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2011年2月27日 (日)

大嫌いな「あの人」へのYoga的対処法 ④Yogaの感情コントロール「憎しみ」編

さてさて、

それでも明らかに私に害のある人。

そういう人も確かにいます。


邪魔をしてくる、会話も不毛、お互いに切磋琢磨もできない。。


そんなお方は、無理やり歩み寄ろうとせず、遠くから手を合わせて

「ナマステ。 (日本風には会釈か?)」

これでよいそうです。


“すべては1つ理論”をひっさげて、ぐいぐい他人の領域に踏み込むことはYogaではありません。

それに、自分のテリトリーを守り、やるべきことは果たさねばなりません。

その道において障害になりえる人とは、きちんとボーダー(境界線)を引き、自分を守ることも大事だと、同時に

Yogaの教えは示唆してくれます。


だれでもかれでも、受け入れようと、いつもぎこちないニヤニヤを浮かべている必要はない。

受け入れられない人に関わって良心の呵責を作ることはない。

ということです。

明日からさっそく気になる「あの人」に、私ができる挑戦をしてみたいですね~。


とかいって、急に自分に花やお菓子が送られてきたとしたら!?

もっともっと普段の自分の言動を改める方が先のようですねぇ。。。
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めざせ、憎しみないニコニコ生活!


追加:
大切なことをひとつ


自分の態度を改め、相手に“まるで愛があるような”行いをしても、相手に全然伝わらない。。

いつもと変わらず、憎いあの人は、私に攻撃をしかけてきたりする。


そんなときは、こちらが一回り相手より大きくなってしまう、という手があるのです。

「ああ、この人はこんな風にするしかきっとできないんだ」

と理解する。


「この人は今持っている能力のベストをつくして、こんなことを言ったり、行ったりしている。これ以上の事、いや、これ以外のことはこの人にはできないんだ。」

と相手を認めてしまう。


もしわざと、しかけてたとしても、

「わざと、っていう考えからして、これがこの人のマックスなんだな。」

と思っておく。


そして、もう「あの人」を自分の心にいれない。

憎しみを心で飼うことを、やめる。


さらに、ダメ押し。

「もし自分が同じ立場だったら、きっと同じようなことを言ってるし、しただろうな。」

と。

人の感情や心理だって、この世界の1つの法則と秩序で保たれている。

だから、万人にあてはまる“心理学”というものが成立する。

自分も相手もこの法則に動かされているのは同じこと。

この大きな視点にたって、相手を認めてしまえば、「憎しみ」も恐れるに足らず!

であります。

| 向井田みお |

大嫌いな「あの人」へのYoga的対処法 ③Yogaの感情コントロール「憎しみ」編

自分の中にダウンロードして取り込でしまった問題の数々。

その悩みや問題のアンインストールは、「行い」が伴わないと効力がない。


では、どうするか?


例えば、自分が“大嫌い”という結論をだしている人がいるとします。

その人がいたら逃げたり、なんだったら嫌味の1つもいってやりたい!

そういう思いを、

正反対の行動で乗り越える。

まるで、そこに“愛”があるかのように振舞ってしまう。


睨みつけるかわりに、微笑みを。

嫌味のかわりに、甘い物やお茶を。

侮蔑のことばじゃなく、優しい労りのことばを。

いじわるじゃなく、一輪の花を。

ふくれっ面のかわりに、笑顔を。


。。など


なんでもいいのです。

憎しみとコラボレートした行いでなく、

もし“愛”があったなら、こんな行動をとるだろう、

という方に思い切って動くのです。


思いと行いは正反対でいい。

偽善だとしてもOK!

そもそも人に見せつけるためでなく、自分の成長と心の浄化のためにしていることなので、“偽善”とはいえませんが。


。。。しかし、これが、

非常に難しいのです。

よくわかります。

だけど、難しいからこそやりがいがある。自分への挑戦になる。

そして、思い切って私の問題の「あの人」にお花を一輪わたしてみる。

最初は目も合わせられず、放って逃げたい気持ちにすら駆られる。

心の中は、恨みつらみ、憎しみ、いうに言われぬ感情で煮えたぎっているかもしれない。

でも渡し続ける。 笑顔がつくれるまで。

最低でも2週間は頑張る。 


その内、「花をわたす」という行いが、まさに“行い”の方から、私たちの気持ちに変化をもたらしてくれるようにな

る。

泣き顔で、怒り顔で渡していたのが、ぎこちない笑顔に。

それが、自然の笑顔になってくる。

それができたときに、自分が「あの人」に上乗せしていた感情や私的な思いが、「行い」とともに昇華され、なんと

も思わなくなってくる。

ただ「あの人」がいつものように隣に座っている。


ただそれだけ。

そのとき、私たちは確実に問題よりも、自分がずっと大きくなっていることに気がつきます。

前に自分を掴んで、捕えていた悩みは、その問題より大きく成長した私の心を悩ませる力を失ってしまうのです。

こんな風に「行い」をもって、主観、思いを浄化していく。

口でいうより、簡単ではないことは私もよく知っています。

でも。

やるだけの価値がある。

それがYogaの目的であり、ゴールであり、

何より私たちが望んでいる常に穏やかで安定した心に繋がっているから。

それが、他の誰かや、世界が揺るがすことのできない誇り高い自分自身、究極の『シャンティ(平和、静寂)』であ

るからです。


自分の過去の記憶が絡み合って作られた主観を手放し、物事をありのままにうけとめられるようになったとき、私

たちは以前の小さな思いの世界観を越え、遥かに大きな自由な空へと飛び立つことができるのです。

経典のいう『自由へ・・・』とはそういう意味です。

これが

『プラティパクシャ・ヴァーバナ(思いと反対の態度をとること)』

(「YogaSutra」の2章)

「憎む、嫌う思いを乗り越えたければ、その思いと正反対の行動をとって、

小さな思いなんて吹き飛ばせ!」


“私だけの”「憎いあの人」は、今日も私を鍛えてくれます。

ホントは歯ぎしりするくらい、イライラムカムカするけれど、

実は大きなヴィジョンをめざす、きっかけを与えてくれている。

そして、「あの人」が「あの人」のままでいることを、大きな心で認めておきながら、

自分のテリトリーには持ち込まない。

自分が外の世界に、揺らがされることを許さない。

それは、客観的な物の見方と、心のスペースの大きさで可能なのです。

そう経典は教えています。


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憎いあいつ にも、大好きなあの人にも、尊敬するあのお方にも、

