている。
そして、「あの人」が「あの人」のままでいることを、大きな心で認めておきながら、
自分のテリトリーには持ち込まない。
自分が外の世界に、揺らがされることを許さない。
それは、客観的な物の見方と、心のスペースの大きさで可能なのです。
そう経典は教えています。
憎いあいつ にも、大好きなあの人にも、尊敬するあのお方にも、
自分の気持ちを表現するのに、お花を渡すのは大変有効ですね。
| 向井田みお | 固定リンク
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