自分の気持ちを表現するのに、お花を渡すのは大変有効ですね。


| 向井田みお |

大嫌いな「あの人」へのYoga的対処法② Yogaの感情コントロール「憎しみ」編


あの人が嫌い。


苦手。

などという思いは、自分を苦しめているかもしれないけど、原因は「あの人」にあるのではなく、


実は自分の物事の捉え方、見方の方にある。


よくいわれていることかもしれない。

これはYoga哲学の観点に基づいてもどうやら事実であるらしい。

客観的にみてみれば、なんの問題もないことに、

自分の主観や感情や過去の記憶を織り交ぜて、

「嫌だ、嫌いだ、憎たらしい。」

などという結論をだしている。

そして、こんな風に身勝手な見方で出した結論に、自分の心は絡め取られている。


自分で自分に苦しんでいる。


まさに自業自得、自作自演。


Yoga哲学の世界観からみれば、この世界にはいい人も悪い人も、いってみればすべてにおいて「いい、悪い」な

んていう結論はなく、悩める要素は何もない。

ただ物があり、生き物がいて、人がいる。そして物事が展開している。

ただそれだけ。

主観的な人だけが、悩める。

勝手な自分の思いで、物事を判断し、結論づけられる人だけが問題にハマれる、のです。

こうして書いてみると、悩むことはつくづく、バカバカしくも悲しい能力にみえるよなぁ。。。


『物事を客観的にみる』


これはYogaにおいて非常に大事なことです。これができれば物事の9割は問題なし。


Yoga的悟りも8割方成功といっても過言ではない。

なぜなら、

「この世界にはいいも、悪いもなく、ただあるべきものが在る。

起こるべきことが起こっている。

世界を司る大きな秩序と法則の中で。

その法則の中で、自分の体も生まれ、維持され、考えや感情も秩序において展開している。

それは私だけじゃなく、すべての人の生き物の体と心にも法則が広がり、一緒になって今も動いている。」


山は山であり、海は海であり、空は空、人は人である。

私の苦手な「あの人」も、「あの人」のままに、ただあるだけ。

本当はいいも、悪いも、憎いもない。


これをわかっていたら、世界においてどれだけ自由だろう?

どこにいても、何をみても、だれといても、悩めることがない。

悩みから、苦しみから自由。

反対からいえば、

常に幸せで『シャンティ(平和、静寂)』である。

それがYoga的な「悟り」の意味であり、結果です。


私たちがそれぞれの主観をのせてみている“わたし流”の世界の見方は、思いが勝手に『好き・嫌い』というラベ

ルをあるがままの物事にくっつけてしまう。

そのラベルが張りついた世界をみて、あれこれと結論をだし、その結論に縛られる。


それが悩み・問題となる。

『バガヴァッドギーター』の中でも、こんな風にYoga師匠クリシュナさんはいっています。

「物事を自分の思いだけで、主観的にとらえず、あるがままに客観的に見ることができる人。

自分も含めたこの世界を動かしている秩序と法則をはっきりと、ありのままに見ることのできる人。

彼は世界を恐れない。

そして世界も彼を恐れることがない。」


どうしても私たちは主観的な思いに縛られてしまう。

そして思う。

好きな物は、どうしたって手に入れたい。

手に入れられないと、「なぜなのだー?!」と、悩む。

嫌いな物は、なんとしても避けたい。

避けられないと、「もう嫌だー!」 と、怒り、問題を抱え込む。

同じようにして、今も “私の中だけで” 大嫌いな人、憎い人、苦手な人が生まれている。

大嫌いな人、苦手な人が世界に生まれてきているわけではない。


問題は、“私の中”だけに住んでいるあの人やこの人なのです。


それを理解して、心を揺らがされず、平和に保つことができることが、『YogaSutra(ヨーガスートラ)』で定義されているYogaの目的でもあり、ゴールでもあります。

ふむ。 ごもっとも。

さすが経典様。


では、客観的に物事をみるためにはどうしたらいいのか?


私たちに何ができるのか?

まず、客観的になるには、今の主観的なヴィジョンをできるだけ少なくしていく必要があります。

私流の見方で、ダウンロードした世界の物事と、

それをもとに、私の中だけでインストールされて起きている問題を

アンインストール必要がある。

それには、ただ「なぜだ、なぜだ」と考えたり、

「原因はこれに違いない」と思索するだけでは間に合わないのです。




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心の広い、スケールのでかい人間になりたいもんですよ。 

道に佇んでは徒然に思う日々

| 向井田みお |

大嫌いな「あの人」へのYoga的対処法 ①Yogaの感情コントロール「憎しみ」編


どうしても苦手な人がいる。


その人が、道の向こうから歩いてきただけで、すれ違わないように、予定のない右折をしてしまう。

その人が部屋にいるだけで、逃げ出したくなる。

その人と話さなければならない事情がある時は、目を合わせずうつむき加減で、要件だけなげやりに伝えてみる。


どうしても自分の手に負えない人がいる。

その時は何とか誤魔化して、やりすごしたようにみえる。

でも、後になって思う。 

「なんであの人の前だとあんな風に不自然になってしまうんだろう?

なんで、あんなに苦手なんだろう?

顔をみただけで、イライラ、ムズムズ。。。

この心の違和感はどうしたらいいんだろう?」


そして、幸か不幸か(?!)

Yogaをしていると、苦手意識に苛まされている自分に追い打ちをかけるようにYogaの先生たちはこんな風にたたみかけてくる。

“すべてのものに愛を持ちましょう。すべては1つ。皆繋がっているのです。
Yogaで繋がりましょう。 シャンティ、シャンティ、シャンティ~♪”

・・・・・

そう。

先生の言う通り、すべては繋がっているのかもしれない。


Yoga哲学でもいわれている。

“すべてが全体で、1つで、それが自分の真実”

それが真実だとも思う。

でも、なんでしょう?この矛盾。


「全体すべてが自分自身の真実なら、なぜ隣のあの人にこんな違和感を抱く?

なぜ苦手意識をもったり、それどころか、憎しみや憎悪に近い感情まで?

私はなんてスケールの小さい人間なんだろう。

なんてちっさい、愛のない人間なんだぁー」

と落ち込んだりすることはありませんかね?

・・・ そんなの私だけですか?


Yogaを学んでYogaに責められる。

心の平和と自由を求めていたはずだ。

なのに、かえって劣等感と矮小な自分の事実をみせつけられる。


Yoga経典の最終的なメッセージも

『すべてがただ一つの真実に繋がる。それが自分自身の真の姿だ。』

という。

『それを理解する者は、すべてを受け入れ、世界全体に寛ぐ。』

と。


これが、求めるべき境地のはずなのに、あろうことか私ときたら隣の一個人にすら違和感を覚えるありさま。

なんと、情けない。

この違和感をいったいどうするべきか? どう解決できるのか?

急にすべてを受け入れ、愛する、というのはムリだとしても、

少なくとも自分の心にあるこの違和感は取り除きたい。

できれば人に憎しみや嫌悪の気持はもちたくない。

爽やかで、明るい心持でいたい。

そのためにYogaでは何か解決策を示してくれているのかな?

と思い『Yoga Sutra』を解説する私の師匠のお話をきいてみました。

すると、なんと、

実際あるのです、『憎しみ』に対処するYoga的方法が。

しかも現実的、且つ画期的。


その名も


『プラティパクシャ・ヴァーバナ(思いと反対の態度をとること)』
(「YogaSutra」の2章)

「憎む、嫌う思いを乗り越えたければ、その思いと正反対の行動をとって、

小さな思いなんて吹き飛ばせ!」


・・・つづく

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アシュラム内のお寺にて。南インド式の「ゴープラム」という建物です。

ああ、見上げるほどに大きく、こんなふうにビクともしないくらい成長したいもんですな~


| 向井田みお |

2011年2月20日 (日)

欲望は持っていい。叶えた方がいい。No.4 Last  逆説的Yogaのすすめ- 欲望をコントロールするとは?④

欲望は持っていい。叶えた方がいい。 
逆説的Yogaのすすめ- 欲望をコントロールするとは?④


私たちは、自分のやるべきことを理解し、それに向かって持っている力のすべてを使える時、幸せを感じる。

生きる目的がぶれていない。
「自由」へとまっすぐに、思いも、力も、意志も選択も貫かれている。
自分のすべきことと、したいこと、その2つが一致している。

ここまでYogaは導いてくれるようにできている。

時にわたしたちは、あまりにも広い世界の中で、「選択と迷い」を持って戸惑ってしまうことがある。
大きな海においてけぼりにされた小さな船のようにさ迷ってしまうことがある。


どこを目指すかも、何を望めばいいかもわからず、
暗い海のなかで「選択と迷い」だけが私たちを惑わしているようにみえることがある。


いっそ、だれかがこの生き方を全て決めてくれたらいいのに。。
そうしたら迷いも悩みもないのに。。


そんな風にすら思うことがある。

それくらい人は迷いにおいても自由だ。

そこに一条の光を指してくれるのがYogaという生き方と経典の言葉。

人が生きる目的、目指すべき境地をはっきりと明かしている。

そしてどうすればそこに辿りつけるのか? 
その道筋や歩き方まで。


Yogaのはじめは、体を動かしたり、呼吸を整えたり。
だからYogaは一見、人の生き方とは無関係なような、健康体操か、美容体操のたぐいとも思わる。


しかし、実は人の根源的な問題と欲求、それを解決する生き方にまで繋がっている。


実に深くて興味深い。

そしてYogaの深さ、広さ、明確さをみせてくれるのが経典の言葉。

その言葉によると

「欲望は、望みは、もっていていい。
叶えた方がいい。

それがいずれ、自分が本当に何を望んでいるかを知ることになるから。」


人は欲望を持てるから、何かを選べる自由意志があるから、成長もできる。
その意志も成長も1つの目的に繋がっている。

探求そのものからの自由。

何にも頼ることのない幸せ。

無条件の愛。

それらがすべて自分の真実の姿であると知ること。
それを眼で見るように確かに、確信すること。


自分自身の真実に完全に信頼し、すべてがただ1つのヴィジョンにおいて明快で、
迷いも悩みもない境地。


だから、欲望を持つのは、喜ぶべきことであって、蔑むべきことじゃない。

小さな欲求を、秩序と法に反しない範囲で叶えていくことで、やがて大きな目的に至ることができる。

そんな風に大きく、見守っていてくれるのがYogaの教えであり、それを説く先生たちなのです。


だから。

もう欲望に、悩まなくていい。


欲望をおとせ、なんていう本や先生のいうことを鵜呑みにして、罪悪感を感じるのは、もうおしまい!


私は、欲望を恐れない。


むしろ欲望を持っているという特権を生かして、
もっと自由に、ダイナミックに、本当に自分が欲しいのは何か?
という真の思いと欲求にするどく耳をすまして、力いっぱい生きてく。


自分の良心と人として守るべきことをきっちり守って。


欲望の奴隷にはならない。


欲望を力として、最大限に私が使っていく。


私が、欲望の王となる。

小さな願いを重ねることで、やがて大きな目標に至ることができるから、

途中どんなに迷っても、悩んでもいい。

自分の欲求に正直に、澄んだ眼と心できちんと向き合っていれば、
欲望はもっていい。

そうさせてくれるYogaをこれからも続けていきたいものです。

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欲望を恐れない、真の欲望の王として、君臨するべく日々修行中のわたくし。

バナナだって、幹ごと買ってやるー!

。。。とるにたらん欲望は当分つきることがなさそうです。。


| 向井田みお |

欲望は持っていい。 叶えた方がいい。No.3 逆説的Yogaのすすめ- 欲望をコントロールするとは?

欲望は持っていい! 叶えた方がいい! 
逆説的Yogaのすすめ- 欲望をコントロールするとは?③

“欲望”の力を、私たちが本当に自分が望むことに使えるなら、それはとんでもなく幸運なことだと、経典はいいます。

何かを求める。
その終わりのない探求自体からの自由。

それは、すでに何かを求めなくても
充分に満ちている「自分の真実」を知ること。


その目的に使うことができるなら、人間は真の生きる目的を達成することができる、とそう経典はいいます。


人の根源的な問題から自由になること。

もう何かを探さなくても、足さなくても、求めなくてもいい。


「本当の自分の真実の姿」
を知ること。

自分の真実を理解することで、真の自由に至ること。


それが、どの人も本当に求めていることだし、
そのために世界はある。


そこまで、Yogaの経典はいうのです。


私たちがこの「欲望」という力を、
ちっぽけな、しょーもない何かを得ることや、どこかに行くことばかりに使うのではなく、
真の目的のために使うことができるように、Yogaの規律と生き方は導いてくれています。

そういうシステムだったのですね、Yogaは。


単なる美容・健康運動なんかじゃない!


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光の法則を司る太陽への儀式を捧げた日。
この日は皆横並びになって、『スーリヤ・ナマスカール』をしましたよ。

『スーリヤ・ナマスカール』はYogaアーサナというよりは、むしろ儀式に近い位置づけです。
インドでは。


| 向井田みお |

欲望は持っていい! 叶えた方がいい. 逆説的Yogaのすすめ- 欲望をコントロールするとは?

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欲望は持っていい。叶えた方がいい。No.2  逆説的Yogaのすすめ- 欲望をコントロールするとは?2

欲望は持っていい! 叶えた方がいい! 
逆説的Yogaのすすめ- 欲望をコントロールするとは?②


『バガヴァッドギーター』のYogaの師匠クリシュナも人の欲望に関してこんな風にいっています。

「この世界を司る秩序と法則。

“欲望”はそのあまねく広がる大きな法則をダイナミックに動かす力の現れである。

私は“欲望”である。
ただし、この秩序に反することなく望むことができる、という力である。」

何かを望むことができる。
何かを目指すことができる。
何かを追求することができる。


それが迷いや苦しみになったとしても、何かを自分で“選べる”という自由への意志。

それが欲望の真の姿。

経典を正しく紐解く先生の言葉によってこの事実を知り、私はずいぶんホッとしました。


欲望にまみれた自分を責め続けていたこと。
そのプレシャーから人につらく当たったりして緊張感でいっぱい、いっぱいの自分。
さらにそんな自分に罪悪感を感じていること。
そんなキューキューした心に、自由な風がすぅ~っとはいってきたような気持ちよさ。


Yogaっていいなぁ、明るいな~
と思いました。

私たちが何かを選べるということは、その力があるということ。


そして何の意味もなく、こんな偉大な力が備わっているわけではないのです。
人間には、欲望を抱く、何かを望む、選ぶ 理由がある。

その理由と目的についてもYogaの経典はきちんと明かしているのです。


それはまた後でのお楽しみとして。

さて、

この欲望の力はYogaの言葉でいうと、
『Kamaカーマ(望み、欲望)』というパワー。

その力を使い、何かを選択するベースになっているのが、
『Raga Dveshaラーガ・ドヴェーシャ(好きと嫌い)』という思い。


この2つの思いにしたがって、私たちは人間に与えられた特権を駆使して、選ぶことができるのです。


この思いと、力自体はじつにシンプルで、無害。


単純に、
『ラーガ(好き)』という思いから、私たちは何かを手に入れたいと、欲しいと望む。
『ドヴェーシャ(嫌い)』という思いから、私たちは何かを避けたい、と望む。

どちらも「望み」だし、いってみれば「欲望」なのです。


この思いも力も、「人間の特権」だとYogaの経典はいいます。


だから「望める」ということ、「欲望をもてる」ということは、素晴らしいこと。
私たちはいろいろなことを日々望み、そして叶えることができる。

いいですねぇ~


。。ただし!!

その思いと力を、私たちが意志でコントロールできているときは全く問題がありません。

だけど、時に『好き・嫌い』という思いと、『得たい・避けたい』という力が、
逆に私たちをコントロールし始めることがあります。
その時だけが問題だというのです。


『好き・嫌い』のプレッシャーがあまりに高まって、
人として守らねばならぬ秩序と法則=つまり、私たちの良心
これに反してまで、何かを得ようとする、避けようとすると心に矛盾が生じます。

矛盾が私たちの心に違和感を作り、矛盾を抱えることで心は傷ついていきます。
これが悩み、苦しみになる。


そればかりか、この思いと力にあまりにも強く私たちがコントロールされていると、他人を傷つけることになったり、
無理して法則を超えようとする行いが、「犯罪」になったり。


問題になっているのはここなのです。

では、どうすればいいのか?



欲望は何も悪くない。
私たちが自由にその力を使えているうちは。
問題は、私たちが欲望という力に牛耳られてしまう時。

この問題に対してYogaの経典がいうこと。


それは、


「欲望を抑えることは問題の解決ではない。
なぜなら欲望は人間の尊い力だから。

ただ、欲望に自分がハンドルを取られそうになったとき。
良心や人が守らなければならない法則を超えようと人を突き動かそうとする時。

その時は、何としても意志の力で『言葉や行い』を食い止めること。


どんな欲望をもってもいい。

ただ、だれかを何かを傷つけること、この世界の秩序を乱そうとすることは避けなければならない。

そしてそれは可能だ。

それがYogaの規律と力だから。」

問題の解決は

“欲望をおとす”、ことじゃなく、

“欲望に牛耳られ、自分の心と反する行いに駆り立てられる時、いかに踏みとどまれるか?”

ということ。

そこを抑えることができれば、私たちはもっと大胆に自由に生きていくことができる。


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インドの中では、とても近代的なアシュラム内の講義室。
師匠のダヤナンダ師を師を仰ぐ人がインド中から訪れ、お祝いをしております~

| 向井田みお |

欲望は持っていい。叶えた方がいい。No.1  逆説的Yogaのすすめ- 欲望をコントロールするとは?①

欲望は持っていい! 叶えた方がいい! 
逆説的Yogaのすすめ- 欲望をコントロールするとは?①


人間は迷う。


するか?しないか? するとすれば、どうするか?


迷うから、悩む。


悩むのは、苦しい。

それだけじゃない。

人は何かを選ぶときに悩むだけでなく、
選択して得た結果に対しても、悩める。


何かを自分で判断し、実行して、結果を得る。
目の前に突き付けられた結果はもうどうしようもないのに、
それに対して勝手に

「あー、失敗だー、」
と結論付けては落ち込んだり、
「大成功!」
と判断すれば、有頂天になったり。

いつも何かをしては、浮いたり沈んだり。

外の物事に心は大きく揺さぶられ、その落ち着かなさに嫌気がさしてYogaをしたり、お寺にいったり、精神修行にはまったり。
挙句、おちついて瞑想できない自分に腹をたてたり。


なぜ私は失敗してしまうんだろう。
なぜこんなにも落ち着くことなく揺れている?
もう、こんな振り回される生き方はやめにしたいなぁ。


そう思って、人は“スピリチュアル”な探求を試みるかもしれない。
物や出来事や人に自分が振り回されるなら、大元の原因である揺れている“自分”に終止符を打とうとして。

そんな風に思って、わたくしもYogaを目指しました。


しかし、その探求もそれはそれで、やっぱりいろいろとある。
Yogaをしたから一発解決!というのはないように思えた。


まずYoga哲学の本を読んで必ずぶち当たるこのお言葉。


権威あるYogaの本も先生も、“スピリチュアル”な探求を導いてくれるはずの師たちは、よくこんな風にいう。


悩みの原因は迷いであり、迷いの原因は欲望である。
だから、人の苦しみと悩みの根源的な原因である欲望をおとしましょう”

・・・・・

それって、本当の意味で解決になっているかなぁ?

「落としましょう。」

といわれて

「はーい、落としまぁーす。」
って。

そんなことで、すまされるくらいなら、こんな苦しみにはまったりしないだろう。

いっているご本人も

「欲望を落とす」

その意味とプロセスを十分わかっていってくれているのかな?
自分の経験からでた真実の言葉なのか?
それとも誰かの言葉の受け売り?


そんな感じで、わたしはYogaにおいて、大変に迷っておりました。
とくにインドにきてYogaをして間もない7-8年前は。


そもそも欲望はそんなに悪いこと?

多くの人が人の苦悩は欲望にある。 
というけれど、
最終的に私が目指していることは、この苦悩からの自由。
だとしたら、その自由を求めることも、それを必死に望むのだから欲望になるんじゃないかな?


何が欲望で何がそうじゃないのか?
欲望を落とす、ということは一体何を指しているのか?

自由に至ること、そのための真実を追求する願望だって望みだし、欲望では?

そう長いことYogaの教えを前に悩み、暮れなずんでおりました。
悩みから逃れたくて歩きだした道のりなのに、さらなる(余計な?)悩みを抱える羽目になっている。。。うむむ。。


欲望が諸悪の根源だという教えを聞いても、何かその中に矛盾をしまう感じてしまう。
その矛盾を明かしたくて、さらなる教えの追求に走る。 
この、走り回ること自体が欲望なのでは?

欲望から逃れようと思って、欲望にはまる。


私の考えは相当長いことグルグル回っておりました。

そんな中、現在のわたくしの師*が放つ『バガヴァッドギーター』を教えを聞き、
その切れ味のよい論理と力強さにウタレました。


「欲望はもったほうがいい。
それは人間だけがもてる特権だから。
迷えるということは、裏をかえせば“選べる”ということ。

何かを選び、迷える自由があること。

これは生き物の中でも人間だけに与えられている、極めて貴重な力だ。

だから、欲望を持てるということは、ものすごいことだ。」

と。

確かに!


なんだか、ずっと罪悪感とコンプレックスをもっていた自分が短所と思っていたところを、おもいっきり褒められた人
みたいに、この言葉をきいて私はすごく嬉しかったのです。

*Swami Dayananda Saraswati先生


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今年の5月ゴールデンウィークは広島で講演されます。みなさんもぜひぜひ、彼のヴィジョンに撃たれてみてくださいよ。 シビレマス

彼がインドの究極のYoga哲学『ヴェーダーンタ』の教えをひっさげて、日本で話すとことは、

仏教伝来なみのインパクト!

と巷では大いに噂されております。

| 向井田みお |

2011年2月14日 (月)

なぜ私は怒ってしまうのだろう? Yoga的悩み解決策④ LAST

なぜ私は怒ってしまうのだろう? Yoga的悩み解決策④ LAST


美しい蓮の花は、重い泥に根をはる。

栄養や土が混ざり合った淀んだ泥水の中で育ち、いつか花を咲かせる。

良いも悪いも混ざり合った水の世界を乗り越えて、大きな広い空に向かってツボミを開くとき、

泥も淀んだ水も、美しく咲いた蓮の花を汚すことはできない。

私たちも蓮の花のように、泥のような世界に足をつけながら、超然と成熟した人間として咲き誇るまで成長できるとYoga哲学はいいます。

そして、咲き誇った顔をあげてみつめる自分の外の世界は、どこまでも広い自由に開かれている。

毎日の日常生活も、隣のあの人も、オフィスの上司も部下も、みんな私の「怒りスイッチ」を押してくれたり、いろいろな感情を掻き立ててくれることで、今日も私を成長させてくれている。

彼らがいるから、いいこと悪いこと混ざり合った世界があるから、自分が成長できるというわけなのです。


こう思えば、怒りも怒りを与えてくれたようにみえる人々も、

“まぁまぁ、ありがたいよなっ”

ってことで、受け入れて、受け流すことができてしまう。


なんだかヒョイヒョイと、苦悩を乗り越えられてしまうのです。

完ぺきに乗り越えられなかったとしても、

少なくとも

「なんで私だけ怒られるのかしら。」
とか
「あの人のせいで、私が不幸だわ。」

なんて、恨みごとで自分をDownさせることは、すごく少なくなるわけです。


そして毎日いろんな挑戦をしかけてくる人々と、世界と、日々を楽しむことができる!


うーん、Yogaってすばらしい。


というわけでYogaの教えのエッセンスをどんどん日常に生かし、

明るく、清々しく

生きていこうじゃないですか。


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Yogaで悩みが激減中と噂のわたくし。

日常の「ニコニコ率」が急上昇し、
ついにインドのココナツ屋のおじちゃんからも、まったくボラレなくなりましたとさ。

めでたしめでたし。

| 向井田みお |

なぜ私は怒ってしまうのだろう? Yoga的悩み解決策③

なぜ私は怒ってしまうのだろう? Yoga的悩み解決策③

Yogaでは「怒り」をはじめとする難しい感情への対処の仕方をしっかり述べてくれています。


まず、怒りが湧いていても、それが悪いことだと思わないこと。
怒りを怒りとして認めてしまうこと。


怒っている時、

“ああ今、自分の中でまだ消化できていない感情が、外に飛んでいきたがっているんだなぁ~”

くらいにとらえ、内なる怒りに対して、客観的に認めてしまう。


次に、その怒りが、「殴る」「怒鳴る」とか、どこかの誰かや物を犠牲にしてしまいそうな「行い」を伴って外に出ていきそうなときは、とにかく意志の力でなんとしてもこの危険な「行い」だけは食い止めること。


怒り自体は自然現象ですからコントロールすることはできません。
しかも、怒りにいたる過程は私たちの心理的秩序において、ロジカルに発生しているもの。

さらに怒りは、私たちが健康に生きていくために、むしろ必要である感情。


これを無理して押さえつける必要はないのです。


ただし!

注意しなければならないのは、
怒りが「行い」を伴う時。

この「行い」に注意を払うことは、私たち一人一人が意志の力できることですし、
努力と練習しだいでコントロール可能です。


歯を食いしばってでも、振り上げた拳をおさめ、大声をだすのをギリギリに我慢して、とにかく危険な行いだけは外に出さないこと。


自分の感情が外に旅立つときに、だれも犠牲にしてはいけない。

これをYogaでは

『Damaダマ(行いを治めること)』

といいます。

いわゆる、自己コントロールができている、ということはこの『Damaダマ(行いを治めること)』ができている、
ということです。


そして、自己コントロールを高めるために、私たちは普段からAsanaや呼吸法の練習をするのです。
Asanaや呼吸法は、「肉体の行いのレベル」で自分を律するために、毎日練習する意味があるのです。

ではYogaの力で治めた「怒」りをどう外にだしてプロセスしてあげればいいのか?


安全な方法で外に感情を解放してあげることをYogaでは

『Shamaシャマ(感情のプロセス・昇華)』

といいます。

具体的には、とにかく紙に自分の思いのたけを思いっきり書いてブチマケテしまう。
書ききったら、それをすぐに燃やす
まるで儀式のように、書いてしまってから、火で燃やしつくしてしまうのです。

後は、誰にも聞かれない場所をみつけて、言葉にして感情を吐き出してしまう。

ポイントは「行い」は我慢しても、「感情」の発散は安全かつ暴力的でない方法で外に出すこと。

そして、これは大事ですが、怒ってしまった自分を責めないこと。


「なんで怒ってしまったんだー!」 

ではなく

「怒りも自分の人間的成長と浄化のために必要だったんだよな」

と考えて、さっさとプロセスしてしまうこと。

このYoga的怒りへの対処法を有効活用して、いろいろな人の中で生きていくことが本当の意味で毎日できるYogaだと、
Yogaの神は、そう申しておるわけです。

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『バガヴァッドギーター』のYoga師匠 クリシュナさん
*イメージです。。

| 向井田みお |

なぜ私は怒ってしまうのだろう? Yoga的悩み解決策②

なぜ私は怒ってしまうのだろう?  でも、それって悪いことかな? Yoga的悩み解決策②

私たちのすべての感情には「理由」がある、と経典の教えはいいます。


怒りを触発される出来事や物は人それぞれだけれど、その人の中ではちゃんとその感情と行動に至る理由と秩序があるのだ、と。


あたりまえですが、だれも理由なく怒ったり、笑ったりしないものです。


根底にある理由は、子供の時に封印した出来事だったり、解決不能な人間関係や、自分の力ではどうしようもない絶望感だったり。


誰の心にもある解決できていいない記憶や思いが、ある時ふとした他人の言葉や態度によってこじ開けられて、いろいろな「感情」の形をとって心の外に飛び出でる。


さらにこの喜びや悲しみや怒りという「感情」が、笑いや涙や叫びという「行動」とともに、心の奥底にためていた思いとともに吐き出され、そうして昇華されてゆく。


だから私たちは心のため込まれたこれらの思いや記憶のプレッシャーに押しつぶされることなく、健康な心で今日を生きることができるわけなのですね~。

そして人の様々な「感情」の中で最も強烈な力があるのが『怒り』。

心の内にためておいても、外に出しても「怒り」はものすごいエネルギー、さらにすさまじいほどの破壊力。

Yogaの有名な経典『バガヴァッドギーター』の中で、主人公のアルジュナは先生にこう問いかけるシーンがあります。


「なぜ人は、良くないと知っているのに、後悔するとわかっているのに、人としてするべきでないことをしてしまうのだろう?
それはまるで自分ではなく、心の中に潜む何かに突き動かされているようだ。
この力は一体何か?何が人を悪に向かって動かしているのか?」


この質問をうけ、先生はこう答えます。


「それは、心がとらわれ続けている欲望である。
どうしても欲しい、なんとしても避けたいという2つの面を持って人を捕える欲望は、
それが叶わない時、『怒り』となる。

そしてこの『怒り』が『知性』を破壊し、破壊された知性が人を追い込んでゆく。」

というように、昔から怒りはものすごい力で、人を翻弄するようなのです。


しかし、
「怒り」の感情自体は、自分の中の辻褄があって合理的にでてきたり、湧いたりするものなので、これを止めることはできません。

いい例は、怒っている人に
「怒らないで!」
といっても無駄なように。。

そんなこといって、怒りがホイホイ収まるようなら初めから怒ってなんかいないだろうし、
私たちにとって「怒り」は問題になってないのです。

それでは具体的にこの内に溜めても、外に出しても「手ごわい敵=怒り」にどう対処すればいいのか?

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こんな屋根の上に寝ているとは、犬には全く悩みありませんねぇ。。
文章とはまったく無関係な、緊張感のなさ。


| 向井田みお |

なぜ私は怒ってしまうのだろう? Yoga的悩み解決策① 

なぜ私は怒ってしまうのだろう?  でも、それは悪いことなのか?

Yoga的悩み解決策①


フヌヌヌー!

と怒りのマグマが内側でわいて、
そんなこと言いたくないけど、思わずいってしまう。
こんなこと人としてしたくない、と思ってもやってしまう。

そんなことはありませんか?


そして怒ってしまった後、猛烈に後悔する。


「なぜあんなこといってしまったんだろう?」

「あんな大人げない態度や行動は、我ながらありえんよ。トホホホ。。」

そんな思いに人は振り回され、反動から瞑想(迷走?)の深みにはまったり、
“考えること、感情の動きを止める”とかいう、とある教えや尊師を鵜呑みにしてしまう。

もしくは、何も考えたり思わないようにして、心のさざ波に見て見ぬふりをする。
でも、私たちのこの心のザワメキは、見て見ぬふりなどけっしてできないことも、実はみんなが知っている。


だから人は悩み、苦悩する。


Yoga哲学の最高峰の経典『ヴェーダータ』は、こういいます。


苦悩があるから、人は自由を選ぶことができる。

そして


苦悩に気がつく繊細な心と、心で起こっていることを把握できる知性と客観性が備わっているからこと、そこから飛びだし、自由を目指すことができる。

その自由は、気づいていようがいまいが、人ならだれもが望んでいること。

そのだれもが望む自由に至ることこそが、人が生きている目的である。

だから苦悩の人こそ、自由への可能性を秘めている。

苦悩を苦悩のまま、悲劇に酔いしれてしまう文学やとある哲学とは違い、Yogaの哲学は非常に明るく、そのベクトルは限りない自由へと開けている。


Yogaは実に清々しいのであります。

さて、その清々しいYoga的最終ゴールのお話はまた次にするとして、
とりあえずの私たちの気になる話題は、目の前のこの「怒り」をどうすればいいのか?

ですね。
Yoga的解決法を見てゆきましょう。


②に続く。。
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ああ、今日も感情の波に揺りうごかされ、手も足もでませんな。。


| 向井田みお |

2011年2月 4日 (金)

『プージャ(儀式)』の道具達


インドには毎日『ヴェーダ(聖典)』に従って、『プージャ』といわれる儀式をする人が沢山います。
朝と夕方、そして真昼。太陽が現れ、頂点で地上を照らし、そして沈む、3つの現象が起こる非常に吉兆な時に儀式専用の部屋“プージャルーム”に行き、儀式と瞑想をします。

そんな所ですから、『プージャ(儀式)』用品も様々な物が揃っています。私もインド人にまぎれ、“プージャ専門店”いわゆる“プージャショップ”にはかなりの高頻度で出没しております。そして行けば必ず儀式用品を購入してしまうのです。

これは何かの病?
それとも過去生での思いに突き動かされてるのか?

と思われるほどに、今まで様々な物を手に入れて参りました。

その中ごく一部をお披露目いたしましょう。
清めの水を入れる壺とカップ、御香入れ、オイルランプ、供物を捧げるお皿。

でもまあ、 『プージャ(儀式)』に最低限必要なのは
・空間を浄化するベル
・浄化の水
・火を捧げるオイルランプ
・お香
・供物を捧げるお皿
・『アラティ』という儀式の〆に行う小さい火をつける匙
くらいなのですが。

さて、『ヴェーダ聖典』によると、自分の呼吸も心臓の動きも、消化も運動も、考える機能も感情もただ1つの法則に司って動いているといいます。

その秩序を維持するダイナミックな法則は、星の動きや水の動き、空や季節の移り変わり
から、私たちの体の生理機能、心理まで、どんな所にもどんな時にも広がり、1つに繋がっているといわれます。

『ヴェーダ聖典』が書かれた目的の1つは、その大きな法則を理解し、自分がそこから離れていないことを知り、心に揺らぎない安心とゆとりをもたらすことです。

この人間的な落ち着きと余裕、大きな安心感に基づいた静けさと成熟をもたらす準備をしてくれるのが、毎日の儀式や瞑想、というわけなのです。

どうでしょう? 
毎朝しているYogaや瞑想の前に、『プージャ(儀式)』もしたくなってきませんかね?
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| 向井田みお |

2011年2月 2日 (水)

大きく、優しく、慈悲深い人間になるには?


みんながYogaをしてこう成りたい、それを目指しているという人間的魅力と境地。

それは懐深く、大きく、優しく、慈悲深く、愛が溢れ、余裕のある人間であること。
そのためは、一体どうしたらいいのでしょうねぇ?

気になっていたこの事柄に関して、
先日私の先生ダヤナンダスワミジがお話してくれました。

どうすればいいか?
どうやら方法があるしいらいのです。

ひとことでいえば、それは練習あるのみ。
その名も『Fake & Make it!(見せかけの愛から本物へ)』大作戦
    
それは、まるで今の自分がまさに理想の大きく、優しく、慈悲深い人間になっているかのようにふるまってしまうこと。まずは行動してしまうこと「Act it Out.」です。


困っている人がいたら手を差し伸べる。
たとえその手が忙しく、自分のために必要ないろいろな物をつかんでいたとしても。
相手が必要としているものを、とにかくあげる。
たとえあげたあと、後悔して泣きがはいったとしても。
批判的な人や嫌味な視線をなげてくる人も、その人たちのそうせざるをえない背景を考慮して受け入れてしまう。
どんなことをいわれても、その人はそれ以外の事ができなかったんだよな、と知ること。などなど。


こうなりたいという成熟した人間の理想があるのなら、その理想の人ならどうふるまうだろう? と考えて、そのように実際行動してしまう。

たとえそれは最初は見せかけで、偽善的であったとしても、だんだんとそれが自分の自然な振る舞いとなるまで人は成長できるそうなのです。
とにかく練習と行動あるのみ。

「優しい人間になりたいのです。」 とお星様に願いをかけるより、まずは行動をおこせと、
こう先生はおっしゃるのでありますよ。

優しい人になりたければ、優しい人のように振舞うしかない。

泳げるようになりたかったら、まずは水に入って泳ぎ練習するしかないように。

わたくし、これはかなり実践的かつ有効な手段とみました。

いろんなものをいろいろな人にあげてしまってから、たとえ「あーあ。」と思って涙がでても、成長の為にはしてあげた方がよい、そのはず! と思いこんで毎日実践しております。

いつか何をあげても、何をいわれても、ビクともしないくらいの安定感ある人間へと成長したいものです。

その人間的成熟なしに、悟りなんてまずありえませんからねぇ。。。 ホント
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*まずは牛さんに、私のデザートとなるはずだったバナナをあげてみてます。 実践が生ぬるい?
すんません、まだまだ修行中です。

| 向井田みお |

バガヴァッドギーターの原本


『バガヴァッドギーター』という経典のオリジナル言語はサンスクリット語です。
この2つのテキストがギーターを勉強する時には肝心なのです。
1つは、ギーターの詩そのものが書かれているオリジナル本(手前)
そしてもう一つ大事なのが、ギーターの詩の意味を詳しく紐解いてくれる解説本(後ろ)

では、この解説本は一体どこのだれが書いたのか?
哲学的に何派に属する人物が、どんな意図をもって書いたのか?

これを見極めるのが実はYoga哲学において大変重要なファクターとなってくるのです。

なぜならギーターの詩は、1つの言葉に沢山の意味が込められており、文字どおりの言葉の意味でとるべき個所と、隠喩されている意味で解釈するべき場所をはっきりしなければ、多分に読み間違えてしまう危険があるからです。

また自分の理解だけで詩を読んでも、その時点でその人が理解していることの範囲でしか意味をとることができず、経典の深さまで届かないことが多くあります。

現在一番インドで信頼に足る解説本が8世紀にシャンカラアーシャリヤ(シャンカラ先生)によって書かれた『シャンカラ・バーシャ』です。

この解説本の中でシャンカラ先生は、他の哲学派(ジャイナ教、物質主義者、バウッダと呼ばれる仏教のいくつか、サーンキャ、ニヤーヤ派など)の曖昧な論理と結論をビッシビシと、完膚なきまでに論破しております。

ですので、ギーターは『シャンカラ・バーシャ』を使って読み込まないと、フワフワ~とわかったような、わからんような感じで終わってしまうようです。またギーターを教えてくれるという方を見極める時も、『バーシャ』を勉強したかしていないか?がKeyになってくるともいえます。

そんなわけで、サンスクリットを鬼?兎?のように勉強している私は、これからシャンカラ先生の『バーシャ』の世界に飛び込もうと思います。
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| 向井田みお |

野ヤギを追う


昨日夕方散歩に出かけたら、野生のヤギ“野ヤギ”を発見。
ヤギは何につけても大らかな牛さんに比べて大変繊細な生き物です。

ちょっと近づくと、倍のスピードで逃げられてほぼ近寄れません。しかし、今の季節は彼らの大好物の実がなっているらしく、食べに夢中になっている彼らに後ろから接近。ここまで近寄れたのは初めてです。

この距離だと、『フェタチーズ』のあの独特のにおいがプ~ンと漂ってきます。
インドの人はヤギチーズは食さないようですが。。


さて、最近ここでみかけた野生シリーズは、“野クジャク”、“野イグアナ”、“野象”、“野ロバ”、“野サソリ”“野ブタ(ほぼイノシシ)”などに遭遇しております。
道で遭遇する生き物としては、少し規格外のスケールにインドを感じる日々であります。
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| 向井田みお |

太陽と牛のお祭り(ポンガル)


私のいる南インド、タミルナードゥ州は1月末に『ポンガル』と呼ばれるお正月のようなお祝いの日があります。

南インド風の収穫祭ともいえるお祭りですが、その主役は太陽と牛です。
食物を育て、私たちを養ってくれているすべてに感謝の儀式と踊りを捧げるのですが、この“ 踊り”に私は日本の“盆踊り”のルーツを見たような気がします。

あの独特の「チョチョンガチョン♪」のゆったりした振付と、輪になって踊る感じに、浴衣とサリーという装いの違いはあれど、共通するものがありました。


大変和やか。

クラスの前に通りかかったお寺の前では、牛さんが特別にオメカシされてお祈りされていました。

なでなでして、徳をつみましょうかね。
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| 向井田みお |

救援物資がっ!

今年はYogaをしているにも関わらず年明け早々大風邪をひいてしまいました、
というご報告はさせていただきました。

そして治ったと思ったそばから、また別の新種のインド風邪をキャッチしたりして、コジレにコジらせておりました。一時は声を失い、ご丁寧に気管支炎にまでかかり、約一カ月程超低空飛行で生きてました。

もちろんここインドの日常食カレーなどは、喉を通るはずもなく、しばらくココナツジューシュやバナナや果物で過ごしていました。
しっかし、それでは体力と抵抗力がなくなり治るはずの病がなかなか治らんのです。

というわけで、しつこいインド風邪に対抗すべく今回日本から救援物資を送っていただきました。

この写真の数々の光輝く援助物資の数々!見ただけで病気が治りそうですなぁ。
 ああ、、ありがたや~
久しぶりにお茶漬けやこぶ茶を飲んだ時の感動ったらなかったです。

病気中インド人に、やたらに「ミルクにターメリックを入れて飲む」とか、「生姜をはちみつで練ってボール状にして飲む」とかのインド風民間療法をすすめられましたが、そんなもの飲めたらまず病人ではないのです。

結果インド式療法は全く効きませんでしたが、
Made in JAPANの葛根湯と抗生物質と、梅干しが治る決め手となりました。

日本って本当にいい国ですね~
はぁ、しみじみ。


今年の日本は大層寒いと聞いております。
皆さまもどうぞお体には気をつけて。
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| 向井田みお |

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